【自分の痛みなど構いはしない】



 それが偶然の出来事なら、結構、運の悪いことだと思う。
「紫苑!」
 1発の銃声と沈む紫苑の体。目の前で崩れていく紫苑を見たネズミはとっさに左手
を出し、紫苑の体を受け止めながら銃弾が飛んできた方を見た。
 見知らぬ男が銃を手にしている。みすぼらしい姿はしていたものの、その血色の良
さや肌の張りと全身から滲み出る豊かさはごまかし切れない。つまり、西ブロックの
住人ではない。
 ――NO.6の追っ手か?
 ネズミは素早くナイフを取り出し、相手目掛けて投げた。2本続けて。
 ナイフは男の右手の甲と左足の太腿に刺さり、男が地面に膝をつく。
「紫苑、立てるか」
「うん」
「よし、走れ」
 紫苑の負傷は左腕。逃げ足に直接の支障はない。
 ネズミは紫苑を右側から支えながら、半ば引き摺る形で走った。
 相手の足をやったのだ。追ってこれないとは思うが、仲間がいないとも限らない。
直接、家に戻るのは好ましくない。
「遠回りするぞ。しばらく我慢しろよ」
「掠っただけだから大丈夫」
 体内に弾が残らなくても充分、痛い。経験上、それはわかる。
 一刻も早く、安全な場所に移動するために、ネズミは足を速めた。 
 


