【「ひとりにしないで」】…2005.08.24
 ※かーなーりーオリジナル色の強い話です。人狩りとイヴの話。
  ていうか、イヴのファンの話?





 たまたま、彼とあたしの休みの日が重なった。
 何でも屋みたいに、安価のちょっとしたことから、内容を聞くのが怖いほどに高額の
お金を得る、この西ブロックでも危ない部類の不定期な仕事をしている彼はともかく、
普通に働いているあたしが平日に休めるなんて、滅多にないことだ。
 といっても、贅を尽くすようなことはできない。生活に、そんな余裕はない。だか
ら市場を通りながら、ちょっとした買い物でもしようかという話になった。
 色気はなかったけど、それでも、久し振りのゆっくりとした逢瀬だし、通りを手を
繋ぎながら歩くのも、とても嬉しかった。
 あの服がかわいいとか、あのアクセサリーが素敵、の代わりに、あたしたちが口に
していたのは「あっちの干し肉の方が大きかったね」とか「この煮干し安い」で、そ
んな自分たちに笑ったりもした。
 久し振りの逢瀬。久し振りのゆっくりした、満たされる時間だった。
 あの音が響くまでは。
 最初の音を聞いた時、戦慄が走った。
 この音。知ってる。聞いたことがある。幼い頃、母さんの腕の中で聞いた。
 なにかが当たり、家が崩れ、崩れた先で悲鳴が上がる。逃げ惑う人々の悲鳴。見た
ことのない大きな車。それがいろんな家を、あたしたちの家も、踏み潰しながら移動
している。その時、あたしと母さんは街にいなかった。木の実を取るため、森の中に
いた。街では、父さんが働いている。母さんの顔は引き攣っていた。青ざめていた。
人狩り。そう、唇を震わせた。そして、あたしに背に乗るようにいうと、太い大きな
木に登り始めた。上に、上に、もっと上に。地上からでは見えないところに。誰にも、
みつからないところに。何時間、そこにいたのかはわからない。街は、完全に沈黙し、
あたしは、最初のその出来事を越えることができたのだ。
 あの日と、同じ音。
 いくつもの叫びや悲鳴が渦巻く中、誰かが叫んだ。
「人狩りだ!」
 建物が壊れる。人が壊れる。数年前の記憶が蘇る。足が恐怖で動かない。
「危ない!」
 声と同時に腕を引っ張られた。横道に走らされる。さっきまであたしの立っていた
ところに、大きな木の破片が勢い良く空から降ってきて叩きつけられた。
「だいじょうぶか!?」
 あたしは、あたしを抱きしめてくれている腕に気づく。体温に気づく。
 ああ、そうだ。あたしはひとりじゃない。この人がいる。
「だいじょうぶ」
 顔を上げて、微笑んだ。この場にそぐわないかもしれない。だけど、あたしも、血
の気のない顔をした彼を、和ませ、元気づけてやりたかった。
 横道に入った以上、出るのは難しかった。人々がひしめきあって走っているからだ。
この流れに揉まれる方が怪我を負いやすい。土煙に少し咽る。彼が背中をさすってく
れた。それがとても、嬉しかった。
 人々の後方からバリバリという凄まじい音がした。振り返ると、遠くに、大きな車
がいるのが見えた。過去にも街を潰した、装甲車。それが2台連なってバラックを簡
単に踏み潰しながら近づいてくる。あれが近くにきたらひとたまりもない。その時、
人の流れが乱れた。
「なに」
 前方に走っていったはずの人々が逆走を始めたのだ。
 目を凝らす。土煙の中から装甲車が現れる。
「囲まれた」
 彼が言って、あたしの手を握った。
 あたしも彼の手を握り返す。
 後ろから悲鳴が上がった。同じ横道にいた数人がこっちに向かってくる。その後ろ
には、銃を構えた兵士がいた。
「出よう」
 彼の言葉に頷き、広場に出ていく。
 街中から掻き集められた人間が、恐怖を抱えながら広場に立ち竦む。
 人狩り。母さんの青い顔。いなくなった父さん。崩れた家。瓦礫の下から見える腕
や足や顔。人狩りってなに。この人たちはなにをしようとしているの。あたしたちは
なにをされるの。
 心臓が速い。全身が心臓になったみたいに鼓動が響く。
「殺されてたまるもんか」
 野太い大声が上がった。
「おまえらなんかに殺されてたまるもんかよ」
 声とともに石礫が兵士めがけて飛んだ。おおというどよめきが続く。群集の中から
石くれが次々と、兵士たちに投げつけられる。
「まずい」
 近くで小さな声が聞こえた。
「紫苑、しゃがめ! 頭を抱えて伏せろ!」
 その瞬間、あたしの前に影が立ちはだかった。何人もの人々が光の銃を受けて倒れ
ていく。あたしは倒れない。あたしは痛くない。だって。
 あたしはあたしを庇って前に立っていた彼の名前を呼んでいた。その体が倒れ、瞳
孔が開きっ放しの血まみれの彼に向かって、叫び続けていた。
『抵抗すれば殺す。容赦はしない』
 低い声に、脅しではないことを悟り――現に目の前で人が殺されたのだ――人々は
静まり返った。身動きもしない。
 あたしも、彼の体を抱き抱えたまま、怒りと恐怖と絶望をごちゃまぜにしたような
感情でいっぱいだった。
『もう一度言う。抵抗すれば殺す。そのまま動くな』
 動く人も動ける人もいなかった。風だけが濁った空気の中を吹いていく。
『これから、おまえたちを護送する』
 装甲車が向きを変える。黒い大型のトラックが音もなく現れた。



