<さようなら>




 雪が降るかもしれないとエドワードが言った。
「なんでわかんの? 空模様?」
 聞き返したエンヴィーはエドワードの体を半分だけ乗り越えて窓に寄ると、ガラス越しに空を見上げる。午前3時6分の空は黒にしか見えない。
 するとエンヴィーを体の上に乗せたエドワードが顔を盛大に顰める。
「手! いてーよ! 腹に体重掛けんな!」
「鍛えてんでしょ。だいじょーぶだいじょーぶ」
「だいじょぶじゃねぇよ!」
 肉部分ならまだしも、肋骨の上のエンヴィーの手を乱暴に払いのけると「いってー」と言いながらエドワードは腹をさすった。
「この憂鬱な日に、痛みを増やすんじゃねえよ、無能」
「うわ、ムカつく――って、憂鬱?」
 その言葉にエンヴィーが反応する。
 だって聞き流せない。
 さっきまで甘い時間を過ごし、更に性的欲求まで3回も満たしたくせに、なんで鬱になんかなる?
 唇を尖らすと、そーゆーことじゃねえと、エドワードは上半身を起こす。左足を立てて、機械鎧との接続部分に手を当てた。
「寒かったり、雨が降りそうだったりすると痛むんだよ、ここが」
 情報や操作と引き換えに、持っていかれた生身の足。
 変わりに、重くて、肌色とはまったく異質な鋼の義足が付いている。
 それを肩に担いで揺らすと硬質な音が一定のリズムで鳴り、自分たちが繋がっていることを改めて感じることができるために、エンヴィーはかなり好きだった。が、それと右手と弟の体を取り戻そうとしているエドワードにそんなことを告げたら、きっと眉間にたっぷりの皺を寄らせて嫌がるので、胸の中だけの秘密にする。
「不便だねぇ、人間て」
「お前ら、痛覚はねェのか?」
「一応あるけど、ま、そんなたいしたことじゃない……よな、多分……?」
「エンヴィー?」
 語尾が怪しくなったエンヴィーを見て、エドワードはぎょっとする。
 ベッドから降りたエンヴィーは、壁に飾りとしてかけられていたサーベルを手に持つと自分の左足に突き刺したのだ。そのまま真横に引っ張る。ぱっくりと肉が裂け、骨すら切断した。
「エンヴィー!」
 ベッドから飛び降りたエドワードがその手を止め、かろうじて皮1枚分が残ったことで、エンヴィーの足が床に転がることはなかった。
「なにやってんだよ、てめぇ!」
 吹き出て溢れて流れる液体が、床に大量の血溜まりを作る。
 エドワードは必死でエンヴィーの足を押さえ、合わせる。
「大丈夫だよ、すぐ直るし」
 エンヴィーが言い終わる前に、エドワードは息を呑んだ。
 壊れた箇所から練成光のようなものが発され、パリパリと細胞を再構築して切れた足が繋がっていく。やがて1度離れかけた足は、見事に本体に繋がった。
 青ざめたエドワードを覗き込んでエンヴィーが笑う。
「うん。やっぱ、痛みってそんなに無いね。ちょっと息が苦しくなるくらい。人間が苦しみにのたうちまわるほどには感じてないとおも……」
 途中で遮られた。
 頬に飛んできた拳に。
 なにすんだ、とか、顔を殴ったな、とか。
 そう言うために開きかけた口は開きっ放しになる。
 怒りと悲しみと安心と、そんなものが複雑に混ざり合ったような顔を、エドワードがしていたからだ。
「……なんで、んな顔、すんの?」
 エンヴィーの口調も途切れがちになる。
 だって、どうやって触っていいのかわからない。こんな時。
 バカはキライだ、と言ったエドワードは手の甲を目の縁に当てた。そしてベッド脇に落ちていたエンヴィーの腰布を手に取った。それで、床の血溜まりを拭き始める。
「ちょっ……なにすんだよ、オレの服で!」
「うるせえ。こんな気持ちわりーもんを始末してやってるだけでもありがたく思え」
 返された声が妙に冷静で、なんとなく怖さも含んでいて、エンヴィーは黙った。黙って、エドワードを見る。
 なんでそんな変な声になんの?
 なんでそんな変な顔をすんの?
 なんか変なことをオレがしたの?
 ――人間って不可解だ。
 血を拭い終わって洗面所で手を洗ったエドワードが、その場に突っ立ったままのエンヴィーの膝裏を軽く蹴る。
「真っ裸でぼけーっと立ってんじゃねぇよ。見てるこっちに、イロンナイミで寒気が走る」
「ひど」
「いいから行けよ」
 渋々とベッドに戻って布団の中に入り、エドワードが下着を身につけるのを見た。
 小さな声で呟く。
「オレの服……」