 追ってくる気配はない。
 住みかに誰かが足を踏み入れた跡もない。木の陰に身を潜め、少しの間、自分たち
の家の入り口である壁をみつめる。
 数分して、紫苑が口を開いた。
「いない?」
「ああ」
「良かった。……狙ってきたわけじゃ、なさそうだったけど」
 自信半分の紫苑の言葉にネズミが頷く。
「あんたも鋭くなったじゃないか。多分、それで当たりだ。単に女でも買おうとお忍
びで来た奴だろう。本格的な装備じゃなかったし。たまたま来て、たまたま見つけ
て、たまたま持っていた銃で撃った。そんなとこだな」
「ちょっと運が悪かったね」
「ちょっとどころじゃない。かなりだ。それより、早く入って服を脱げ。血が張りつ
いて倍の痛さになるぞ」
「それは遠慮したいな」
 そう言って笑った紫苑の顔にネズミはホッとする。少しの我慢は感じられるが、無
理というほどではない。本当に掠っただけだったんだろう。
 だが、紫苑の先に立って地下へ歩きながら、今度は猛烈に腹が立ってくる。
 シャツを脱いだ紫苑の左腕を乱暴に取って、濡れたタオルで荒々しく血を擦り取
る。
「ネズミ、ちょっと痛いよ」
「痛くしてるんだ、ばか。……なんで庇った」
 情報を得る方法ならいくらでもある。探査衛生を使ったり、人を潜り込ませたり。
だが、以前、紫苑が言ったように、NO.6は西ブロックに逃亡した人間まで深くは追っ
てこない。排除することで興味を失った人間の情報収集をすることは、まず滅多にな
いだろう。そして、その滅多にないことが、紫苑に対して例外だという可能性も、殆
ど無い。ということは、黒髪だった紫苑の変化だって知らないはずで、知らない以
上、いきなり発砲することなどありえない。だから、狙われた対象は、紫苑ではな
い。それだけは、はっきりしていた。
「それを言ったら、きみもじゃないか」
「おれはあんたとは違うんだよ」
「なぜ?」
「詮索するなと言っただろ。あんたは知らなくていいことだ……じゃなくて。そんな
話じゃないだろ。なんでおれを庇ったんだと聞いているんだ、紫苑」
 無理矢理切り上げた話に、まだなにか聞きたそうにしていた紫苑だったが、すぐに
諦めて「体が動いたんだ」と言う。
「なんで」
「普通、そうなるだろ?」
 当然のように――紫苑にとっては至極あたりまえのことなのだろうが――疑問を返
す紫苑に、ネズミは大げさに息を吐いてみせる。
「まだそんなことを言っているのか。自分のことだけ考えろと言っただろう」
「言われたけど実行するとは言ってない」
「ずいぶん口が達者になったもんだな」
「きみが鍛えたんじゃないか」
 返される言葉に何も言えなくなる。頭の回転が悪くない人間が言葉も操れるように
なると、本当に質が悪い。
 ネズミは包帯を結び、その箇所を軽く叩いてから手を振った。動物や虫を追い払う
時と同じ仕草で。
「もういい。寝ろ。傷を癒して体力を戻せ。少しでも」
「うん」
 おとなしく頷いてベッドへ歩いた紫苑が、すぐに振り返る。
「……ネズミ」
「なんだ」
「あの時から、ずっと考えていた。今回、撃たれた直後も助かった今も、やっぱり変
わってはいない。きみが無事なことが嬉しい」
「なんの話だ?」
 紫苑の言う『あの時』がなにに掛かるものかわからなくて、そう訊いたネズミは続
けられた言葉に「あれか」と思う。思って、そんなことをずっと考えていたのかと頭
が痛くなった。
「ぼくは、きみに惹かれている。あの時と変わらず。それどころか強くなっている。
きみと共にありたい」
「まだ言葉を覚えていないのか。結構読んだはずだろう、その辺の本を」
「きみはそうやってはぐらかす」
「……あんたのために言っているんだ。情を捨てろ。執着をなくせ。繋がりなんか持
つな。前に進めなくなるぞ」
「気持ちを失う方が進めなくなるんじゃないか? ぼくはこの気持ちがあるから進め
る。きみと生きていきたい。だから頑張れる」
「それで無茶した結果をおれに押し付けるのか。おれがいなきゃ、あんた死んでるん
だぜ」
「何度もね。だけど生きている。きみに助けてもらっている。大切に思ったり惹かれ
るのはむしろ自然なことなんじゃないのか。それに、人と繋がりを持つなというな
ら、なぜきみはぼくの手を離さない?」
 ネズミは心の中で舌を打つ。まったく、成長しすぎだ。
「失敗したと思っているさ。あんたがこれほどうるさくてわからず屋だとは思わな
かった。だけどまだ借りの範疇なんだ。この程度のことでは返せない」
「もうじゅうぶん貰っているのに」
「あんた的にはだろう。おれとしてはまだだ。足りない。だから面倒は見る。それだ
けだ。返しきった瞬間、放るかもしれない」
 ネズミの言葉に、紫苑は微笑んだ。笑って、否定する。
「しないよ。ネズミは、そんなことをしない」
「あんたの中のおれは、ずいぶんいいやつなんだな」
「自信がある」
「人を見る目に? そいつはどうかな」
「違う。自分に。そして、きみに。放り出す機会なんていくらでもあったはずだ。な
のに放り出さなかった。手を尽くしてくれた。きみが言ってくれた『逝くな』の声
を、ぼくは今でもはっきり覚えている」
「忘れろ。そんなものにいつまでも縋っていると、いつか足元をすくわれるぞ」
 ネズミは冷たく言い放った。
 なのに、紫苑の口から洩れてきたのは楽しそうな笑い声で。
「なにがおかしい」
 笑われて面白くないのと困惑とで、ネズミはますます不機嫌になる。だが、気にと
める様子もなく、紫苑は笑い続けた。そして言われたのは、本当に図星の言葉で。
「だって、ネズミも覚えているんじゃないか。そんなことあったっけ、とか、忘れた
とか言われると思ったのに」
「……!」
 忘れた。そうだ、忘れた、だ。そんな選択肢もあったのに。
 苦々しい顔を作ったネズミに紫苑は近寄って、そしてその足元に跪く。
「茶化して言ったあの言葉を、もう一度言いたい」
 真剣なその瞳に、その先を予想するのは簡単だった。顔を背ける。
「言うな」
「言うよ」
「うるさい。言うな」
「聞いてくれるね? ネズミ、きみを愛している」
「……」
「好奇心でもない。こんなに一緒にいたんだ。めずらしいものを見て喜んでいるわけ
でもない。この世界も少しは見た。馴染んだ。現実も見えている。言葉が大切なもの
であることも、あの時よりはずっとずっとわかっている。だから言う。言える。ぼく
はきみに惹かれている」
「紫苑」
「きみは?」
 苦しい。紫苑の告白が。
 似たような愛の言葉なんて、何回も聞いた。殆どがイヴとしてだとしても。今まで
あっさり交わしてきたぶつけられた想いを、どうして紫苑にだけは揺るがされるの
か、わからない。いや、わかっている。わかっているけど、認めたくはないのだ。
 ネズミはやっとのことで低い声を出す。
「……変わって、いない。おれは、今でも、そんな言葉をあっさり言えるあんたを、
信用できない」
 じっとネズミを見続けた紫苑は、ネズミの言葉に、やっぱり微笑んだ。
「――変化しているなら、それでいい」
「変化……?」
「前は信用していないと言った。完全な否定だ。だけど今はできないと言った。とい
うことは信用したいという気持ちはあるんだろう? けっこうな変化じゃないか。今
はそれでいい」
「幸せな思考だな」
「きみに関してはね」
 へたくそなウィンクまでつけて明るく言い放つ紫苑に、ネズミは恥ずかしくなって
ぶっきらぼうに突っ込む。
「すべてにおいてだろ。言葉は正しく使えよ」
 が、紫苑はちっとも気にした様子もなく、ひどく満足したように「言えて、よかっ
た」と言った。
「傷の痛みが言わせたうわ言だと思うぞ」
「なんでもいいよ。伝わったのなら。ネズミ、ぼくは死なない。きみも死なせない。
いつでもきみのそばにいるよ」
「もう黙れ」
「うん。眠くなってきた」
 紫苑は、今度こそベッドに上がり、毛布を体の上に掛けた。今までどこにいたの
か、2匹の小ネズミが出てきて、紫苑の隣に潜り込む。
 今は読んでやれないよ、と小ネズミたちに笑いかけた紫苑は、目を閉じる前にネズ
ミを見た。
「そろそろ仕事の時間だろ? 気をつけて。いってらっしゃい」
「……ああ」



