量子力学の“難しい”を考える

〜和田純夫著『量子力学が語る世界像』(講談社・ブルーバックス)を読んで〜

[太田すうがく道場・日誌(ブログ)2005.6.28より]

 量子力学の難しさがどこにあるのか、ということから、

量子力学の科学としてのベースをどのように捉えればよいのかを考えてみました。

つまり、量子力学の実証科学としてのベースを正しく捉えれば、

パラドックス・解釈論争などが本質的な問題でないことが明らかになるのではないか、

と考えました。


T 量子力学について考えたこと

1.量子力学の大筋をまとめてみると以下のようになりました。

(1) 古典力学では理解できない電子の挙動
箱の中にある1個の電子が、箱の左半分で観測されるか、右半分で観測されるかは、確定的に予測することはできず、左右での観測頻度の割合について一定の規則が見出されるのみである。
また、電子を1個ずつ打ち出した場合でも、2つのスリットを持つ板を通過してその後ろのフィルム上に現れる電子像には干渉縞が観測される。

(2) 上記観測結果に対し、量子力学は次のように説明する。
@観測前は、1個の電子がAの位置にある状態、Bの位置にある状態、…といった複数の状態が、ある度合いで共存する。これを数式で表記すると、例えばシュレディンガー方程式という波動方程式となる。すなわち、各位置での共存度を示す集中波が合成された一つの波を想定する。
これによれば、観測頻度の割合を正しく予測することが出来るし、電子1個において干渉現象が観測されることなども説明できる。
Aしかし、観測直後は電子の位置はひとつに確定するので、それまである広がりを持って考えられていた波が一点に集結する形をとらざるを得ない。
これについていわゆるコペンハーゲン解釈は観測と同時に「波は収縮する」と解釈する。
これに対して、観測点から離れた位置の波が観測と同時に変化する奇妙さと、波の収縮を引き起こす「観測」とは何なのかという疑問から、例えば、多世界解釈は、電子、観測者、観測装置…などすべてを1セットとし、この1セットについての複数の状態が、ある度合いで共存するものと捉え、各状態の共存度を示す個々の波が合成された一つの波を想定する。また、「観測」は痕跡の修復が不可能となった状態にすること、と捉える。そして、「観測」があっても波が収縮するのではなく、各状態の波はなお存続しながらも分岐し、互いに干渉しあえない関係、すなわち別の世界になっていくと考える。

2.これについて次のようなことを考えました。

(1)「観測前は、1個の電子がAの位置にある状態、Bの位置にある状態、…といった複数の状態が、ある度合いで共存する。」…?
確かにこれは難しい!しかしよく考えてみると、そもそもそんなことは我々人間が日々体験している世界にはあり得ない存在形式であって、"腑に落ちない"感覚が拭えないのは当然なのではないか。

(2)この電子の状態というのはあくまで観測前のものだから、実証科学という立場からすれば、これは科学の地平線のぎりぎり向こう側をあえて表現したものであり、こちら側の現象を外掃した先のいわば虚像なのではないか。しかし、虚像ではあってもそれは科学の本質上止むを得ない表現方法であるし、それによってこちら側の現象が正確に予測されるのだから、完成された科学理論と言える。

(3) 光が干渉や回折といった波動的挙動を示しながら、媒質エーテルの存在が認められなかったのも、光子のいわば虚像を見ているからとは言えないか。

(4) シュレディンガー方程式の成り立ちを考えても、まず粒子に関する従来の物理法則(古典力学)の式を考え、その式の中で
「電子の速度」→「波の波長の逆数」、「電子のエネルギー」→「波の振動数」
という置き換えを行って作った式であるというから、純粋論理的に積み上げて作ったものではなく、アナロジ−的な考え方からいわば当て推量的に作ったもので、にもかかわらず、不思議なことにこれが実際の現象を見事に予測するものであったのである。

(5) 従って、観測によって波が収縮すると考えるコペンハーゲン解釈にしても、波はそのまま存続するが互いに干渉しなくなると考える多世界解釈にしても実際の現象を正確に予測するための便法であって、どの解釈を採るべきかは、あくまで使い勝手のよさとか違和感の少なさなどで決まるもので、いずれが真理かを問うべきものではないように思われる。

U 和田純夫著『量子力学が語る世界像』(講談社・ブルーバックス)の感想

1. 波は粒子とは異なり、無数の歴史を内包するものであることがホイヘンスの原理から理解できること、大学の教科書では具体的イメージが掴みにくいハイゼルべルグの不確定性原理についても一般的な波の性質として理解できることなどがとてもわかりやすく説明されており、まさに"目から鱗"の快感を覚える一冊でした。

2. しかし、著者が、「実在」は人間の観測を越えた存在でなければいけないとし、多世界解釈の立場に基づき、量子力学が表している世界、つまり共存している状態の全体を「実在」と捉えようとしている点には実証科学の立場から納得しがたい思いが残りました。人間の観測を越えた部分の想定はあくまで人間の観測結果を予測するための便法と考えるべきで、これを実在と考えることはやはり科学の本質を歪める危うさを感じます。そこまでして主体に影響されない客体という考え方を保持すべきなのか、改めて考えてみる必要があるように思います。

3. また、著者はアインシュタインの「神様はサイコロをふらない」という要請に応えるべく「確率」という概念も量子力学から切り離します。すなわち、コペンハーゲン解釈のように「確率解釈」という天下り的な仮定を用いず、観測前の共存している各状態の「共存度」から直接、いわゆる確率的現象を説明できるとしています。
しかし、当時のコペンハーゲン学派の研究者は、科学の地平線の向こう側にある得体の知れない「共存度」なるものをそのままこちら側に持ち込むことを避けて敢えて「確率解釈」を天下り的に持ち出したとは考えられないでしょうか。

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