【全幅の信頼を湛えた瞳】…2005.07.27
 



 気味の悪いものでも見ているみたいに、ネズミが読みかけの本から顔を上げて、紫
苑に声を掛ける。
「なんだよ」
「え? なにが?」
 自分の時間に入り込んでいた紫苑は、問い掛けられて、もともと大きな目を更に大
きく見開いた。
「なにかした?」
「それは、おれの台詞だ。さっきから人の顔をじろじろと、失礼なくらい見てるだろう」
 そう言い、不機嫌そうに眉を顰めたネズミに、その顔が歪んだことを「残念だ」と思う
感情が紫苑に浮かんだ。浮かんだことで自覚する。
「ああ、本当だ。ぜんぜん気がつかなかった」
「だいじょうぶか?」
 椅子に腰掛けていたネズミが、組んでいた長い足を解いて立ち上がる。ベッドに座
る紫苑に近づく。
 スッと、ネズミの右手が上がった。
 ただ手を上げただけなのに、その腕が描いた軌道に見惚れる。荒れひとつない指先
が目に移り、間近に迫ったと思ったら、額に触れた。
「熱は、ないみたいだな」
「ないよ。見惚れていただけだし」
「おれの顔にか」
「うん」
 冗談めかして言ったつもりの言葉を大真面目に肯定されて、紫苑の額に手をつけた
まま、ネズミが硬直する。
「ネズミ?」
 動きを止めたネズミを紫苑が見上げる。
 ネズミはため息をつきそうになって慌てて堪えた。いけない。また、紫苑のペースに
嵌まってしまいそうになっている。
 ネズミは堪えた息を喉奥に飲み込むと、紫苑の平熱の額をピシリと軽く叩いた。大
げさに肩を落として見せる。
「ストレートすぎるのも問題あるぜ。そんな口説き文句じゃ、女の1人も落とせやしない。
あんたは、もうちょっと、駆け引きってもんを覚えた方がいいな」
 参考文献はその辺にたくさんあるだろう?
 そう鼻で笑ってやると、紫苑の顔が赤くなる。
「別に、そんなの覚えなくたって不便はないさ。それに、今のは本心だ」
「どこの世界に男が男の顔を見て見惚れていたなんて言うんだよ」
「本当のことなんだから、仕方がないじゃないか!」
「本当のことって……」
 紫苑の本気の剣幕に押され、オウム返しに言葉を呟いてしまったネズミに紫苑がた
たみ掛ける。
「本当に、きみは綺麗な顔をしているんだ。NO.6でも、西ブロックでも、きみほど
整った顔を、ぼくは今まで見たことがない」
 それは「見惚れて何が悪い」と言った開き直り――ネズミにとっては、だ。紫苑として
は素直な主張だろう――のような反論で、ただ、その言葉に嘘やお世辞がひとかけら
も入らないことを、ネズミは知っている。わかってしまっている自分に、なんとなく失敗
したと感じながら、両手を上げた。降参。これ以上言い合ったところで、得することは
何もない。
「はいはい、わかった、わかりました。つまり陛下は、おれのこの顔がお好きという
ことで、それはとても光栄でございます」
 言いながら、うやうやしく上半身を倒してみる。
 しばらく黙っていた紫苑が、小さく、唇を尖らせた。
「……どうして、そう茶化すのかな」
「礼を言ったのに、あんたこそどうして、素直に受け取らないんだ」
「ネズミが変な喋り方をするのは、ぼくをからかう時だからだろう」
 それくらい、わかるようになったんだ。
 フイと視線をそらされる。
 尖らせた唇。膨らむ頬。拗ねている、姿。
 その動作は、実際の年よりも紫苑を幼く見せた。紫苑の子供具合に、ネズミの中に
笑いが込み上げてくる。
 くっくっくっと笑いをこぼしていると、ますます紫苑の拗ね方に拍車が掛かる。口元が
きゅっと結ばれ、それは、決して口を利くものかと言っているみたいだった。
 ネズミは堪えきれず、とうとう、腹を抱え、大声を上げて笑い出す。
 おかしいのと、嬉しいのとでだ。
 変わっていない。変わらない。真っ直ぐな言葉で、いとも簡単に自分の心をざわめ
かせるのも、優秀で飲み込みが早く、だけど、どうしようもなく無知で頑固なことも。
 ひとしきり笑って、あんたはあんたのままで居ろよ、と涙ながらに言うと、じろりと
睨まれた。
「あんまり、ばか笑いすると、顔が歪むよ」
 紫苑の口から、そんな皮肉のひとつが追加される。
 ネズミは未だ肩を細かく震わせながら、それは困るなと言った。
「大事な商売道具だ。歪んだら大変だから、そんなに笑わせるんじゃないよ、紫苑」
「きみが勝手にぼくで笑っているんじゃないか」
「笑いたくなるようなことをするからだ」
「知らないよ。自覚はないもの」
「天然っていうのはそんなもんさ」
 だから、それも含め、変わらずにいれば天性の漫才師になれる。ネズミは、紫苑の
隣に腰掛けると相手の背中を手のひらで叩いた。
「……勉強するよ、そっち方面も」
「そうだな。だが、犬洗いより向いている職業とは思えないけど」
 ネズミの言葉に紫苑が顔を輝かせた。
「うん。楽しいよ。みんな、いい子だし。でも、向いてるかどうかはわからない。今
日は小型犬を洗ったんだけど、みんな泡をつけたままでじゃれてくるから、ぼくも全
身泡だらけになっちゃって、イヌカシに、どっちが洗われてるんだかわからないって、
ため息を吐かれたよ」
 そう言いながらも、とても楽しそうで、ネズミは小さく笑った。