 聞き止めたエドワードが怒った声で、
「適当になんか貸してやるよ」
と言った。サイズはテメーで調整しやがれ。
 ベッドに戻ってきたエドワードは天井を睨んだまま、エンヴィーの方を見ようとはしない。閉じない目にはしっかりと怒りの炎が宿っていて、こんな状況にも関わらず、綺麗だと思った。
 もともと、珍しい金の瞳であることも関係するだろう。
 だがエドワードは、綺麗なものが好きな自分が、今1番気に入っているものなのだ。それの表情が姿が変化をするのは、どれを見ていてもやっぱり綺麗だと思う。
 エンヴィーはエドワードにわからないようにため息をつくと、布団の中でエドワードの左手を握った。指を絡ませる。
「ごめんね」
 ゆっくりと振り向いたエドワードは「わかってないだろ」と言う。
 エンヴィーは素直に頷く。
「うん。わかんない。でも怒ってるみたいだし」
「それじゃ意味がねぇだろーが」
「教えてよ。言ってくんなきゃわかんない」
 できるだけ、正直になったつもりだ。心の内を晒すなんて、最もやってはいけないことだ。誰に教わったでもなく、自然にそう思っていた。ついでに、心を預けるのもヤバイ。だけどエドワードはそんなエンヴィーの理性を吹き飛ばす。近づいてしまいたくなる。結局その通りに行動して、なぜだか受け入れてもらって、それで満足なはずなのに、欲は深くなっていく。もっと。もっと。もっともっともっともっともっと。
 もっと何をしたいのか。
 それはわからないが、近くで触れていたいことだけは確かだ。
 そしてエンヴィーが言われたのは、体も命も粗末にするな、だった。
「変なこと言うね」
「何が変なんだよ」
「だって何回でも死ねるんだよ、オレ」
「不死身じゃねェって、グリードってヤツからアルが聞いてる」
「ま、限界はあるけど」
「だから大切にしろって言ってるんだ」
「なんで?」
「死んで欲しくねーから」
 そんなこともわからないのかとエドワードは呆れる。
 死ということに対して、こいつは疎すぎる。
 まあ、疎いからこそ、あっさり人を殺すこともできるし、目的のために街のひとつやふたつを消すことも構わないのだろうけど。
「心配、してくれてる……ってこと、なのか、な、もしかして?」
「もしかしなくてもそうだよ、バカ」
「どうしよ」
「なに」
「おチビさん、本物?」
「は?」
「だって優しいおチビさんなんて怖くない?」
「殴っていいか?」
 ゲンコツを作って――しかも機械鎧の手で――指を折り曲げたところに、息をかけるエドワードを慌てて制する。
「ごめん! 嘘! 冗談!」
 そして頬が緩むのを感じた。いや、頬だけじゃない。多分、目とか口とか、顔全体が緩んでいる。
「オレ、愛されてんだ?」
「バカ言うな」
「幸せだねー」
「テメーの頭がな」
「なんでもいいよ。でも」
 幸せに少しだけ影を落とす。
「そんなこと言われたら、おチビさんが死んだ時ツライじゃん。オレ、泣きそう」
「……そーゆー心配はすっげームカツクのでやめて頂けませんか、常識知らず」
「常識なんて知らないもん」
「そーだろーけどよ。でもムカツク」
 繋いだ指を変な風に握って力を入れることで、エドワードはエンヴィーにむかつきを伝えた。
「あー、せいぜい盛大に泣けよ。つーか、言ったからには責任持って悲しめよ? オレはお前がいなくなったとしても、常に明るい笑顔だけどな!」




 うそつき、とエンヴィーは呟いた。
 強い炎に包まれながら、炎の外に立つ小さな影を見る。
「オレが死んでも笑うって言ってたじゃん。実行しろよ」
 腕を見る。足を見る。
 再生する傍から細胞が焼かれていく。
 ――無理だな。
 そう思った。多分、いや間違いなく、再生できない。
 ラストすら焼いた炎。自分たちにとってこの男――焔の錬金術師――は鬼門だったに違いない。
「だから、さっさと殺しちまおうって言ったのに」
 泳がすと決めたラストや父親に恨み言を告げる。
 このまま消えるのが1番だと思う。
 実はキライだったよ、手に落ちて、体まで開いてくれてありがとう。そんなことを言うのが2番目に親切か。
 だけど。
 ごめんね。オレは酷いヤツだから。
 魂だけでも持っていきたいと、そう思った。

 だから最後に、束縛の呪文を唱えよう。

「好きだよ、おチビさん。ずっと、好き」



 そして、さようなら。