立花隆著『東大生はバカになったか』を読んで

                                                                                       (2008/05/23)     

最近巷で行われている進学競争が真理・学問への憧憬からではなく、
ただ低次元の世俗的欲望から生じているという現状を知らされる度に
そもそも日本における高等教育とは何か、日本の大学は果たして本当の大学なのだろうか、という疑問を抱くようになりました。
そんな折、書店で立花隆著『天皇と東大』(文藝春秋)を見つけ、これを読み始めたところ、
これは『文藝春秋』に連載された「私の東大論」の5回目以降の内容で、その前の4回分に大学論と教養論が論じられており、
それが立花隆著『東大生はバカになったか』(文春文庫)に収録されているということだったので、
それを先に読むことにしました。
タイトルが少々過激なために不遜な印象を受け、出版当初はあまり興味がなかったのですが、
実際に読んでみると、内容的には日本の高等教育の問題点を的確に捉えた著書でした。
そして、同書の多くの個所と一致する自分の見解は、どうやら荒唐無稽な考え方ではないようだという自信も湧きました。
(勿論、100%同氏の意見・姿勢に賛同できる訳ではありませんが…。)
そこで以下に、私の独断で同書の骨子を整理しつつ、そこに私の意見(のある
色の箇所)を添えることによって、
自らの教育活動の指針を再確認することと致しました。


1.大学入試改革の必要性
●大学教育水準のクオリティ保持の必要性
 大学の収容能力>志願者数
 ⇒大学が学生に媚を売る。⇒入学を易しくする。受験科目の削減 ⇒特に科学技術に関する著しい知識水準低下
                                         (科学は現代教養の基礎であると言うのに何たることか!)

入試選抜の多様化と称して、そのほとんどが実質、低学力学生の“青田買い”だという印象が正直否めません。
 そもそも勉強が好きでもない子までがなぜ最高学府たる大学への進学を目指さなければならないのでしょうか。
 大学は、学問好きの“変わり者”が行く所で現世利益など得られないという世間的評価を受けるようになった方が
 ずっと健全な高等教育機関になるのかもしれません。

 
●暗記中心教育からの脱却
子供たちの多くは「覚えること」と「わかること」の違いがよくわかっていません。
 その違いに気付かせ、真に意味のある学びを会得してもらうことが教育の大きな柱のひとつであると思います。


2.文部科学省による教育支配の弊害
●横並び、画一化

国家主導の教育ということは、
 あの品性のない政治家(屋?)や既得権にしがみつくエリート意識の塊のような官僚が考える教育ということですから、

 
ろくなものにならないのは火を見るよりも明らかなのですが、
 これに終止符を打つには、民側にこそ知性に対する高い意識がなければなりません。

 
しかし、現状は、
 虚栄心を刺激して学歴競争を煽る進学塾、進学実績を広告に学生を集めようとする私学、その情報に振り回される親たち…。
 齢を重ねてしみじみ思うのですが、所詮、世間の常識なんて非常識なんですね。信じると馬鹿を見ることが多い気がします。
 だから、これからは世間の常識・雑音に惑わされることなく、真実は何かをしっかり見極め、
 孤独感という大敵と闘いながら、ひたすら真実の道を突き進むのが最善の生き方・学び方であるように思います。
 
●「ゆとり教育」=大衆迎合的な教育水準の切り下げ
「ゆとり教育」というものが、
 根無し草のような知識を単に詰め込む教育から、
 徹底的に「なぜ?」を考えさせ、それについて論理的自己主張がしっかりできるようにする教育への変換であれば
 正しかったのですが、
 実際はただ、知的好奇心を削ぐまでに学習内容を削減するだけのものになってしまい、
 文部科学省という役所には教育哲学のかけらもないことを改めて露呈してしまいました。


 
皆さん、ご存じでしょうか。高校数学の教科書に周期的に現れたり消えたりする幽霊のような単元があることを。
 そう、ド・モアブルの定理が登場する複素平面です。あれはオイラーの公式にも繋がる感動的単元で、
 あれに数学の不可思議さを感じ、その魅力の虜になった学生も少なくないと思います。
 また応用分野での実用性も極めて高く、高校数学においてこの単元を軽視する理由がどこにあるのかさっぱりわかりません。
 二乗すると-1になる数をiとするということだけ教えて終わり!では、単なる思考の遊戯にしか見えないでしょう。
 文部官僚は学びの中にロマンを感じることがないのだろうかと首を傾げてしまいます。
 落語の『目黒の秋刀魚』じゃあるまいし、旨味を抜き取られたネタばかり食わされたのでは堪ったものではありません。


3.日本高等教育におけるリベラル・アーツ(一般教養)教育の崩壊
●リベラル・アーツ教育の必要性
 →学問の細分化・断片化から文理に亘る知の総合化へ。
 →知識の単純化=実体と特質を見失うことなく、精髄の総合を目指す。(オルテガ・イ・ガセット)=自然の解釈者

