理数教育の目的を問い直す

                                            [太田すうがく道場・日誌(ブログ)2006.11.3(文化の日)より]

まず、理数離れの傾向が見受けられると、
このままでは技術立国日本が危ない!という危機感・焦燥感に襲われます。
それから、数学・理科教育の強化→理系学生の育成→スーパーサイエンス教育、○○オリンピック選手の育成
→“エリート大学”への進学および内部競争→ … と、競争原理がどんどん加速しながら働いていきます。
そして、最後の“上澄み”として残った人材が我が国の頭脳・理系エリートと目されます。
日本の技術は彼らによって確実にリードされていくので、技術立国日本は安泰!めでたし、めでたし。

 これまでの理数教育はそんな感じがするのです。でも、本当にこれでいいのでしょうか。
理数教育はいわゆる理数秀才を作るためだけにあるのでしょうか。
これではガチガチの二元論・唯物論者ばかりを育てることにはならないでしょうか。
“上澄み”以外からも思わぬ“副産物”的人材が生まれる可能性をもっと大切にすべきではないでしょうか。
逆に、文系はなぜ数学や理科を学ぶことの意義を軽視するのでしょうか。
数学や理科を通じて人生や人間の本質を問い直すような教育は存在しないと考えているのでしょうか。
数学・理科を文化の一側面として捉えた、もっと奥の深い教育はできないのでしょうか。
そして、我が国の将来の平和的繁栄は技術と文化の両面の充実にかかっているのではないでしょうか。

 そのためには、理数教育をもっと柔軟で、多様的で、肩の力のぬけたものにすべきだと思います。

<追記>
@2005年末、隣国でノーベル賞級と目されていた科学者に論文捏造事件が発覚し、全世界を失望させましたが、
 我が国でも同様の事件が起きているようです。これも理数教育の歪みを象徴する事件であるように思います。

A科学の基本はやはり自然科学ですし、それと密接不可分に発展してきたのが数学です。
 科学・数学とは何かを学ぶと同時にその限界を知ること、
 その歴史を知ること、
 厳密な論理性が要求される思考を通じて自己と対峙することは、
 人文・社会科学その他の分野にも有用な学力基盤が形成され、
 人生や人間の本質を問い直す教育にも繋がることと思います。

B利根川進博士(免疫グロブリン構造の解明で1987年ノーベル生理学医学賞受賞)が
 あるパネルディスカッションで哲学教育の必要性を訴えておられました。
 私が提唱するのもいわば「理数教育の中に哲学を観る教育」です。
 私は、偏差値には実質的な飽和点が存在し、
 あるレベルを超えるともう学力指標としての意味を失うと考えています。
 中村修二博士(1993年青色発光ダイオードを発明)が“アクロバット的”大学入試の廃止を訴えておられるのも
 そういうことだと思います。
 その点を忘れて、偏差値競争の“上澄み”にばかり期待しても、
 結局、視野の狭い利己主義者集団が量産されるだけで、
 一般民衆を利する真のエリートがほとんど育たない結果に陥りはしないでしょうか。
 文化の発展という側面を蔑ろにした理数教育は科学至上主義・経済至上主義を助長するだけで、
 決して我が国の国際的地位の真の向上、平和的繁栄には繋がらないと思います。


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