<もう一つの世界>




 荒い足音が階段を登る音で目が覚める。
 うるさい、と口に出したのと、凄い勢いでドアが開けられたのは、ほぼ同時だった。
「エンヴィー! いつまで寝てんだよ! いい加減起きやがれ!」
 目の前には金髪の姿。
「……はぁ?」



 寝転んだまま半眼で自分を見るエンヴィーに構わず、金髪はドカドカと傍に寄ってくると、エンヴィーが被っていた蒲団を引き剥がす。
「おわっ」
「はぁ、でも、おわっ、でもねーよ。もう昼だぜ、昼。いくら休みだからってそれは寝すぎだろ」
「……ていうかー、なんでオレがここにいて、あんたとこーやって喋ってるわけ?」
「はぁ!?」
 エンヴィーの言葉に今度は金髪の方が目を見開く。
 そして大きくため息を吐いてから肩を竦めた。
「はいはい。お前、寝起きがすっげー悪いのな。覚えとくよ。だからお前も忘れんな。週末だから遊びに来たんだろ。昨夜は三人でどんちゃんやりすぎて、今からブランチするところ。ちなみにここはオレとアルの家」
 まさか、オレの名前まで忘れたってことはねぇよな?
 金髪に凄まれて、エンヴィーはわけがわからないまま口に出す。国家錬金術師ファイルにあった、二つ名じゃない方の名前を。
「エドワード・エルリック」
「はい、正解。くだんねーこと言ってねーで、さっさと起きて来いよ」
 二度寝もすんな、と念を押して、エドワードは来た時と同じように足音を鳴らしながら階下へ降りて行った。
 耳を澄ますと、聞いたことのない声も聞こえる。
 ――兄さん、エンヴィー起きた?
 ――も、あいつ、寝起き最悪。記憶がねーんだぜ?
 ――寝起きっていうか……昨夜、飲ませ過ぎなんだよ、兄さんは……。
「何の冗談?」
 金髪は自分たちにとって大事な人柱で、適当に泳がせつつも敵対関係で。
 決してこんな『お泊まり会』なんてけったいなことをする間柄じゃないはずだ。
 おまけにこんなセンスのない服。
 エンヴィーは自分が来ていた、青と白と緑のチェックのパジャマの襟元を引っ張る。
「わーけわかんない」
 そして、結局そう結論づけた時、下から怒鳴られた。
「エンヴィー! てめ、寝てんじゃねーだろーなぁ!」
「あーはいはいはいはい、今行くよ!」
 ていうか。
 ――行ってもいいもの?



 声がする方向に足を向け、扉をそうっと開ける。
 と、途端に舞い込む良い匂い。
 パン。コーンスープ。ベーコンエッグ。サラダ。
 テーブルには三人分のそれらが並べられている。よっつあるうち、ふたつの椅子は埋められていた。
「おはよう。気分悪くないかい、エンヴィー。ご飯、食べれそう?」
 エドワードと向かい合って座っている、同じく金の髪を持つ少年に話し掛けられた。年の頃は十五、十六。見たことがない。記憶にない。
「誰、あんた?」
 素直に疑問を口にすると、少年とエドワードが顔を見合わせる。
「ほらな」
「だから、あれほどやめなって言ったのに」
 兄さんもエンヴィーも聞きやしないんだから。
「兄さん? ……ってことは、あるふぉんす・えるりっく?」
 鎧の、という言葉は飲み込んだ。
 なんとなく雰囲気にそぐわない気がしたから。
「思い出してくれたのはいいけど、何もフルネームで呼ばなくてもいいじゃない。いつも通りアルで呼んでよ」
「……」
 本当に。どんな冗談なんだろう。
 とりあえずは勧められるままに食卓について、勧められるままにスープやパンやおかずに手を伸ばした。
 香ばしくて美味しい。普段食べることのない、湯気の立った食べ物。
「アル、お前、今でっかいパン持ってただろ」
「兄さんじゃあるまいし、選んでなんかいないよ。近いのを取っただけだろー」
「いいや、狙ってたね!」
「狙ってたのは兄さんでしょ」
「当たり前だ!」
「もうー」
 アルフォンスは「こっちあげるから」と、パンを入れたバスケットの中を覗き込み、中でも大きいもの――僅かな違いだが――を取って、エドワードに放る。嬉しそうに受け取ったエドワードは、あらかじめ盛られたひとつめのパンがなくなった後、補充されないでいるエンヴィーの手元を見た。
「遠慮してんのか? お前、普段もっと食うじゃん」
「え、あー、ああ、そ、そうだっけ?」
 とりあえず、へらっと笑うと、アルフォンスが心配そうな目を向ける。
「二日酔いしてるんじゃないの? 胃、もたれてる? クスリ飲んどく?」
「いや、平気平気。えーと、ほら、起き抜けだからさ。もう平気。食う食う」
「ほんとに大丈夫?」
「もちろん」
「なら、いいけど」
 無理はしないようにね、と言いながら、アルフォンスはエンヴィーのカップにおかわりのスープを注いだ。
 そしてまた兄とのやりとりを続ける。
 二人とも、まるっきり無防備な笑顔で。
 今まで、会う度に向けられていた敵意の視線はまったく無くて。
 エンヴィーは初めて見る表情に戸惑いながらも完食した。食後のコーヒーも飲み終わるとエドワードとアルフォンスは食事の後片付けに、そしてエンヴィーはタオルを渡され、洗面所への道を示された。



