授 業 参 観
〜「命題と論理」演習授業〜
【問題】命題P「a≧0かつb≧0ならば、ab≧0 (a,bは実数)」の対偶命題P’を作り、その真偽を示せ。
S:元の命題Pは明らかに真ですが、その対偶命題P’が真になりません。
T:そんなことはあり得ないのですが、どうしてですか。
S:対偶命題P’は「ab<0ならば、a<0またはb<0」となりますが、「a<0またはb<0」というのは「a<0かつb<0」を含みますよね。
でも、ab<0ならば、a<0かつb<0になることは絶対にない。
T:うーん。頭が混乱してきたので、ちょっと整理してみます。
「AまたはB」というのは、@「AかつB」,A「Aかつ¬B」,B「¬AかつB」のいずれかということですよね。(¬は否定の意)
だから、確かに「AまたはBならば、C」という場合は、@,A,BのいずれであってもCが成り立つ、ということになります。
しかし、「Dならば、AまたはB」という場合は、Dであれば@,A,Bのいずれかは必ず成り立つ、ということであって、
@,A,Bのいずれも成り立つということにはなりませんよね。
対偶命題P’の場合も、ab<0ならば、「a<0かつb<0」,「a<0かつb≧0」,「a≧0かつb<0」のいずれかは必ず成り立つ、
と言っているのですから、真ということになります。
でも面白いことに気付きました。「AまたはB」が仮定にある場合は@,A,Bの「いずれであっても成り立つ」となるのに対して、
結論にある場合は@,A,Bの「いずれかは必ず成り立つ」となるんですね。
S:それにしても対偶命題P’は真とは言え、a<0かつb<0の余地を残していて、元の命題Pに比べてすっきりしないですね。
T:それは、命題Pだけを出発点として論理を展開しても
「ab<0ならば、a<0かつb<0ではない」という命題は導き出せないということだと思います。
これを導き出すには別の出発点「四則の公理」が必要です。
数学は無定義用語および説明なしで真とする公理という命題を出発点として論理展開することになりますから、
公理の設定如何で様相が変わります。
例えば、ユークリッド幾何学の「平行線の公理」に変更を加えることによって非ユークリッド幾何学という別の体系が出来上がりました。
S:球面ないしは鞍型の面のような曲面の幾何学ですね。
T:ところで、先ほどの話に戻りますと、
「a<0かつb<0ならばab>0」という命題が初めから揺るぎない確固たる地位を持って存在していたわけではなかったようです。
16世紀の数学者カルダノは、マイナス×マイナス=プラスの規則は誤りだと主張したことさえあるそうですし、
当時ローマの数学教授クラヴィウスは次のように言ったそうです。
「プラス・マイナスの掛け算の規則を証明するのはやめた方がよい。
この規則の正しい理由を理解できないのは人間の精神の無力によるというほかはない。
しかし、この掛け算の規則が正しいということには疑問の余地がない。
なぜなら、それは数多くの実例によって確かめられているからである。」
【遠山啓著『数学入門(上)』(岩波新書)】
要するにこの規則は論理的にどうしてもそうでなければいけないというものではないんですね。
でもこの規則に従えば正の数で成立する式が負の数でもそのまま使えるという実例が数限りなく存在します。
クーロンの法則などもその例です。
また、この規則を曲げて数学の体系を作り直すとすれば四則の公理の「分配の法則」を放棄しなければならず、
数式の取り扱いがきわめて煩雑になります。役に立たずかつ扱いにくい数学なんて意味がありませんよね。
S:先ほどの非ユークリッド幾何学が公理変更の成功例であるのに対して、これは失敗例ですね。
T:それから私、この問題から数学と論理学との関係に思い至り、ふとラッセルの論理主義のことを思い出しました。
数学を論理学の一分科であるとみなす説で、現在では重要視されていないそうですが、
数学と論理学との関係を理解する鍵がそこにありそうな気がして、
その辺りのことについて書かれている本をちょっと読んでみたくなりました。