道灌山へ
 JR西日暮里駅のホーム上に立って南西面を見ると、駅に沿うような高台がある。この高台は、大通り(道灌山通り)によって、分断されている。そのうち、開成学園が立地する田端方面の高台が道灌山と呼ばれる台地である。道灌の名は、この地に出城を築いた太田道灌にちなんでいる(「江戸名所図会」などの説)というのが一般的だが、「新編武蔵風土記稿」では、土豪・関道閑由来説をとっている。 
 一方、日暮里方面に連なる部分は、
諏訪台と呼ばれる。道灌山や諏訪台といったこれらの台地は、荒川区内で最も古い遺跡の残るところ。まだ、低地に広がる大半の荒川区域が海面下だったころ、陸地の末端として存在し先人達が生活していた場所である。それらの遺跡の代表的なものとして、道灌山遺跡(道灌山)と日暮里延命院貝塚(諏訪台)などが存在する。およそ、今の荒川区からは、イメージできないような太古の遺跡の待つ高台の散策は、まずは、道灌山からスタートしてみた。

 

▲道灌山を背後に抱える
開成学園
右手に西日暮里駅
2001.7.7


【伝説の田園都市・渡辺町
 駅を背に道灌山通りを南西方面へ進むと、右手に開成学園がある。その開成学園の背後に続く道灌山の西側斜面辺りは、かつて、名園・衆楽園などを有した佐竹藩抱屋敷があったところである。しかし、明治期以降になって、荒れ放題で孟宗竹が生い茂り、佐竹っ原と呼ばれるようになっていた。だが、大正5年(1916)、渡辺銀行の渡辺治右衛門により宅地開発が行われると、600坪のひぐらし公園を有し、上下水道・ガス・電話を完備した理想都市・渡辺町が誕生した。桜並木通りをも擁していた通称・渡辺町には、野上弥生子など多くの文化人が移り住み、大正13年(1924)には、関東大震災による校舎焼失をきっかけとして、神田淡路町より開成学園が移ってきている。その後、渡辺町は、昭和2年(1927)の金融恐慌の折に、渡辺氏の手から離れ、荒川区が誕生した昭和7年(1932)に正式に日暮里渡辺町となったが、昭和9年(1934)、日暮里九丁目に併合されている。その後、その美しい街並みは、戦災とともに一変してしまっている。
 開成学園正門を過ぎたところの本館南棟の角を右手に入る道がある。また、一つ先の西日暮里四丁目交差点から右手に入る道、さらに次の右手に入る道、これらに挟まれた一帯は、現在でも比較的整然とした区画を形成している。それは、渡辺町の名残なのだろう。三本の右手への道のうち、中央の道筋(すなわち、西日暮里四丁目交差点からの道で、富来浴場の前から千歳湯までの通り。)は、渡辺町の桜並木路だったところである。

 

 ▲かつての桜並木路
2001.7.7


向陵稲荷
 
開成学園本館南棟の立つ角の道に戻り、開成学園校舎に沿って田端方面に向かった。やがて、高校部と中学部の間を入る坂下に出る。向陵稲荷坂と呼ばれるこの坂を登りきると、道灌山の上に立つことが出来る。坂は左右を開成学園の緑に囲まれているため、夜間は特に寂しさを感じるとともに古の空気をちょっぴり味わえるような気がする。途中、左手に坂道の名のもととなった向陵稲荷神社の小さな社がある。江戸時代初期に祀られたこの神社は、この地にあった佐竹藩抱屋敷が本邸から鬼門の位置にあったために、屋敷内に設けられていたものである。その後、渡辺町の鎮守として、ひぐらし公園(現・開成中校地)に祀られ、大正15年に隣接の現在地に移転している。

 

▲向陵稲荷坂
2001.7.7


道灌山遺跡
 
向陵稲荷坂を上りきったところの右手一帯に開成学園グラウンドが広がっている。この地で発掘されたのが道灌山遺跡である。この遺跡は明治の頃より知られていたが、昭和28年(1953)の開成グラウンド新設工事の際の土器発掘をきっかけとして、翌年以降、本格的な調査が始まっている。この遺跡からは、古くは縄文前期の住居址や土器、弥生、平安、江戸期の史料が出土している。

 

▲道灌山遺跡
現地解説板より
2001.7.7


道灌山の見晴らし
 
開成グラウンドに沿い北東に向かうと崖に突き当たる。鉄道敷設によりかなり崖が削られているようであるが、今なお、低地を見下ろすことができる。現在は、遊興の人々が立ち寄った神社や杉木立・茶屋などもなく、昔を忍ぶことができないものの、景勝地・道灌山として知られた時代の眺めに少しだけ触れることが出来たような気もする。崖下の低地を埋め尽くす建物も、年々高さを増し、高低感は今ひとつであり、また、遠望も遮る物が多く、先人が経験した眺望とは比較にはならないものであろうが・・・。崖は、田端方面に続き、この道筋は、王子へとつながる近道でもあった。なお、江戸時代には、薬草取り、虫の音、土器投げ(かわらけ)が流行り、道灌山名物となったが、土器投げとともに諏訪台に行楽客をとられ、道灌山は衰退していった。

 

▲道灌山からの眺望
今でも眺めはいいのだが・・
2001.7.7

【道灌山に関する描写】

■正岡子規・・・その眺望に触れての詩・・・
            
ガリバーが小人島かも箱庭のすゑのものの人の動き出でしも
                岡の茶屋に我喰のこす柿の種投げれは筑波にとどくべらなり

■歌川(安藤)広重・・・まつ虫・鈴虫など、虫の音の宝庫に触れての画・・・
                              東都名所「道灌山虫聞之図(むしききのず)」
■長谷川雪旦・・・江戸名所図会の挿絵として・・・「道灌山聴蟲」
■月岡芳年・・・江戸時代に流行した土器投げに触れての画・・・
                              東都開花狂画名所「道灌山土器(かわらけ)」

ひぐらし坂から諏訪台へ
 
崖沿いに田端へは進まず、西日暮里に戻ることにする。来た道の向陵稲荷坂経由ではなく、開成グラウンドを右手に崖沿いを通ることとする。しかし、すぐに崖側に立つ建物によって景色は遮られてしまう。少し進むと、西日暮里駅前の道灌山通りへ差し掛かる、ひぐらし坂を下ることになる。この道は、かつて、竹や杉に囲まれ昼でも暗かったらしい。開成学園の校地が右手、左手は住宅地であるが、開成学園の木立のせいか、現在でも、夜間は寂しさを感じる場所である。個人的には、虫聴の地とされたことが、何となくわかるような気のする場所である。
 道灌山通りに差し掛かると、右手に開成学園正門までの坂道がある
が、今回は、歩道橋を通り、区立西日暮里公園に渡ることとした。この地からは、諏訪台である。
 

 

▲ひぐらし坂
通ってきた道を振り返り
2001.7.7
 


▲歩道橋より
西日暮里公園を望む。
2001.7.1



2001(C) Arakawa-City  Thinking  &  nags plaza All Rights Reserved.
アラカワシティ・シンキング