【無題】…2008.03.05
   (2007年2月.・NO.6アンソロジー様に寄稿したコメントより小話再録)



  何もない時は大抵、お互いに好きな本に手を伸ばし、黙ってそれを読む。
 NO.6にない『本』は、紫苑にさまざまな言葉を教え、感情を教え、世界を教える。夢中になっていると時間があっという間に過ぎてしまう。
 一冊読み終わり、感慨に耽っていると、腹の虫が小さく鳴いた。
 朝から、どれくらい経ったのだろう。ここには時計もないから、はっきりとした時間はわからない。そしてNO.6での暮らしのように、時間が来たからとかお腹が減ったからという理由で食事ができるわけではない。だが、一度、空腹だと認識してしまうと、結構つらい。
 紫苑は空腹を紛らわすために白湯でも飲もうとベッドから降りた。
 ストーブの前では、椅子に座りながら長い足を組んでネズミが本を読んでいる。きみも飲むかい、と声を掛けようとして紫苑は、開きかけた口を閉じる。
 ストーブの不定期に燃え上がるオレンジの火に照らされるネズミの横顔が、とても綺麗だったのだ。
 カップをぶら下げたまま、紫苑はネズミを眺めた。伏せた瞼の先の長い睫も、文字に集中するその視線も、ページをめくる優雅な指先も、時々わずかに開く唇も、すべてに魅せられる。
 穴が開くかというほどに見つめられ、最初は無視していたネズミも、さすがに「なんだ」と眉間に皺を寄せた。
「なにか、めずらしいものでもあったのか」
「あっ、ごめん。ずっと見ていても飽きないから、つい」
「……あんたは飽きないと、他人の顔を凝視するのか」
 言われた言葉に対し少し考え、紫苑はゆっくりと首を振る。
「違う。きみだから、見ていたいんだと思う」
 と、紫苑の顔になにかが飛んできた。それは、たった今までネズミが読んでいた本だ。
「危ないな、なにするんだ」
「危ないのはあんたの頭だ。もっと言葉を覚えろって言ってるだろう、いつも」
「ぼくが、なにか変なことを言ったのかい?」
「言ってないと思ってるなら病気だ、あんた」
「ネズ、」
「いいから、その本でも読んでおとなしくしてくれ、気が散る」
 たまの休みなんだからゆっくりさせてくれと言われれば、紫苑だって黙るしかない。
 選んだ言葉は間違ってなんかいないのにと心で思いながら、ストーブの上の鍋から湯を掬い、カップの中に注いだ。ついでにネズミのカップにも同じようにする。
「ありがとう」
 紫苑に礼を言うネズミの手には、もう別の本があった。紫苑は声に出さないようにくすりと笑いながら、どういたしましてと返し、またベッドの上へと戻る。
 ネズミが手にしていたのは、普段読むことはない大判の百科事典。大きく重いそれで隠したかったはずの赤い頬と耳と首に、紫苑は気づいてしまったのだ。
 ――照れ屋だなあ。


 ネズミは綺麗だとか美人だとか、そんな言葉は言われ慣れている。紫苑からの言葉だけに平静を保てないことに、紫苑は未だ、気づかない。



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