 トラックのコンテナは血と汚物と汗の匂いに満ちていた。身動きすらできないほど
ぎゅうぎゅうに押し込められているせいで、酸素も足りない。しかもその酸素は悪臭
に染められている。トラックが揺れるたびに左に右に揺れ、揺れるたびに圧迫も酷く
なる。
 苦しい。怖い。どうなるの。
 だいじょうぶかと気遣ってくれる優しい声はない。優しい存在は、あたしの隣にい
ない。
 ――ひとりにしないで。
 そう思って、自覚した。そうだ、あたし、ひとりなんだ。
 母親は半年前に亡くなった。あの時の悲しみを和らげてくれたのも彼だった。だけ
どその彼もいない。地上に、誰も、いやしない。
 涙が零れた。
「ああ、ああ、ああ……」
 声も溢れる。あたしは、すすり泣いていた。
 あたしの声に引き摺られたのか、コンテナのあちこちで弱い泣き声が起こる。その
声に更に悲しくなって、あたしは泣き続けた。
「ああ、ああ、ああ……」
 あたしの座る場所から少し後ろの方から、歌が流れた。

  遠く山の頂で雪が溶け
  流れとなり ブナの森で 緑に染まる
  里は今、花に埋もれ
  花より美しい乙女が
  ブナの森で愛を誓う……

 間違えない。間違えるはずがない。
 ――イヴがいる。



 正直、あたしは面白くなかった。
 彼は、舞台の上のイヴとかいう役者に、べた惚れだった。
 決して優雅じゃない暮らしの中で、少しでもお金に余裕が出ると、その人を観に行
く。1度なんて、あたしとのデートをドタキャンしてまで観に行ってしまったので、
さすがにこっぴどく怒って叱り、厭味を言いまくった。
 なのに彼は夢心地で、素敵なんだを繰り返し、2人分稼ぐから一緒に行こうとふざ
けたことを言ったのだ。
 だから意地で、自分の分は自分で出すわよ、と怒鳴り、今まで懸命に溜めた貯金と
次の給金の一部を合わせ、劇場に初めて足を踏み入れた。
 素敵さを観に行ったというより、浮気の相手を見極めに行ったという方が正しい。
 どんな魅惑的な女なんだと、多少憤慨しながら暗くなるのを待った。
 やがて舞台は暗くなり、少しの沈黙のあと、不意にスポットライトが舞台の中央を
照らし、その中の、妖艶な人物を照らし出す。
 妖艶。
 まさに、そんな感じだった。
 男なのか女なのかわからない中性的な顔立ち。しかも、とても整っている。
 指のひと振りや、足を1歩動かす仕草にさえ、目を奪われる。
 これがイヴだ。
 彼が小さく言った。イヴ。あたしは口の中で呟く。
 そしてイヴは歌いだした。人間の声とは思えない音色で。
 天上の声。
 そんな気がした。心を攫われる。風を受けて舞い上がる葉のように心が舞う。羽を
広げて飛びつづける鳥のように、心がどこまでも遠くに広がっていく。
 気がついたら頬が濡れていた。
 イヴ。
 その後はむしろ、彼よりあたしの方がイヴに夢中だった。



