『数学的思考』整理ノート
〜森毅著『数学的思考』(講談社学術文庫)を読んで〜

                                                                                       (2008/09/24)     

◆本書を読んで考えたこと
1)教育界にはどんな学力観の下にそのようなことがなされているのか理解できないような不合理は数多くある。
 良識ある人の目から見れば明らかに不合理であることがいつまでも堂々巡りで残ったまま
 一向に前進していかないのは、いろいろな人たちの思惑、損得が絡んでいるからなのだろう。


2)不合理を生み出す要因のひとつは森氏が指摘しておられるような何らかの権威であり、
 これを守ることによって自らの立場を維持しようとする人たちだと思う。

権威のひとつに入学試験がある。日本の教育はこれに大きな影響を受けながら行われているのが現状である。
それゆえ入試は学力向上を図る大きな役割を担っており、
正しい学力観の下に健全な形で行われなければならないのだが、
現実はそこに
学校エゴが働いてなかなかそうなりにくい。

例えば、レベルが高いと言われる学校の入試問題には大概後ろの方に、限られた試験時間と紙面スペースからみて
酷と思われる問題が用意されているなど、満点防止機能がセットされている。
こんなのも受験生の心情を無視した学校側のご都合であるし、
もし本気でそのような問題も正答することを期待しているとするならば、
それはどんな学力観に基づくものなのかを聞いてみたい。


試験なんてものはバカが作ればバカ問題になるのであって、
何でもかんでもハイハイと
かしこまって評価されている必要もないであろう。
ひとつこちらから
逆に
問題の質、出題者の知的レベルを評価する反撃に出てもいいのではないか。
それは学生にとっても子供たちを導くべき立場にある大人にとってもいい勉強になると思う。

3)数学教育に限らず、とにかく学生時代の勉強には常に背後に優劣評価と競争原理の存在があって重苦しかった思いが
 残っている。


 数学の授業はどれも建て前的な感じで表面的な説明に終始していたように思う。
 自力で考えていくためのノウハウが得られることもなく、
 これを聞いて問題が解けないのはお前の頭が悪いのだと言われているような気がした。
 森氏は「
数学の本では、楽屋裏をかくす趣味が残っている」と述べておられるが、
 これは学校の授業でも同じである。
 
 数学指導で重要なのは、
理に適った思考方法、数教協のいうシェーマなどの利用も含めた思考技術の指導であって、
 そういう
思考の楽屋裏に関する本音の指導こそが、
 
優劣評価と競争原理の重圧から抜け出して知そのものを楽しむ本当の学びへと導くことになると思う。
 基礎知識や公式・定理の詳細な導出過程などは自ら本を読めばわかることである。


4)私が工学出身だからか、大方の数学専門書は現実の世界との関係、具体的イメージが希薄で読みにくい。
 かと言って、定理の証明などを一切すっ飛ばしたいわゆる“使うための数学”的な本は
 理論の根がしっかり出来ないので、時間とともにその内容が頭から消失してしまい、応用も利かない。

 
高校数学以降の数学で興味深そうな分野について、数学以外の分野の人間でも容易にその本質を習得することが
 できるような道筋・手法
を、良書を発掘しこれに導かれながら確立したい。

5)水道方式は多くの実験もなされ、理論的で優れた数学指導方法だったはずだが、今はあまり聞かれなくなった。
 教育界は「悪貨は良貨を駆逐する」傾向が強いこともあろうが、
 
よりよい学習方法というものはある幅をもって存在する模糊としたものであって、
 理論どおりでない方法だからといって必ずしも好ましくない結果に至るとは限らず、
 学習者によってはむしろ理論どおりの方法よりスムーズに受け入れられるようなことも十分考えられる。
 例えば「数え主義」からスタートしてもその後何ら問題のない子供たちも少なからずいるであろう。


 だから、教育を科学と捉え、自然科学と同様の研究手法で最適な指導方法を追求するやり方には
 最近何か違和感を持つようになった。

 教育はいわば
心を対象とする活動であるから、
 いつでも誰に対しても共通に有効であるような統一理論なるものは存在せず、
 自らの経験および本やその他の情報源から得た知識を念頭に置きながらも、
 個々の状況を踏まえて
柔軟に対応する姿勢が大切であるような気がしている。

 であれば、学習・思考の真理は多面的に記述する以外、これを表現する方法はなく、
 様々な事情・個性を持つ子供たちへの学習指導や自分自身の学習等、
 個々の現実の事例を通じて見出された
学習・思考に関する小さな発見・発案のひとつひとつ
 