 胃の中の物が落ち着くまで、床に転がりながら本を読んで――よくわからないままに練成術の本を読まされた――きっちり一時間後には外に出て、森の中でかくれんぼと鬼ごっこと格闘が交ざったような遊び――隠れはするが、見つかったら逃げても良くて、更に返り討ちにしてもいいというめちゃくちゃさだ――に付き合わされた。
 戦闘態勢になった二人はぞくぞくするほどに手強くて、馬鹿くさいと思っていた心なんて、そのうち吹き飛ばされて本気になった。
 くたくたになるまで動いて、幼なじみだとかいう女の家で夕食にありつき、ランプを借りて夜道を歩いた。
 満天の星。
 目の前にはランプを掲げるエドワードと、その隣を歩くアルフォンス。
 二人はしょっちゅう後ろを振り向いてエンヴィーに話しかける。
 時間が過ぎるごとに、エンヴィーの中に奇妙な感覚が生まれた。
 ムカムカ。
 それもある。
 ムラムラ。
 だけどそれだけじゃない。
 こう、なんていうんだろう。さっき食べたばかりの食事みたいな、ほかほかとかほこほことか、そんな感じもある。
「エンヴィー、帰ったらまた一杯やるか?」
「ちょっと、兄さん! 今日は腕ずくでも止めるからね!」
「うおっ、怖ぇ」
 即行で弟から注意が入り、エドワードは歩く速度をゆるめてエンヴィーに耳打ちした。
「宴会はアルが寝た後な」
「聞こえてるよ」
「いでででで!」
 片耳をアルフォンスに引っ張られるエドワードに自然に笑みが零れた。
 なんだよ、こいつら。なんか、すっごく、おもしろい。
 家に辿り着いた後も続く、漫才のようなやり取りに、エンヴィーは声を上げて笑った。腹を抱えるほどに笑った。笑いすぎて、目から水が出た。