 すすり泣きがやんだ。
 あたしもみんなも、おそらく、コンテナに乗る全員が歌声に聴き惚れている。ふっ
と、心が落ち着く。
 歌が止み、咳き込む音が聞こえた。
 小さく喋る声も。
 イヴは誰かと一緒なの? ひとりではないのかしら。ああ、歌が止むとまた不安が
胸に染みを作る。
「イヴ」
 誰かが闇の中で声を張り上げた。
「歌ってくれ、イヴ。やめないでくれ」
「そうだ、イヴ。歌ってくれ」
 また、小声が聞こえる。歌は聴こえない。
 歌が聴きたい。あなたの歌が。
 そう思った時、あたしは声を出していた。
「イヴ、『煌めくものたち』を歌って」
 それは、あたしが初めて聞いたイヴの歌で、あたしと彼がもっとも好きな歌だった。
「やれやれ、こんなところにもファンがいるなんて、支配人が聞いたら泣いて喜ぶだ
ろうな」
 そんな、皮肉めいた言葉に、ちょっと笑う。
 いるわよ。どこにでも。西ブロックの住人の裕福な方の人間でイヴのファンじゃな
い人なんていない。1度見たら、心に想い続ける。あたしは、本気でそう思った。
 歌が流れる。憂いを帯びた緩やかな曲調。

  海の底の真珠と
  夜空に瞬く星と
  わたしの心のこの恋と
  あなたに捧げる煌めくものたち
  海は荒れ 真珠は砕ける
  空は荒れ 星は砕ける
  わたしの恋だけは変わらない
  幾世の時を経て
  永久に煌めくものは ただ

 トラックが停止し、歌は途切れた。
 充分だった。覚悟が決まった。
 そう。海が荒れて真珠が砕けても、空が荒れて星が砕けても、突然人狩りに巻き込
まれてあなたを失っても、あたしの恋だけは変わらない。
 彼も身寄りがなかった。あたしがいなくなったら、誰が彼の思い出を話せるという
の。
 生きたい。死にたくない。
 彼が守ってくれたあたしを、あたしは精一杯、守ってみせる。
 トラックの扉が開いた。
『降りろ』
 無感情な冷たい声が命じる。全員が降りると、次には『歩け』と命令される。
 あたしの目は、少し前を歩く男の子ふたりを見つけていた。
 ――イヴ、だ。
 髪を下ろしていたし、メイクもしていないけど、その綺麗な横顔は、確かにイヴの
ものだった。
 歩いていると、列が乱れるたびに、乱した人物が列から引き摺り出される。何人も、
何人も。あたしは目の端でその人たちを見ていた。
 どうなるんだろう。どっちがいいの。でもきっと、歩き通せる方がいいに違いない。
 黒いドアの前まで辿り着くと止まるように命じられた。
『前の者から入れ。声を出すな』
 列は三つのグループに分けられ、あたしはイヴと離れてしまった。
 最初のグループがドアの向こうに消える。何の物音もしなかった。数分後、再びド
アが開く。
『次』
 イヴたちのグループだった。
 ドアが左右に開く。
「イヴ」
 あたしと同じグループの前列の人が叫んだ。
「おれたちに歌を、おれたちに歌……」
 兵士が無言で銃を撃った。言葉は途切れ、人の崩れる音がする。
 その時、あたしは、わずかに震えたイヴを見た。ふわっと、イヴの体から沸き上
がったオーラを見た。
 多分、怒り。あの人は、この理不尽なことに対して、怒っている。きっと、諦めて
いない。
 それはとても大きな希望だった。
 怒っている。怒っている。生きることを、諦めていない。
 あたしはひとりじゃない。
 少なくとも、イヴがいる。イヴと一緒にいた男の子がいる。最初のグループにもい
るかもしれない。イヴと同じグループにも、そして、あたしがいるこのグループにも、
きっと、生きて帰ると強く決意している人がいる。
『次』
 重く、低い声があたしたちの番だと告げた。
 黒い扉が静かに開く。
 あたしは顔を上げ、前を見て、足を踏み出した。 




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 4巻を読んで真っ先に捏造したくなったのがこーゆーのってあたりが
 自分のネズミ好きさを物語っていると思います;;
 イヴの描写がほんと、嬉しくて。求められているイヴが嬉しくて。
 生きて、戻ってきて、イヴの舞台を見て、また感動する紫苑が見たいです。
 でもその時は「来るな」って言いそう(笑)。
 「招待するって言ったのに」
 「冗談だとも言っただろ。…来たら、叩きだすからな」
 「どうして」
 「どうしてもだ」
 あんたに見られるのは恥ずかしいんだ、なんか知らないけど、って言ってしまえばいいよ、ネズミ!
 ……生きて帰ってくる、よねぇ…? 『紫苑がついに、一生涯忘れ去ることのできなかった色だ』の
 文が、すごくすごく怖いんですけど! うう、不安。ネズミ…(べそ)。



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