そのままで学習・思考の真理の一面を伝えるものとして価値を有すると言えるのではないだろうか。
 今後、そういう小さな発見・発案をさらに進め、かつそれをわかりやすい形に表現しては発信していきたい。



◆整理ノート
(1)現代数学
・数学の諸形式は、現実の法則から出てきたもの
 数理の世界といったものが、先験的にあって、それがあまくだってくるものではない。
 (数学の世界も雲の上にあるのではない。)

 歴史の当初から科学は現実の法則性を明らかにするものであったし、数学はその中において発達した。
 現代数学=現実の法則性を定式化した数学として現実と数学の関係をとらえる立場。

・現代の数学を、歴史的存在として見ること。純粋性という神話的幻影を消し去ること。
 (価値観なしに真理を論ずることは無意味。数学は絶対的真理そのものではなく、一種の社会現象。)


(2)数学教育の現代化
・現在、人間と科学のかかわり方が今までになく直接的で密接になり、
 それが現代の「技術革新」の支えとなっており、
 
すべての人間が科学をみずからのものにしなければならない、という大きな流れの中で
 「数学教育の現代化」が要求されている。


・数学はふつうの人間ならばだれでもできるもの。数学を理解するには、物ごとを論理的に考えさえすればよい。
 論理的であるのは何も数学だけでなく、他の学問にも共通することだ。

 ※数学能力の特別視
 →数学と数学教育の遊離、教育の保守性の助長、成績不振児の放置、学者の特権保証などの弊害

・数学は単に公式をあてはめるだけで現実に役立つような道具にはなり得ない。
 
公式や定理の意味、その法則性がいかなる理念にもとづいているかを理解する必要がある。
 (定理の証明、公式の導出は論証の論理性を示すことより、その法則性を明らかにする過程に意味がある。)

(3)数学教育における悪習
 一方には「数理の世界」の偏見にみちた権威、一方には「身のまわり」の生活ベッタリ。

・初等教育
1)生活単元主義
 →戦後、脱オシツケ教育を目指し、教育を子供の生活の上にたてるという方向で導入。
  しかし、科学から遠ざかり、身のまわり主義の枠の中にあったために結果的に教育を破壊。

2)数理形式権威主義への再逆転
 →法則的定式化のない数理形式のツメコミ、「思考」という名のアテモノ

・中等教育
 基本的悪弊は教養主義
 →現実の課題と関連しない「問題のための問題」の教材の提供=「ボーイスカウト的実用主義」

(5)科学教育の路線に乗せる基本
 量の立場(量の概念を確定して量の結合関係を明らかにし、定式化する。)

・数理的科学の方法論=(量の)法則性を明らかにし、定式化し、それを数学的実体に転化する。

・科学の基本的立場→量の立場に立つ視点数学的定式化の確立とがわかちがたく結合

(6)数学の抽象性を支える方法論
・抽象をし、さらにその抽象を実体化し、定式化すること。
1)文字による形式
  2)シェーマによる思考(シェーマは形式を形象化するもの。個別的な量と代数形式との媒体)

(7)シェーマについて<シェーマ指導の重要性>
・形式化された数学だからといって、式の変形だけですべてが処理できるものでもない
 論理そのものではない図を考えることも多い。

 数学の本では、楽屋裏をかくす趣味が残っていてあまり書いてないが、図を書いて考えている数学者は多い。
 
イメージなしでは、とても考えられないのである。

・かなりの部分は数学者の頭の中で漠然とした形にとどまっているが、
 確定したいくつかのものは現実に法則を見るのに使っている。これをシェーマという。

・シェーマというのは現実そのものではなくて、むしろ構造を明らかにするものである。
 ただの形式ではなくて、イメージを作り、その構造を視覚化する作用を持っている。

・数学の場合、特に、形式化された構造(「対象」における「法則」の存在形式)と現実とをつなぐ
 媒体としての役割を果たしてもいる。


・数学以外の数理的な諸科学でも、質的内容のまったくちがうことも、
 他のわかりやすく、イメージをとらえやすいものにおきかえるのである。


・あれやこれやと考えることは、思考ではない。
 思考というからには、
理性の力でことがらをまとめ整理した法則の形で認識しなければならない。
 形式だけをツメコムことと、
形式の意義をしっかり教えることは、まったくべつの問題。
 
形式を無視して、科学は成立しえない


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