 部屋の電気が消された後、エンヴィーは朝と同じベッドに寝かされた。
 朝と違うのは、エドワードが隣にいるということ。
 アルフォンスは隣の部屋らしく、その部屋にはいない。
 おやすみと言われた後も、腕に当たる人間の体温に慣れずに、エンヴィーは月の明かりの中で天井の板目を見ていた。
 すると、小さくな声が響く。
「エンヴィー」
 空耳かと思って黙っていると、今度は聞こえた。というか、はっきり問い掛けられた。
「起きてんだろ、エンヴィー」
「……起きてるけど」
「オレさ、さんざん考えたんだけど」
 少しの沈黙のあとエドワードは、いいよ、と言った。
「……何が?」
「なにって!」
 エドワードがくるりとエンヴィーを振り返る。顔も体も。そしてエンヴィーのパジャマの襟を掴み上げる。
「てめえで言っといて忘れてんじゃねーよ!」
「いきなり言われたってわかんねーよ!」
 エンヴィーも負けじと怒鳴り返す。
 正面からお互いを見合い、そしてエドワードが先に視線を外した。掴んでいたパジャマはもっと強く、皺が寄るほどに握り締められる。
「くそ……っ」
 エドワードは舌打ちして、エンヴィーの肩に額を押し付けた。
「最初から言わせる気かよ。意地が悪ィな」
「良かったことなんてないもん、オレ」
「あーはいはい。そーですね。しょーがねぇなぁ、言うよ。言えばいいんだろ」
 パジャマの布越しにエドワードの息が当たる。なんだかくすぐったい。そしてくすぐったさはMAXになった。
 なんて返したらいいのかわからない。
「はい?」
「だから、OKだって言ったんだ。オレも、お前が、その、好きだってこと。聞こえたかよ、こんちくしょう」
「聞こえた……けど」
「じゃあなんかリアクション起こしやがれ」
「リアクションて」
 そんなことを言われても。
 体中の血管という血管が破れそうなくらいに活発に動いている。首元と肩口にはあたたかい体温。
 そして、勝手に動く手と口はエンヴィーの意志を無視し続けた。
 手は、エドワードの体に回る。腰を捉えて引き寄せる。腕の中に閉じ込める。
 口は相手のそれを目指して近づき、覆い、そして軽く吸った。
 唇は、想像以上にやわらかかった。
「こーゆーことしてもいいってこと?」
 何かに憑かれたように、エンヴィーの口は動きまくる。
「……そうだよ」
 真っ赤になっているエドワードの頬にキスして、瞼に口づけ、再度唇を重ねた。さっきより長く。深く。
 溶けそうに気持ちのいいそれをたっぷり堪能して、繰り返す。
「こーゆーこともしていいわけ?」
「そうだよっ」
 いちいち言うな、と叫んだエドワードはエンヴィーの首に齧り付いた。
「いったー!」
「うるせーからだ、ばーか!」
「かっわいくないなぁ」
「そんなんでもいいって言ったのはお前だろ」
「いいけどさぁ」
 そーゆーとこも可愛いからと囁いて抱き締めると、さっきよりももっとエドワードの顔も体も熱さを増した。
 金の髪からも、適度に鍛えられた出来上がる前の不安定な体からもいい匂いがして、エンヴィーは知らず、笑顔を作った。
 そして良い匂いは悪臭に変わる。
 一概に悪臭とも言えないけれど。
 だってそれは、今まで散々嗅いだことのある、血の匂い。



「うわっ」
 滴った液体が顔を直撃する寸前にエンヴィーは体を物体から遠ざけた。
「ラストー。エンヴィー、起きた」
「起こしてくれたの? いい子ね、グラトニー」
「いい子」
「いい子じゃねーよ! 自慢の顔に血と涎がつくところだっただろーが!」
「のんびり昼寝なんかしてるからよ」
 グラトニーは食事まで済ませちゃったわ。
 口を拭きなさいとラストはグラトニーの頭を撫でる。
 そしてエンヴィーに向き直り、召集だと告げた。
「お父様が一旦、集まれって」
「何かあったの?」
「さあ……行ってみないことにはわからないわね」
 それにしても、とラストは続ける。
「いい夢でも見てた? 珍しい顔しながら寝てたけど」
「夢?」
 エンヴィーは頭を捻る。
 捻って、顔を歪ませた。
 夢は見ていたかもしれない。だって、
「なんかえらくムカついてる」
から。
「そんな感じじゃなかったけどね」
「おばはんに判断されることじゃねーよ」
 ラストの台詞に悪態を吐きながら、エンヴィーは立ち上がる。
「誰か殺さないと落ち着かないかもー」
「しょうがないわね。どうせならアイツになさい。この辺でしょ?」
「あー、あれね。よし、じゃ、それ終わったら行くよ」
「先に行ってるわね」
「はいはいー」
 また後でと言い残して、ラストとグラトニーは闇の中に消えた。



 自宅には居なかったターゲットを街中を徘徊してみつけて、銃を向ける。
 一発、二発、三発。
 急所を外してその体を傷つけてやりながら、エンヴィーはにっこり笑った。
「スッキリするね。やっぱ、こーゆー気分でいなきゃ」
 その顔はエンヴィーの好む黒髪の少年の姿ではなく、プラチナブロンドの巻き毛にパステルブルーのワンピースを着た五歳ほどの少女のものだった。
 信じられなさと体の苦痛とで歪む男の顔を見ながら、極上の笑みを作る。
 どーせなら、とことん絶望してもらわなきゃね。
 最後の一発を打ち込む前に、あどけない声で言ってやった。
「バイバイ、お父さん」
 男の目は最大限に開かれた。そしてジ・エンド。
 動かなくなった体の前で変身を解く。お気に入りの姿に戻って、民家の屋根に登り、その上を歩いた。
 後ろでは銃声の行方を追った警官が、血まみれの男の姿を発見している頃だろう。

 どこかでコーンスープの匂いがした。

 だけど、今さっき血を浴びたエンヴィーに、届くものではない。