私も、自分の専門分野のひとつ先もわからないまでに専門化する専門教育には意味がなく、
 他分野の内容であっても
自分の中にある基本的知性によってその骨子を理解することができる能力が必要だと考えます。
 それゆえ、当サイトは、学問の大衆化を旗印に、専門外のテーマや高度なテーマであっても臆することなく、
 自分の身の丈のままでその本質を掴む技術・方法を確立していくことを目指しています。

●異分野との接触によって生まれるシナジー(相乗)効果、知的化学反応→創造性
 
「知的化学反応」という感覚はわかるような気がします。
 その時は十分理解できていないこともとりあえず頭に入れておき、暇を見つけてはそれを頭から取り出して咀嚼していると、
 それが次第に既得の知識と融合し熟成して当初見えなかったものが見えてくる、あの知的現象のことだろうと思います。

●大学=学び方、自立した学習者になることを学習するところ(自己学習能力の獲得、自分が自分に与える教育)
我がすうがく道場の学習指導で目指しているのもまさしくこのことです。
 しかし目先の結果ばかりを追い、単なる知識を教え込むことが教育だと勘違いしている人は少なくないように思います。


●知る過程で身に付けた能力、享受する能力=教養→単なる「知識」は教養ではない。哲学的思索が大切。

これも「わからないことをわかりやすくする工夫こそが学びだ!」、「ロマンチックに学ぼう!」という
 我がすうがく道場の指導理念と一致します。
 でも、問題がなかなか解けずに苦悩する時間を無駄だと考えて、速く解き方を読んで覚えて先に行きなさい、なんて
 子供に指導してしまう無粋な親、いますよねぇ。


<日本の状況>
●日本の大学における専門課程教員によるリベラル・アーツ教育潰し→日本の知力低下

自分の大学時代を思い起こすと、一般教養教育は専門教育と全く遊離していて、形骸化していました。
 例えば、量子力学などは科学基盤において古典物理学と大きなギャップがあって、
 いきなり技術研究者から本題の講義を聴いてもすんなり受け入れることは難しいので、
 科学哲学や論理学の研究者とエネルギー科学の研究者によるジョイント講座をやったら良かったと思うのですが、
 大学、専攻の垣根を超えたそんな開放的な雰囲気は当時ありませんでした。
 研究室に配属されると、大学は研究室単位の徒弟社会であることを肌で感じ、強烈な閉塞感を感じたのを覚えています。
 セクショナリズムは学問を真に愛していない三文学者の保身術に起因するものであって、
 健全な知性の育成を阻害するものでしかありません。
 

●日本の大学→自由学芸のための教育の場という伝統を持たない。
 @奈良時代には中国に倣い、東洋的専制主義を支える官僚機構を維持していくための機関(大学寮)。
 A明治時代からは早急な近代国家作りのための人材育成を目的として設立された国家主導型教育機関。
  東大(特に法学部)=国家が設立した官吏養成のための官学→官僚主導国家・法律職偏重主義,民側の気力の欠如

日本の大学は本来、国民の知的エネルギーの結集による自然発生的高等教育機関ではなく、
 国家の都合上、人為的に作られたものにすぎません。
 これを将来、諸外国にも誇れるような本物の高等教育機関に育てるつもりであるならば、
 これまでの軽薄な学歴競争の対象としてのイメージを払拭し、真に学問を愛する学徒の集う場として、
 そして欧米の物真似ではなく、
 東洋および日本の学術・思想・文化を、誇りを持って発信できる高等教育機関へと変革すべきだと思います。


●大学の2つの流れ=実学と理学
 実学=パンのための学問,教養=パンのための学問にあらず。いわば“何の役にも立たないもの”。
 →日本の大学は実学傾向が強い(工・法・経・農・医)。
 特に東大法学部卒は教養に無関心な人たちで、教養がない。
 日本の高等教育における道理教育の欠落(明治維新期より)→東大法学部卒の醜悪なスキャンダル

エリート養成の大学と銘打つのであれば、道理教育は絶対に必要でしょう。
 当然のことですが、エリートとは「国家の繁栄と国民の幸福を追求するリーダー」をいうのであって、
 「自らの有利な立場を利用して個人的欲望を遂げる人」のことではないからです。
 国家と国民のためには自己犠牲も辞さないという崇高な気迫を持った有能な人材の育成にこそ、国費を投入すべきであって、
 我欲の塊のような人間の輩出ならぬ“排出”に国民の血税が使われたのでは堪ったものではありません。

4.ユービキタス大学の時代へ
●大学による高等教育独占時代の終焉
 大卒資格の形骸化、メディアの発達、教育機関の多様化

出版物の充実、通信手段の発達、教育形態の多様化等により、学びの自由化が今後ますます進むでしょうから、
 既成の学びのルートでないところから意外な実力者が現れることが珍しくない時代になるだろうと思います。


●「知の世界マップ」を頼りに知の海の航海に出よう。

ここで、私の“読書と思索の旅行パンフレット”、“学問のパノラマ”構想との思わぬ一致を見て、少々嬉しくなりました。
 もっとも私が考えているものは、立花氏が想定しておられるような学問的レベルの高いものではなく、

