太閤秀吉の大阪城




 H28年度のNHK大河ドラマ「真田幸村」の舞台となった豊臣秀吉の大阪城は大阪夏の陣で焼失し、その址に徳川が築いた大阪城も1665年の落雷で炎上して無くなりました。 現在の鉄骨・鉄筋コンクリート造の大阪城は昭和6年に熱烈な太閤ファンの大阪市民の寄付で再建されたものでありますが、豊臣の大阪城とその跡地に築城された徳川の大阪城との位置的な関係は全く不明のままでした。
 昭和34年春に、大阪読売新聞社主催で大阪城の総合学術調査が実施されることとなり、恩師である京都大学 工学部 土木工学科の村山朔郎教授が調査団のメンバーに参加されました。 当時、村山研究室の大学院修士課程1回生であったS.A.氏と私の2名が最初の地盤サウンディング調査を担当することとなりました。
 大阪城が上町台地の堅固な洪積層の地盤に建設されたと言う従来からの定説を確認するため、Swedish coneを貫入させた抵抗値で盛り土か地山かの判定を行なうこととなりました。 結果は大方の予測に反して、天守台の立つ本丸広場はすべてが10m以上の盛り土地盤であり、上町台地の堅固な地盤上に直接構築されたものではありませんでした。 20ヶ所ほど実施したSwedish coneのサウンディング試験の中の数本は、礫以上の障害物か何かに当たった地点に注目し、ここに石垣などが存在する可能性を考慮して、その後のサンプリング採取が可能なボーリング調査の位置3か所を決定し、私どもの一次調査を終了しました。
 その後実施されたボーリング調査の詳細は、恩師村山教授から戴いた報文のコピー「地盤調査で大阪城の謎を探る」(出典不詳)の通り、ボーリング予定地3か所を標準貫入試験でより確実な位置を決定し、その結果、ボーリングの1本は現在の本丸の敷地の地下9mで豊臣時代の大阪城のものと思われる石垣を幸いにも貫通させることに成功しました。 石垣の上部の地層のサンプリングには火災跡を疑わせる炭素含有量が確認されました。 私どもが行ったSwedish coneのサウンディング試験の数本が幸運にも豊臣時代の地下10mの障害物に当ったと言う全く偶然が、その後の石垣発見に進展する契機となり、これまで全く不明であった豊臣秀吉の大阪城研究の手掛かりとして大きく寄与したものと考えます。
 当時の大阪読売新聞は太閤贔屓の大阪市民の感情を推し量って、現在の大阪城が太閤秀吉の大阪城の天守台上に更に10mの盛り土を行って豊臣の城郭を完全に覆い隠した徳川の城であると言う調査結果をその後も大々的に報道することはなかったものと記憶しています。
 現在、本丸跡に昭和34年に石垣を貫通したボーリング位置を掘削して数段の石垣とその上部の焼土層を確認したコンクリート製の円形立て坑が原状のまま現地に保存されています。 (2016/12/3)