【無題】…2006.09.18(2006年2月発行オフライン無料配本より再録)



 あたたかいと安心する。
 陽だまり。シャワーの湯。空気。布団の中。
 緊張が緩んだり、ほっとしたり、微笑みたくなったり。
 今も、そんな感じ。
 それはそうだ。だって、あたたかいのひとつ、布団の中、なのだから。
 眠りに落ちる瞬間や目が覚める寸前のぼうっとする時がとても好きだった。
 早く寝たいけど、まだ起きていたいような気持ちや、まだ寝ていたいけど、もう起き
なければと思う、真逆の思考。
 眠さに身を委ねながらも、頭の角が起きることに反応するってすごいことではない
だろうか。
 紫苑は、いつもより更に引き摺られるまどろみに引っ張られてうとうとしていたが、
視線を感じて瞼を押し上げた。
 ごく近いところに同居者――というか家主――の顔がある。じっと、紫苑の顔をみ
つめている。
「ネ、ネズミ……?」
「おはよう」
 無表情のまま、ネズミが声を出す。
「お、はよう」
「よく眠れたか」
「とても」
「そりゃ良かった」
「な、なんで?」
「あのさ」
「うん」
「いい加減、離して欲しいんだけど」
 起きたいんだ。
 そう言ってネズミは、ふたりの間にある手を指差した。
「え」
 指されたものを見て紫苑の顔が熱くなる。
 紫苑とネズミは向かい合って横になっており、そのふたりの顔の間で、ネズミの左
手は紫苑の右手にしっかりと握られていたのである。



 野菜が浮かんだスープを掻き混ぜながら、ネズミが言った。
「ママが恋しい頃か? 癒す柔らかい胸がなくて、悪かったな」
「ちがうよ! それに、母さんと一緒に寝るのは五歳で卒業している」
「へーえ?」
「……信じてないだろ」
 ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべるネズミに目の縁を赤くしながら訊ねると、いえ
いえ陛下のお言葉ですから信じますよ、なんて白々しい言葉が返ってくる。
「きみは、ぼくの弱みをみつけると、嬉々としてからかうよね」
「愉快だからさ。あんたの反応がね」
「ぼくは、普通にしているつもりだけど」
「だから面白いんじゃないか。あんたのは天然だから愉快なのであって、計算の上で
の行動なら寒々しい」
「そういうもの?」
「そういうもの」
 ネズミの言葉を完全に信じきれないものの、紫苑はため息と共に受け入れる。
「まあ、いいや。それで、きみが笑ってくれるなら、ぼくも嬉しいし」
 続いた台詞に、ネズミは味見していたスープを噴き出しかけて、必死に押し留めた。
「だいじょうぶ、ネズミ?」
「だいじょうぶじゃない。なんであんたは、いつもそう唐突なんだ」
「なにか、悪いこと言ったっけ」
「……いい。なんでもない」
 本気で疑問を投げかける紫苑を見て、ネズミはその話題を切り上げた。まったく。
天然というものは本当にやっかいで扱いづらい。
 紫苑がそういう人間だとわかっている自分ならともかく、その他の人間だったら大
抵、気になると思う。例えばあの少女、沙布のように。
 きっと今までも、愛の告白のような台詞を本気で言い続けたのだろう。しかも、あ
の型にはまったような人間ばかりを生産するあの聖都市で。それはとても異端だし、
めずらしいということは、それが良いことであれ悪いことであれ、強烈な印象を与え
る。加えて、紫苑の造作の整った顔と、裏表のなさそうなストレートさだ。本気で、
恋心を持って、自分に接している優しさだと思うだろう。思って、恋に落ち、落ちた時に、
それが万人に向けられているものだと知るのだ。それは、恋を知り求めた相手にとって、
とても残酷なことに他ならない。
 ――苦労しただろうな。
 ネズミは顔も知らない少女に心の内で話し掛ける。
 ――だが、あんたの選択は間違っちゃいない。
 悲しみの分、満たしてもくれるだろう。紫苑を好きになるということは。
 自分の思考に、ネズミはふと、手を止めた。
 ――自分ならともかく? 
 ぎくりとする。
 そんな自信が、自分にあるだろうか。
 