 せいぜい口コミ情報誌程度のものであり、また、学びの動機付けという目的上それで十分と思っています。

●教養の基本→本を読むこと。調べて、書く、発信する。
情報伝達手段が如何に多様化しても、知識習得手段の基本は読書であり、
 時間と空間を越えて情報を伝達する「本」というアナログ技術の発明は何と偉大なものであろうと改めて感嘆致します。
 それから、本で調べること、それについて自分の考えをまとめて書くこと。知性を育てるのにとても大切なことです。
 しかし、最近、情報伝達手段の発達、サービス過剰の教育が結果的にこれを阻害していることもあるように思います。


●知の世界を対象により分類する場合、リアルワールドの何かを対象とする学の他、
 すべての学的知(エピステーメー)の基礎を検討する「知の基礎学」ともいうべきもうひとつのカテゴリーが考えられる。
 具体的には、論理学、数学、数理科学、情報科学、情報学、言語学、哲学がその中に入る。

我がすうがく道場の活動指針、すなわち
 思考に関する実用的な研究(わかりやすさ、思考の合理性・一般性の研究等)を進めつつ、
 そこで得られたことを日々の学習指導に還元することは
 この「知の基礎学」のカテゴリーに入るものだと思います。


●一つのことをよく知り行うということは、百のことに中途半端であるよりも高い教養を与える。
                                                    (ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)

我がすうがく道場が
 「ひとつ光る人になる!」をモットーとし、数学を軸に「なぜ?」を考え抜き、思考そのものを探究することによって
 学力全体の向上を図ろうとしているのは、
 まさしくこの真理に基づくものです。


●よりよく生きること=世界と自己についてよく知ること。(オルテガ・イ・ガセット)

齢を重ねるにつれて、自己を知ることが世界を知ることに通じることが段々わかってきたような気がします。
 
お釈迦さまが亡くなる前に弟子に話した最後の教え「自燈明・法燈明」とも共通する真理でしょうか。

●エピステーメー(知識)⇒頭で覚えるもの=陳述記憶→講義で教えられる。
 テクネー(技術)⇒体に覚え込ませるもの=非陳述記憶(手続き記憶)→演習が必要。
 e.g.外国語の習得→ほとんどテクネー(日本の英語教育→エピステーメーとしての教育による失敗)

思考という知的作業の指導についても、陳述、すなわち言葉による伝達だけでこれを行うことは不可能であり、
 学習者自身が頭、手、目、口などの全身および全霊を働かせて思考する体験が必要不可欠です。
 我がすうがく道場が答案作成演習+口頭説明演習を軸とした指導を行っているのはこのためです。


●ウソと誤りを見抜く能力
 その他…コミュニケ―ター能力、ダークサイドに関する情報

日々マスコミなどから流される情報にはかなりのウソが含まれているような気がしています。
 特に社会科学的な命題にはそういうものが少なくないように思います。
 これを自然科学の場合と対比させることにより、科学として真命題と言うに値するものであるかどうかを検討する勉強会、
 やってみたいです。科学哲学の演習として有意義なのではないでしょうか。

●授業の教育的効果は受け手の緊張度に比例。
 →少人数(5人以下)<一対一<一対多(帝王教育)
 →ユービキタス大学は誰にも帝王教育を可能にする。

物事の真髄は言葉を超えた情念のようなものを介して伝達されるという気がします。
 大教室のマンモス講義ではその情念が拡散してしまうために、受講者の心の琴線を震わせることが難しいのだと思います。


〜最後に〜

以上、立花氏の大学論、教養論を辿りながら自分の意見を述べてまいりました。
 哲学なき教育行政は迷走を続け、巷では軽薄な進学競争が繰り広げられる最中、
 我が国高等教育に対する同氏の意見は傾聴に値するものだと思います。
 しかしながら、同氏の一般教養教育論はあくまでエリート教育論の一環という視点で述べられているように感じました。
 前半では、教養はパンのための学問ではない。何の役に立つというようなものではないのだ。と力説しているのに、
 後半では、現代社会という現実の中で役に立つ教養の学び方を指南し、
 「日経新聞を初めのページから最後の文化欄のページまでをちゃんと理解できる」という
 教養の基本ラインまで提示しています。
 私の目指す教養はそのように知識の完全性を追求する“立派”なものではなくて、
 「知=偉い」という意識を捨てて知と戯れること、「知性の赴くままに学ぶ」心の自由を取り戻すことです。
 自由な知性があれば先入観を乗り越え、
 規格品のような没個性の人生に押し込められる閉塞感から脱却できると思うからです。
 まぁ、要するに、
 「学び」は人間に与えられた最高の道楽ですから、もっと粋に、自由に、知と戯れて真理を垣間見る歓びを味わいましょうよ。
 そこから自分が歩むべき本当の道が見えてくるはずです。
 というのが私の教養観です。

 

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