1.
偏差値はある一定水準を超えるまでは学力の指標としての意味を持ちますが、その水準を超えてしまいますと、
最早それはその先の勉学・業務に有意義な学力とは無関係の、単なる点取り能力を示すものでしかなくなるということです。
このようなことはTOEICなどでも聞いたことがあります。
子供たちと一緒に入試問題を解きながら、
「所詮人為的に仕組んだにすぎないこんな問題をスピーディに解くことにどれだけの意味があるのだろう。」と首をかしげたくなるとき、
「もうこの辺りの争いが偏差値の飽和点かな。」と感じます。
「数学は解法の暗記だ!」と言ってのける数学教師もいるようですが、
「では何のためにそんなものを覚えなければならないのか?」と問い返したら「合格するため」と答えるんでしょうか。
もし本当にそんな程度の答が返ってきたら、もう真面目に相手にするに値しません。手段を目的とすり替えてうそぶくわけですから。
フィールズ賞を受賞された数学者小平邦彦氏も著書『怠け数学者の記』の中で、
開成中学の算数の問題を制限時間の50分で完全に解くことができなかったことを述べられ、「急ぐ」教育の問題点を指摘されています。
また、ノーベル賞級と言われている青色発光ダイオードの発明者中村修二氏もアクロバットのような大学入試のあり方に疑問を呈して
おられます。
その他、最近各界で頭角を現し、活躍されている方々の経歴を見ても、出身校は幅広く、
マスコミの報道や教育業界の広告にいつもトップに名前の出る特定大学ばかりでないことはすぐわかります。
そんなことは近年の社会の多様化、および偏差値に飽和点が存在することなどを考えれば当然なのですが。
逆に、マスコミの報道や教育業界の広告にいつもトップに名前の出る特定大学出身者が集まっているのは
決まって既にシステムや地位が出来上がっている分野で、ゼロから新しく価値を産み出そうという分野ではありません。
もし、偏差値飽和点を超えた競争が、実は“美味い汁を吸う”ための争いだとすれば、
それはもう、自らの身を犠牲にしても祖国を正しい方向に導く真のエリートの養成とは程遠いものです。
2.
学力テストというものは基本的には既存知識についての本質を十分理解しているか、
具体的な問題に対してその知識を円滑に適用する能力を有しているかを判定するものです。
しかし、競争が激化した場合、その目的を超えて単に振り落とすための手段として機能してしまうため、
本来の学力とはあまり関係のない部分の鍛錬が必要になることにもなります。
例えば実質的な意味もなく学校名などにこだわり、無益な競争に知的エネルギーを消耗することによって、
その先の本当にやらねばならないことまで行き着かなかったり、
既存知識に関する過度の反射的訓練を受けて、既存知識に対する批判精神を喪失し、
新たなものを創造、発見する能力が阻害されてしまったりしては、まさしく本末転倒です。
3.
これまでの教育の歴史・経緯を見れば、制度が良識あるものに成熟していくことはまず期待できません。
そして、世間の価値観はいつも愚かです。
一切の競争から逃げることは決して得策ではありませんが、
各競争の中で「偏差値の飽和点」が一体どの辺りにあるのかを常に見据え、適切に行動する冷静さは必要だと思われます。
自分の学びを守るのは自分と自分の周りにいる極少数の良識ある人たちしかいないのですから。
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