『脳と仮想』整理ノート
〜茂木健一郎著『脳と仮想』(新潮文庫)を読んで〜
1.整理ノート作成の目的 脳科学者・茂木健一郎氏がどのように物的現象の垣根を越えて 心的現象、計量化できないクオリアまでを含めて「科学」的に取り扱おうとしているのか、ということに非常に興味があって、 そのヒントを得るために本書を読んでみることにしました。 しかし、この『脳と仮想』という著書は、 いわゆる科学啓蒙書のように科学的知識を一般の人にもわかりやすく噛み砕いて伝えることを目的としているようなものではなく、 いろいろな文学作品にも触れ、“心のひだ”のような部分にまで分け入って切々とその考察を述べている作品なので、 正直、一読した段階では何やら狐につままれたようで、この作品が一体何を訴えようとしているのかがよくわかりませんでした。 そこで、本書をもう一度読み直しながら、上述した私の興味の核心と繋がっているかもしれないと思った部分を抽出し、 それとは直接関係がないだろうと思った部分は思いっきり切り捨ててまとめてみることにしました。それが下記の整理ノートです。 したがって、文学的な奥行きを持った考察部分はほとんど割愛してしまっており、 この作品そのものの概要には必ずしもなっていないかもしれません。 2.整理ノートを作成して思ったこと 結論的に言いますと、茂木氏が新たな「科学」基盤をどのように構築しようとしているのか、 その哲学的構想・見通しが本書からは残念ながらわかりませんでした。 まず、「科学」と称するに値する学問体系としては、やはり 状態の認識において主観的な相違が生じず、反復して同じ結果が得られること、 は必須要件だと思います。 この点について、心的現象を「科学」の対象にすることは極めて難しい、といいますか、 本質的に出来ないのではないかという気がします。勿論、基本的に物的現象を対象としてきたこれまでの科学では無理です。 科学における数量化・計量化は客観化の手段でもあるわけですから、 計量化できないクオリアをどのように客観化するか、という点についてその糸口を示せなければ、その先一歩も進めません。 茂木氏は「私たち一人一人にとっての絶対的与件は、世界が根本的に断絶していること」と述べ、 「他者の心は断絶の向こう側にある」と言っていますが、 では「科学」として心的現象をどのように客観化しようと考えているのかという点については言及されていません。 物的現象の場合は、 たとい「現実自体」は決して知り得ず、我々が知り得るのは意識の中に現れる「現実の写し」でしかないとしても、 私たちの意識の中に現れる様々な表象が、複数の経路を通って一致し、ある確固とした作用をもたらすので、 その「現実の写し」を計量化することができ、 したがってそれを「現実」として扱っても、誰しも共通のものを「現実」として捉えることが出来るので問題がないわけです。 しかし、心的現象は茂木氏の言う、「現実」という安全基地を持たない「仮想」ですから、 客観化という問題は本質的に難しいだろうと思うのです。 小林秀雄氏の著作を読んでみなければよくわからないのですが、 小林氏が怒っているのは、もしかすると「経験主義科学」や「心の随伴現象説」そのものにではなく、 それこそが我々の生きる世界を完全無欠に記述するものだという「科学万能主義」に対してではないのでしょうか。 科学はこの世界の客観化という制約の下に構築された世界記述の便法にすぎないという観点に立つのであれば、 「経験主義科学」や「心の随伴現象説」を非難するいわれは何もないだろうと思うからです。 集合論の公理の無矛盾性を証明して完全無欠の数学体系を構築しようとしたヒルベルトの夢は ゲーデルの不完全性定理の証明によって打ち砕かれました。 人間の理性には無限の可能性があると信じたい。真理に限りなく近づけると信じたい。 確かにその思いは切ないほどの知的欲求として人間の心の奥底から尽きることなくこみ上げてきます。 しかし、宇宙意志は果たして我々人間にどれほどの知る権利を認めておられるのでしょうか。 もしかするとその多くは見果てぬ夢なのかもしれません。 |
◆整理ノート |
序 ●クオリア(質感)の問題との出会い →物質である脳から様々な主観的体験に満ちた私たちの心がどのように生み出されるかという謎に取り組む。=心脳問題 |
