<幸せな夢>
夜が終わらない。
「なんだ?」
エンヴィーはこの街で一番高い六階建てのビルの屋上から、せわしなく通りを歩く人間たちを見ていた。
みな、一様に赤い顔をして、大声を張り上げ、ご機嫌なことこの上ない。
いつもなら人影も少なくなる時間帯なのに、なぜ今日に限って、こんなに大勢。しかも年端もいかない子供たちまでいる。
その時、後ろのドアが派手な音を立てて開いた。
顔だけで振り向いてみたが、風にあそばせていた髪がまとわりついて視界を遮った。
「エンヴィー」
視覚で察するより先に聴覚が訪問者に気づいた。
「おチビさん?」
「下から、お前の髪が見えたから」
エドワード・エルリック。
扉を開けて、還ってきた者。
そして父親の欲するもののいちばん近くに居る者。
それだけの関係だったはずだった。なのに、壊れた。
有り体に言えば、恋をしたのだ。エンヴィーは、この金色の少年に。
それでも父親は好きだし、仲間もそれなりに信頼しているし、立場を間違うことはしなかったけれど。
――これを、好きって言うのかなあ。
そう呟いたら、そんなこともわかんねーのかよ、と悪い口に返された。
――好き以外のどうとも呼べねえよ。
――そっか。じゃあ告白させてね。好きだよ、おチビさん。
――……オレもだよ。
――え。
――え、ってなんだよ。
――え、だって、え。……マジメに?
――いらねーなら帰れ。
――え。
――帰れ。
――ちょ、待ってよ、要ります、欲しい、すっげー欲しいです、ください!
エドワードは、窓枠に腰掛けていたエンヴィーを突き落とそうとしていた手を止めて、何度も言われんのも悪くないなと笑った。
体を重ねてから九ヶ月が経っていた。
「探してくれたなんて始めてのことじゃない?」
どういう風の吹き回し?
「ちょっとね」
エドワードはエンヴィーに近寄り、右手に抱えていたコートをエンヴィーに被せた。
「行こう」
「どこに」
「祭!」
それだけ言って、エドワードはエンヴィーの手を取って、突然屋上から飛び降りる。
「なっ」
驚いたのはエンヴィーだ。かろうじてバランスを保ち、ダンと足の裏を強く鳴らして地面に着地する。
エドワードが口笛を吹いた。
「さーすが」
「まあね」
その実、結構胸がばくばく言っていた。一瞬、エドワードの手を振り払って猫になろうかと本気で思ったくらいだ。
「何すんのさ」
「階段使うのって面倒くさいじゃん。時間もないことだし」
そう言って、エドワードは狭い路地から中央へと走り出す。
「おチビさん!?」
「早く来いよ、ノロマ!」
「誰がノロマだよ!」
言い返しながらエンヴィーもエドワードの後を追った。
なにがなんだかわからない。
わからないままに、油であげた芋を渡され、絶妙なスパイスをつけて焼き上げられたチキンに齧り付いたり、麦だかなんだかをどうにかしたとかいうアルコールを飲まされ、気づけばかなり良い気分になっていた。
「おー! 兄ちゃん、いい飲みっぷりだね!」
「エンヴィー、すげぇよ! 見直した!」
エドワードが隣で楽しそうに笑っている。その前には山盛りのコインや紙幣があって、なにこれ、と聞くと、お前の稼ぎと言われた。
どうやら知らない間にビール早飲み大会なるものに出場していたらしい。
飲むよ。飲みますよ。オレ、文字通りうわばみだし。
それで金の瞳が喜ぶのなら、大抵のことはできる。
味方になることはできないけど。
父親を、裏切ることだけは死んでもできないけど、せめて、その他のことくらいなら。
それから五人の挑戦者を交わすと、エドワードに肩を叩かれた。
お前の勝ちだ。すげえじゃん。
「もう終わりなの?」
「一時休戦」
もうすぐだからとエドワードは言った。
辺りがシンとなる。
広場にはざっと見ても五十人以上の人間がいるのに、その瞬間はやけに静かだった。遠くで鐘が鳴っている。
人々は両手を顔や胸の前で組んだり、胸で十字を切ったりしながら、それぞれ祈りを捧げている。
エドワードを見ると、祈るわけでもなく、鐘が鳴る方向を、ただじっと見つめている。左手で、エンヴィーの手を握り締めながら。
だからエンヴィーもそれに倣った。
祈る神も、祈りたい神もいないから、黙って心を空にする。
そうして。
一際高い音で鐘が鳴り始めた。
人々が目を開ける。口を開ける。叫び出す。エドワードも大声を張り上げていた。知らず、エンヴィーも叫ぶ。
数字を。
一緒にカウントしていく。
9、
8、
7、
6、
5、
4、
3、
2、
1。
数字が尽きて、歓声が上がる。
「HAPPY NEW YEAR!」
エンヴィーの頭にビールが注がれた。肩や背中を叩かれる。繋いだ手の先ではエドワードも同じ目に遭っていた。
泡がぶくぶくとついたエドワードの髪や顔がおかしくて笑う。
「変だよ、おチビさんー」
「うっせえ、テメーもだ!」
妙なテンションで人々が騒ぐ中、やっぱり同じくらいハイになっていたエンヴィーとエドワードも人ごみに紛れて視線を合わせ、誰にも見られないように素早く、キスをした。
「なんか、楽しいね」
「そりゃ良かった」
新しい年を、お前と迎えたかったんだ。
エドワードは小さくそう言った。
父親から召集が掛かる。
すべてに決着をつける日が告げられる。
ため息をついたエンヴィーにラストが眉間を顰めた。
「なあに、そのため息」
「べっつにー」
「まあ、いいけど。任務に、差し支えはないでしょうね?」
「そんな間抜けをオレがやると思ってんの?」
「時々……やるわよね」
「厳しいな、ラストは」
過去の失敗を、詳しく持ち出さないにしても指摘したラストに「ヤなことばっか覚えてると年とるよ」と憎まれ口を叩いて、エンヴィーはいつもと同じように笑ってみせた。
「大丈夫。やれるよ」
「そう。ならいいわ」
闇の中で一点をみつめる。
今日は、12月29日。
エドワードと新年を迎えてから363日目だった。
「今年も、一緒にいたかったんだけどな」
心の中で呟いて、そして笑った。
さすがお父様。甘くないや。
遠くで炎が上がった。それが合図だった。
来年を迎えられるのは、自分とエドワードとどっちだろうか。
そんなことを思いながら、エンヴィーは足元のコンクリートを力一杯蹴飛ばして走り出した。