科学の限界
〜志村史夫著『こわくない物理学〜物質・宇宙・生命〜』(新潮社)を読む〜
[太田すうがく道場・日誌(ブログ)2005.12.13より]
私は『量子力学の“難しい”を考える』で述べたように、
量子力学においてコペンハーゲン解釈か多世界解釈かという議論は
所詮科学の水平線から向こう側の話であって、実証科学という立場からはあまり意味がなく、
単に観測結果を説明する便法としてどちらが落ち着きがいいか、
というだけのことではないかと考えました。
そして、この問題に対して同様の見解を持っておられる方はいないのか、
現代科学の観点から科学の本質について説明した書籍を捜していたところ、
志村史夫著『こわくない物理学〜物質・宇宙・生命〜』(新潮社)を見つけました。
1.科学の限界について
同書には「科学の限界」という項で次のようなことが述べられていました。(◆は引用、※は私のコメントです。)
◆1957年、アメリカのプリンストン大学の大学院生だったエヴァレットは量子論を宇宙のスケールにまで拡大し
「並行宇宙論」を提唱した。
※これは量子力学の多世界解釈のことです。
◆さて、複数の宇宙が同時進行しているとすれば、他の宇宙はどのようなものだろうか。
われわれは、そこへ旅することができるのだろうか。
この点だけははっきりしている。
並行宇宙はそれぞれが完全に孤立しており、少なくとも現在われわれが持っている能力、技術では、
互いの情報交換は不可能だから、他の宇宙のことは知る由もないし、他の宇宙へ旅することも不可能である。
それでは、他の宇宙はどこにあるのだろうか。
それは、われわれの宇宙から1センチメートルの至近距離にあるのかも知れない。
あるいは無限遠にあるのかも知れない。
しかし、それがたとえ1センチメートルの距離にあっても、そこに行き着くのは不可能であろう。
それは、われわれが存在する「この世界」「この空間」で測られる距離ではないのである。
いずれにせよ、"われわれ"の宇宙と完全に無関係の宇宙について、
われわれが"われわれ"の科学と技術によって理解すること、そして実証することは不可能である。
※さらに、宇宙創成にまで遡って「ビッグバン宇宙論」「定常宇宙論」などに触れ、
◆いずれにせよ、「宇宙創成」を"われわれ"の実験室で再現、実証、確認するのは不可能であり、
いくら数式で飾ったとしても、結局のところ形而上学的な「学説」にならざるを得ないのではないだろうか。
※以上述べられていることは、私の見解と整合しているように思います。
※なお、この本はさらに「生命」にも触れ、ベルクソンの「生命哲学」の概要を紹介した後、
◆つまり、科学はあくまでも、実在認識のための知性的な手段であり、
そのような手段によって、「物質から生命へ」を知ることができるとは、私には思えないのである。
ベルクソン流にいえば、真実を知るには、内からとらえる哲学的認識が必要であり、
そのためには、知性以外の認識能力、すなわち、"直観"を用いなければならない。
いうまでもないことだが、ベルクソンの著作が極めて理知的で、分析的であることからも明らかなように、
ベルクソンは知性を否定するものではないし、知性の重要性も強く主張しているのである。
◆有機体の生物を無機体の結晶と分かつ根源が生命であり、
その生命が「物質を組織し、個体を形成し、種を形成していく無限の力であり、
どこまでも自己を創造していこうとする目に見えない意志」であるとすれば、
前述のベルクソンがいうところの人間の知性で生命を理解しようとするのは無理なのではないか。
目に見えない意志を科学で理解しようとするのは無理ではないか。
物質と生命との境界には文字通り人智を超えた大きな壁が横たわっているように思われる。
※と述べられ、ここでも「科学の限界」を示しています。
2.科学・宗教間の補完
しかし、私は量子力学の多世界解釈を、科学の立場を超えて個人の信条・宗教の立場で見れば
大変興味深いものを感じます。
それは、大乗仏教では数多くの仏様がいらして、
それぞれの仏様が自らの浄土を持っておられると考えられており、
多世界解釈はこの世界観と思想的類似性を有しているように思われるからです。
科学を超えたところの大いなる存在を信じ、
謙虚に且つ心豊かに充実した人生を送るためには揺るぎ無い宗教観が必要です。
科学の延長線上に構築した多世界解釈のような思想は
科学と宗教の間を補完するものとして大きな意義を持つとは言えないでしょうか。