T @科学的世界観 =数、方程式で表せる世界観。経験データの重視:「経験主義科学」 ⇒「計量できる経験」だけに絞る。計量できない経験(クオリア=感覚質)は対象外。 心脳問題→方法論的に歯が立たず、取り組みを怠る。 ⇒科学万能のイデオロギー下では科学的問いに乗らないものは存在しないことになる。 心の随伴現象説(脳科学の通説) =物的現象と心的現象は密接に関連するが、平行していて影響を及ぼし合わないから、 物的現象の記述で必要十分であり、心的現象はその随伴現象にすぎないとする説。 →小林秀雄氏は このような「経験主義科学」のやり口に対して本気で怒る。 同氏の科学批判は科学という営みの全否定ではない。 むしろ、科学という営みの探究の対象を広げ、人間に見える世界を広げていこうという積極的提案でもある。 A心の志向性 =私たちの心が何かに向けられている状態のこと。 これにより心は脳内現象であると同時に、脳という空間的限定から解放された存在となる。 すなわち、 その志向性が仮想を担い、人間の精神の歴史は仮想の世界の拡大の過程(仮想の系譜)において捉えられる。 |
U ●仮想について(1) 私たちの生活体験は現実と仮想の織りなす布のようなもの。 仮想とは本来目に見えないもので、「真理」「美」「善」なども全て仮想の世界の要素。 (「真理」を世界のどこかにある客観的存在と考えるのは人間の素朴な思い込み。) 私たちの精神は頭蓋骨の中の「今、ここ」の局所的因果性の世界と、 「今、ここ」に限定されない仮想の世界にまたがって存在する“二重国籍者”。 |
V ●仮想について(2) 従来の認知の枠組みでは対処できない体験→脳が大規模な再編成を余儀なくされる。→創造 仮想は厳しい人間の生存条件の中で心が傷つき、その傷が治癒される際に放射される光のようなもの。 |
W ●「現実」と「仮想」 「現実」とは、私たちの意識の中に現れる様々な表象が、複数の経路を通って一致し、ある確固とした作用をもたらすとき、 そのような作用の源のことであり、 私たちがその上に立って生きる上での確固とした基盤を提供してくれるものである。 これに対して「仮想」は確固たる基盤を持っておらず、自由。 意識の中に現れる「現実の写し」のクオリアを「現実」と呼び、それを「現実」として扱うことで、 決して現実自体は知り得ないこの世界の中を生きのびて行く。 そして、 数という「仮想」によって構築された数式の世界に現実の世界がなぜか従うことから、 「現実」と「仮想」の間には一筋縄ではいかない関係があると言える。 |
X ●クオリアの平等 どんな主観的な体験もクオリアという観点から見れば、本来平等なユニークさを持つ。 ある事象を、それが位置付けられている社会的文脈から離れて、 その事象が私たちの心の中に生み出すクオリアに即して把握する「クオリア原理主義」の立場に立った時、 初めて見えてくる世界がある。 |
Y ●断絶の世界 私たち一人一人にとっての絶対的与件は、世界が根本的に断絶していること。 その断絶を何とか乗りこえて他者と行き交おうとする中で、私たちは他者の心という仮想を生み出す。 それが、私たち人間が生きるということである。 |
Z ●思い出せない記憶 過去の長い進化の歴史の中で私たち人間一人一人の身体組織に刻み込まれた様々な痕跡、 膨大な過去の蓄積としての言葉。 これらの巨大な仮想の上に「今、ここ」の私は生きている。 だから、未来志向であることと、過去の歴史を尊重することは矛盾することではなく、一つの生きる態度となり得る。 |
[ ●仮想の系譜 身の回りにあるごくありふれたものの間にある深い関係を知るには、 仮想の系譜にさかのぼり、仮想の系譜に分け入り、 私たちが慣れ親しんだものたち一つ一つの生成の現場にもう一度立ち会わなければならない。 |
\ ●魂の問題 疑い得ない自分の「魂」の存在に立脚して、この世界の在り方について考え、自分の生き方について考えてみるしかない。 自分の魂に寄り添ってみるしかない。(もう一度デカルトの道を辿らねばならない。) 私たちの魂は現実的世界とプラトン的世界の間の二重国籍者だが、 現実自体も魂の中での現れにおいてはまた仮想だから、 私たちは様々な仮想に導かれてこの現実の世界を生き、やがて死んでいく存在、仮想を生きるしかない存在。 |