 偶然の出会いから四年。逃亡者である自分を匿った紫苑の生活が地に落ちるだろう
ことは予想していた。何の関係もない人間。確かにそうだ。だけど、確実に自分を助けて
くれた人間だ。紫苑がいなければ、聖都市の地下道の横穴のどれかで事切れていたかも
しれない。捕まえられて連れ戻され自分が自分で居られなくなっていたかもしれない。どん
な終わりを遂げたかわからない。その感謝は深い。自分の中の警鐘がけたたましく鳴り響い
たにも関わらず、聖都市に戻り、紫苑を助け、挙句、ここで一緒に暮らしてしまうほど。
 だけどそれは。
 ――感謝、だけか?
 紫苑が、知らず惹きつけてきた沙布のように、自分も、あの日から惹かれていたと
いうことには、ならないだろうか。
 数ヵ月後に完成し、密かに送りこんだ小ネズミ型の探査機でクロノスを訪れたネズ
ミは、その家に、もう紫苑がいないことを知った。
 クロノスを追われたということはロストタウンだ。そう目星はつけたものの、探し
当てるのには、また少しの時間が掛かった。ようやく見つけた紫苑とその母親は逞し
く元気に過ごしていて、ひどく安心したことを覚えている。紫苑――と母親――が、
笑っている。落ち込んでいない。そして、悔やんでも、いなさそうだ。
 申し訳なかった。あの、なにひとつ不自由のない暮らしから、なにもかもを自分で
やらなければならない生活に落としてしまったことは。だけど、その中でふたりは、
とても生き生きとしていて、それがネズミの心を軽くする。そして、時折きこえてくる
紫苑の呟きに、鼓動が早くなるのを感じた。
 風に乗せるように。
 空気に含ませるように。
 雨に馴染ませるように。
 紫苑は呟いていた。
 ネズミ、と、その三文字を、不意に。
 ああ。その時ではなかったか。なにを置いても、この真っ直ぐな魂を助けたいと
思ったのは。
 ――もしかして。
 あの日のことが次々と思い出される。
『手当て、してやるよ』
『母さん。レポートあるから、しばらく声をかけないで』
『こっちも名乗ってないから、お互いさまだし』
『ネズミ……なんか違うけどな』
『貸してやるよ。その前に着がえろよ』
『シチューとチェリーケーキ持ってきた』
『逃げ切れるのか?』
『すごいな。これ、コツとかあるんだ?』
『抗生物質、飲んだほうがいい。熱が出たままだと体力が消耗する』
 心配、機転、やさしさ、そして、間の抜け具合。
 裏のないそれは、神経を尖らせていたネズミにさえ上手く作用して、力を抜けさせ
てくれた。
 ――もしかして。
 あの日から、捕まっていたのか?
 無意識のうちに、感謝以外の気持ちに。
 だから、握られたままにしていたのだろうか。
 今朝のことを思う。
 起きようと思った矢先、いきなり紫苑の指が伸びてきて自分の指に絡んだ。
 しっかりと掴まえられたそれから伝わる脈の動きや温度が心地好くて、振り解かずに
そのままにした。紫苑を、近くに感じていた。なぜだろう。なぜ。


 考え込んでしまったネズミの手からレードルが消えた。
「焦げてるよ、ネズミ」
 いつの間にか紫苑がすぐ近くにいて、ネズミの手から奪ったレードルで、鍋の底に
こびりついたじゃがいもをガリガリと擦っている。
「あ、ああ、悪い」
「めずらしいね、きみがスープを失敗するなんて」
 紫苑の言葉にネズミは口を尖らす。
「失敗っていうのはな、あんたみたいに、塩加減を間違えて、まずいものに変化させ
たことを言うんだ。少し、鍋底に芋がくっついたくらいじゃ、失敗作になんかならな
いんだよ」
「はいはい。それはすみませんでした、ご主人様」
 恭しく目を伏せた紫苑は、次に肩を竦めて「意地っ張りなんだから」と言った。
「なにか、言ったか」
「今日のスープも美味しそうだねって言ったんだよ。ね、ハムレットにクラバット?」
 じろりと睨んでも、全然、効き目はなさそうだ。
「強くなったな」
「先生のおかげです」
 そう返されて、なんだか悔しい。ネズミは奪われたレードルを再度奪い返すと、反
撃に出た。
「じゃっ、感謝の気持ちを表してもらおうか」
 ネズミはそう言うと、いつもならひとかけずつ分ける鶏肉を、両方とも自分の皿に
入れる。
「あっ、ずるいよ、ネズミ」
「感謝の心、感謝の心」
「それとこれとは別」
 紫苑はスプーンを掴むと、ネズミの皿を狙う。中身をこぼさないように、ひらりひ
らりとかわしながら、ネズミは声を立てて笑った。
「肉が食いたきゃ、しっかり稼いで、しっかり買物してくるんだな、おぼっちゃん」
「そのつもりだけど、それにはまず体力をつけないといけないと思うんだ」
「物は言い様だな」
 すごく甘い言い分だけど。
 ネズミはスプーンに乗せた鶏肉を紫苑の口の中に放り込む。
「お味はいかがですか、陛下」
 弾力のあるそれをゆっくりと噛み締めながら、紫苑が頷く。
「うむ。満足だ」
「それはよかった」
 視線を正面から合わせて、くっくっと笑った。
「楽しいね」
「あんたといると、退屈だけはしないな」
「いろんな意味で?」
「おや。察しがよくなった」
「きみの言葉くらいはね」 
 それじゃあ、まあ。
 意志の疎通が図れたところで落ち着いて食べようか。
 いつもの定位置に腰掛けて、食事の続きをする。
 出来たてのスープはあたたかい。スープの熱さに比例するように、寒いはずの地下
室の中も暖かくなっていた。

 


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