 半分、追い出されるようにしてネズミは部屋を後にした。
 胸が、ざわめく。
 純粋培養のおぼっちゃまは、なんでああも無防備にストレートなんだ。
 自分が必死に作っているバリケードを思わぬところからバリバリと壊していく。
「囚われた方が負け、か」
 ネズミは呟いて、自嘲するように笑い、この時間からどんどん寂れていく西ブロッ
クとは反対に、明かりがつき始め、輝いていく要塞都市を見上げた。
 まだ、負けるわけにいかない。
 だってなにもしていない。
 なんの目的も果たしていない。
「やっかいだな」
 考えたって答えは出せない。紫苑との関係は。
 だから、とりあえず。
 今日明日の食事の分だけ、しっかり稼ぐ。それが、生きる方法だ。
 帰りには。
「少しだけ奮発して、殿下にフルーツを買っていきましょう」
 喜ぶ紫苑が頭に浮かび、ネズミは肩を揺らしながら通い慣れた劇場への道を歩く。



 可愛らしい声で鳴く2匹が紫苑の顔をその手で撫でる。
「ハムレット、くすぐったいよ。うわ、クラバットまで」
 2匹のぬくもりを感じる。そして言った。
「ありがとう。慰めて、くれてるんだよね」
 ――あんたを信用できない。
「言われちゃった」
 心臓を針で刺されたような痛みが、さっきから定期的に訪れている。
「チチッ」
 クラバットが首を傾げる。それは平気かと問いかけているようだった。
「大丈夫。少し参ってるけど、多分、ネズミほどじゃない。きっと、何かあるんだよ
ね、ぼくや他の人を信じ切れない理由が。だったら、ネズミの方がずっと辛いはず
だ」
 力になりたい。
 物理的にも精神的にも。
 だから。
「努力する」
 そう言った紫苑の頬にハムレットが口をつけてくる。
「はは。おやすみのキスかい?」
 そう。今は、寝なくては。ネズミが言ったように、寝て、傷を治して、隣にいられ
るように、頑張ろう。
 決意の後、紫苑は瞼を閉じ、体を休めるために、深い眠りについた。




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