 性格も天然なら、姿形も天然だ。感情がすべて表に出てしまう様。黒くても白くても
艶やかな髪。親しげな口元。やわらかな笑顔。素で、他人を惹きつける。
 ――おれには、あんたの方が……。
 心の中でそう呟いた時には、質問が口から出ていた。
「おれが、作り物だったらどうする?」
「え?」
 ――しまった。
 そんなことを口走ってしまった自分に、ひどく狼狽する――表面には出さないけれど。
 撤回しようと思った矢先に、紫苑からの質問が返る。
「作り物……って、ロボットとか? それはないよな。だってきみは、温かかった。
心臓だってちゃんと動いていたし」
 紫苑はネズミの手を取り、手首の内側に指を当てた。
「ほら、脈だって、ちゃんとある」
 にっこりと笑った紫苑にネズミは毒気を抜かれる。ああ、やばい。これは、危険の
前兆だ。
 止まれ、止めろ。そう思うのに口が勝手に動き出す。触れる、この体温は、自分を
拒絶しないだろう。甘えてみたくなる。頭の中の警鐘を、ネズミの口が無視してしまう。
「そういうことじゃなく。あんたも、思わなかったか? おれは完璧すぎるだろう?」
 自分が美貌であることは知っている。それを良くも悪くも上手く利用して、今まで
生きてきた。
 人形ではなく、ロボットでもなく、生まれてきた時から、いや、生まれる前から、思惑が
あって作られた、そんな、遺伝子を操作しての造形物だとしたら、あんたはどうする?
 一息に言ったネズミは、そして口を噤んだ。
 鼓動が激しい。苦しく感じるほど激しく動く。
 言わなくてもいいことだ。聞かなくてもいいことだ。なのにそれを聞いてしまうのは、
自分が紫苑に――。
 言葉が頭の中でめまぐるしく駆け巡るのを止めたのは、紫苑の言葉だった。
「どうもしない」
 静かな声だった。
「どうもしないし、なんとも思わない。だって、ネズミはネズミだし」
 けろりとした、だけど真剣な、言葉だった。
「きみが仮面を被っているとかだったら、いつか、ぼくの前でそれを外してくれたら
とても嬉しいと思うけど。顔も確かに好きだけど、ぼくはネズミという人間に惹かれ
たんだ。きみがきみの思考を持っている限り、ぼくがネズミを好きだと思う心は変わ
らない」
 真摯なふたつの瞳がネズミを見つめる。ネズミは気づかれないように、体に入って
いた力を抜いた。軽く。
 期待通りの答えを言ってくれた紫苑に、ある意味で呆れると共に、だけど、聞きた
かった言葉が嬉しくて、胸が高鳴る。頬まで紅潮しそうになって、ネズミはそれをご
まかすため、ゆっくりと息を吐く。
「あんたらしいな」
「そう?」
「ああ」
「……で?」
「なに」
 紫苑がネズミに控えめに詰め寄る。
「それは、本当のこと?」
 下から覗き込むようにして視線を合わせてくる紫苑は、ネズミの目から、真実かど
うかを探っていて、ネズミはすぐにいつものように笑ってみせた。
「どうかな」
「……そう言うだろうと思ったよ」
 紫苑の手が動く。そして、ネズミの頬に添えられ、瞬間、唇を塞がれた。
 紫苑の、同じ物でもって。
 突然のことに目を見開いたネズミの唇のそばで、紫苑が囁く。
「これは、約束のキスだよ、ネズミ」
「やくそく?」
「そう。いつか……いつか、ぼくのことを信用してくれて話してもいいと思った時、
きみのことを聞かせて欲しい。もちろん、きみがそんな風に思えるように、ぼくも努
力するけど」
 紫苑は、ふわりと微笑んでネズミから離れると、そろそろ寝る時間だねと言う。
「先に顔を洗わせてもらうよ」
 几帳面にたたんで並べてある本棚の中のタオル――紫苑が整理して管理をしてい
る。ネズミならその辺に置いて、そのうち本に挟まれて出しづらくなってしまう――
の1枚を手に取って、鼻歌交じりでバスルームに消えた。すぐに水の音や歯を磨く音
が聞こえてくる。
 ネズミはぼすんと、後ろに倒れた。
 固いベッドに体を受け止められながら、愉快でたまらない。
 だけど、ここで笑ってしまったら、またヒステリーを起こしたと思われて、水を掛けら
れてしまうだろう。テーブルの上の水差しは満杯だ。それは避けたい。
 胸に、一片の黒い不安も、確かにあるけれど。
 ――まったく。
 やっかいだと思う。紫苑に囚われているのは4年前からずっとだが、ここまで心を
侵略されると、思わなかった。
「紫苑」
 誰かの名前を呼ぶだけで、幸せにも不安にもなれることを、初めて知った。



 いつか。

 それはなんて魅力的な、未来の言葉なのだろう。




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 ネズミの過去や秘密が知りたいなーと思いつつ妄想を膨らませてみました。

 男の子同士なのだから当たり前といえば当たり前なのですが
 どうにもこうにもシオネズっぽくなくてがくりです。
 ちゃんとHして、体の上下関係がわかりやすい話も書きたい…。

 なんにしろ、ネズミを惹きつけて離さない、天然で男前な紫苑が大好きです。
 


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