<嫉妬>




 背もたれっていうのは、もたれるから背もたれなのであって、抱えるもんじゃねーと思うぞ。
 現在エドワードが滞在しているホテルの窓から入ってきた人物が、いつもはかなり喋り捲る口を噤んだまま、じーっと自分のことを見続けているので、居心地が悪くなったエドワードは会話の糸口を探してみる。
 返ってきたのはえらく機嫌の悪そうな声。
「あーはいはい。仰るとーりですね」
「……お前なぁ」
 それにはエドワードのこめかみがピクリと反応した。
「勝手に来てるくせに機嫌悪ィって何だよ。原因があるなら言いやがれ! 言えねーんだったら帰れ!」
 強気なエドワードの瞳を正面から見つめかえしたエンヴィーが忌々しそうに舌打ちをする。
 音を聞いた瞬間、エドワードの左手が相手の首元を掴んだ。
「喧嘩なら買ってやろうじゃねぇか」
「喧嘩になるんだったらね、この浮気者」
「……はぁ?」
「気安く触んないでよ」
 意味不明なエンヴィーの台詞に動きを止めたエドワードの手をエンヴィーが邪険に払う。払って、やっぱり背もたれを抱き締めたままで口を尖らせた。
「誰でもいいんだ、あんた。優しくしてくれるなら」
「何の話をしてるんだか全っ然、わかんねーよ!」
「わかんないくらいに心当たりあるんだね。ああ、そう、ふーん」
「エンヴィー」
 エドワードは相手の声を低く呟く。
 それでも椅子から離れようともせず、視線すら壁の一点に集中させるエンヴィーを数秒みつめた後、大きなため息をついて上着を脱いだ。
「オレは疲れてるんだ。用がないなら寝る」
 そう言って本当にベッドに潜り込んで蒲団を被ったエドワードの耳に、大きな物音が聞こえた。
 エンヴィーが座っていた椅子を床に転げさせたのだ。
 本体はというと、エドワードの上にある。
「……重い」
「どーしてこの状態で用がないって思うのさ! おチビさんがそんな人非人だなんて思わなかったよ!」
「奇妙な拗ね方してるやつに割く時間なんてねーんだよ! 嫌だったら何か喋ればいいだろ!」
「楽しそうだった!」
「主語はどうした!」
「あんたと焔の大佐が楽しそうに喋ってんのを見たっつってんの!」
「……どこで」
 想像もしなかったことを言われて、エドワードはエンヴィーに向き合う。エドワードの両脇に手を置いて、囲うような体勢の相手の顔には長い黒髪が掛かって表情がよく見えない。だが曇っているのは確かだった。
 だけど今日一日の行動を思い返しても、目の前の相手を拗ねさせるほどにロイ・マスタングと出掛けていた事実などない。エドワードは静かに問い返す。
「どこで見たんだよ。本当にオレだったのか?」
「オレがおチビさんを見間違うわけないじゃない」
「わかんねーじゃんか」
 現に覚えがない。
 そう言おうとしたエドワードは続いたエンヴィーの言葉に、その黒い頭を思い切り殴った。
「なんでそんなとこ見てんだよ!」
「いったぁー……全力で殴ったね、あんた」
「当たり前だろ、そんな言いがかり!」
 言いがかり。
 本当に言いがかりだったのだ。だってエンヴィーが言った言葉は、
「正午前。中央司令部の一室で」
だったから。
「仕事だろ! 定期的に報告に行かなきゃなんねーんだよ! つーか、どっから見てやがった! 関係者以外立ち入り禁止だぞ、あそこは!」
「えー、あんな子供騙しな警備なんかオレの相手じゃないもん」
「潜り込んだのか」
「もう、しょっちゅう」
「……お前な、」
「そんなことはどうでも良くてさぁ」
 エンヴィーは頭を振ることで、その長い髪を掻き上げた。紫の目は据わっている。
 上体を更にエドワードに近づけ、間近で「楽しそうだったね」と囁く。
「おチビさん、声を上げて笑ってた。焔の大佐も笑ってた。あんなに仲が良いだなんて知らなかった」
「……悪くはねーけど、特別良くもねーぞ? マジな話」
「でも特別だ」
「なにが」
「呼び方」
「大佐?」
「違う」
「わかんねえよ」
「“あんた”」
「は?」
「おチビさんが誰かにそう呼びかけるの、初めて聞いた」
「……」
「何て顔してんのさ」
 エドワードはただでさえ大きな目を最大に開いて、エンヴィーを凝視していた。
 あまりの間抜けなその表情に、力が入っていたエンヴィーの肩からそれが抜ける。
「いや、だってよ。……なぁ?」
「なに」
「それって嫉妬?」
「え」
「ヤキモチ妬いてんの? お前が? オレに?」
 矢継ぎ早なエドワードの問い掛けに、エンヴィーは自分の体が熱くなるのを感じた。
「なに……バカ言って……っ」
「うわ、すげー真っ赤」
 お前、色白いから丸わかり。
 そう笑われて、エンヴィーは咄嗟に拳を作り、そしてそれをエドワードに向ける。
「ちょ、てめ、何しやがる……!」
 ばちん、と派手な音がして、エンヴィーの拳はエドワードの掌に吸収された。更に押そうとするエンヴィーの力と、押し返そうとするエドワードの力が二人の間で拮抗する。
「あんたが馬鹿なこと言うから……っ」
「本当のこと、だろ! 大体なぁ、お前が聞いてねえだけで、オレは大抵の人間はあんた呼ばわりだよ」
「嘘つけ。弟君とか幼なじみの女とかオレとか、みんな“お前”って呼んでるじゃん」
「そっちの方が特別とかは思わないのか?」
「複数ある特別なんて特別じゃない」
 エンヴィーの力が崩れた。ついでに体も崩す。エドワードの上に倒れ込む。
 子供のように頼りなく見えるエンヴィーの肩を、エドワードは少し躊躇った後、生身の腕の方で抱き締めた。
「なに。お前、オレの特別になりてぇの?」
「いらねーよ、そんなもん」
「じゃあなんで泣くんだよ」
「泣くって何さ」
「んー。めそめそすること?」
「めそめそなんかしてねーよ!」
 ぎっ、ときつくエドワードを睨んだそれは確かに泣いてなんかいない。だけど。
「あーあ。やべぇ」
「なんだよ」
 エドワードは肩に置く腕を機械鎧の方に変えると、自分の手で数回エンヴィーの髪を梳くと、今度はそれを頬まで持ってきて固定した。相手の顔を動けないようにすると、その眉間に唇を落とす。
「……なにこれ」
 眉の間やら頬やらに降りてくるやわらかい感触に戸惑うエンヴィーにエドワードは教える。
「キス」
「それは知ってるけど。なんでこんなことすんの」
「お前が可愛いから」
「お前は嫌だってば」
「じゃあ“てめェ”?」
「死にたいの、あんた」
 いつもの調子を取り戻してきたエンヴィーにエドワードはエンヴィーを抱いたままでゲラゲラ笑うと、謎々を残した。
「お前は、最初っから特別だったよ」
 なにが、とか聞かれたところで教えてなんかやらない。
 自分だって不思議でしょうがないのだから。
 この世で一番嫌いな言葉を連発する相手を、なにか許してしまえることは。
「何のことだよ、おチビさん!」
「教えねぇ」
 一生、悩んでいればいい。