【綺麗に出来たタンコブ(アベハル)】…2005.7.6




 練習が終わり、着替えも終了したにも関わらず更衣室にあるベンチの上に座って、だらだらと時を過ごしていた元希が口を尖らせた。
「なんだよ。まだ帰んねーのかよ」
 ご丁寧に舌打ちまでつけて。
 舌打ちをかまされた隆也の手には、ミットとオイルと布があり、今からミットの手入れをすることは一目瞭然だ。
「オレがなにしていつ帰ろうが、そんなの元希さんに関係ないじゃないスか」
 まるでこっちが悪いかのような口振りに、隆也の口調もきつくなる。
 一緒に帰ろうなどと約束しているわけじゃあるまいし、なんでこの人はこんなに。
 カチンときた頭でそこまで考えた隆也は、ふと手を止めた。
 ――そういえば、なんでこの人はここにいるんだろう。なんで、先に帰らない?
 思わず相手を凝視してしまうと「なんだよ」と言われたので「なんでもないです」と返す。本当は、なぜ帰らないのかと聞きたくはあったのだが、それを訊いて、コドモな質の元希の逆鱗に触れ、目的も言わないままに足音も荒く帰ってしまうことの方が嫌だと思った。
 そんなことを思ってしまった自分に、隆也はひどく驚く。
 なにか、違う気がする。いつもと。答えは目の前にある気がするのに。
 それがなにかわからないことに少し苛立ちを覚えながら、隆也は元希の隣にドカリと座り、自分のミットを磨き始めた。



 磨き方が変だとか面白いとか甘いとか、余計なことにさんざん口を出してきていた元希が急に静かになったので、隆也は相手を横目で見る。と、元希は、隆也が座っている場所以外のベンチ上をすべてを独占して仰向けになり、眠りについていた。
「なにがしたいんだよ、こいつは」
 疲れてるなら、さっさと帰ればいいのに。
 隆也は、わけわかんねェと呟いてミットの手入れを続ける。
 シンとした更衣室の中で、壁に掛かった時計が時間を刻む音と、隆也がミットを磨く音、そして元希の寝息だけが響く。
 一定の寝息。聞いていたら自分も眠りに落ちそうな。
 だけど、その和やかさを時計の針が壊す。
 カチカチ、カチカチ、カチカチカチカチ。
 急かされているようでいたたまれない。なにがいたたまれないのかわからないが、確実に焦燥感だけがじわじわと押し寄せる。胸が、ざわめく。息をするのも苦しい。
 早く終えて帰ろう。
 ざわめく心が手にもそれを伝えたために、まるで自分の体じゃないみたいに上手く動かせなかったが、それでもなんとか終えて、隆也は立ち上がった。
 専用にしている箱にオイルと布を入れて閉め、それをロッカーの奥に突っ込む。ミットは大事に布製の袋に包んでカバンの中に仕舞い、オイルで汚れた手を洗うために更衣室を出た。
 ドアの開閉には細心の注意を払う。
 呆れるほど気持ち良さそうに眠るセンパイを起こしてしまわないように。
 もっとも、そんな心配はするだけ無駄というほどに、相手は深く眠っているようだったけれど。
「元希さん」
 帰り支度を整えてから声を掛ける。小さく。返事はない。
 ベンチの下に置かれた元希のカバンは、入り口をだらしなぱっかりと開けていて、中からタオルまではみ出させている。
 隆也はため息を吐きながらそれに歩み寄ると、膝を折り、タオルを中に押し込んでチャックを締めた。
「元希さ、」
 さっきより大きく呼びかけた声は、敬称を最後まで呼ぶことなく止まった。
 膝を折ったことで近くなった元希の顔を、まともに見てしまったせいだ。
 ――う、わ。
 隆也は自分の口を手のひらで覆う。
 そうしないと感嘆の声を上げそうになったからだった。それも仕方がないだろう。だって。
 ――この人、こんな顔してたんだっけ?
 仏頂面や怒鳴る時の顔の方が印象深いし頻度も多いせいで、気づかなかった。
 隆也の前で眠る元希は、無駄な肉のない輪郭に、すっと伸びた鼻梁で、薄くもなく厚くもなく左右のバランスが取れた口を持っている。きれい、と形容しても違和感がないほど、整った顔をしているのだ。
 そして、閉じた瞼のせいでどこか幼く見える。
 ――ずっと眠ってりゃいいのに。
 ついそんな言葉が浮かんで、自分で噴き出した。それはあまりにも失礼か。
 その時、元希が動いた。
「ん……」
 顔が隆也の方を向く。
 唇が薄く開く。
 元希のカバン同様だらしなく開け放たれていたシャツが、体が動いたことでもっと大きく開く。
 しなやかな項のライン。浮いた鎖骨。シャツの隙間から見えた、小さなほくろ。
 なまめかしさにドキリとする。突然、心臓が早鐘のように鳴り出した。
 ――は? え、なんだよ、これ……ッ。
 動悸は体温まで上昇させる。手のひらが赤い。隆也は簡単に、自分の顔も首も耳も、手のひらと同じくらい赤くなっていることが想像できる。
 熱い。熱い。顔が熱い。嘘だろ、だって、この症状って。
 経験はないが、見たことはあった。仲が良かった同級生たちが好きな子に接している最中や後に、同じような状況になっていて、みんなでふざけて心音を聞いたり脈を計ったりした――遊びに、巻き込まれた。なんでオレに、と思いながらも、何度か人気のないところに呼び出され、告白なんてものを受けた時、相手の女子が可哀相なくらいに赤くなっていた。
 正にそれらと同じ、で、同じってことは。
 もう一度、隆也は元希を見る。
 そうして最初に感じた違和感に思い当たった。
 ――そうだ。いつもより、露出が高いんだ。
 学ランの前を閉めないなんてことは日常茶飯事だが、なぜかシャツのボタンを四つほど開けて着ている。その下に、いつもは着用しているはずのTシャツがなく、開いた箇所から直に肌が見えている。
 夏ならまだわからないことはない。練習後なんて「あっちー」と言いながら、みんながみんな上半身裸のままで汗が流れ落ちなくなるまでうろついたりするから。だけど今は冬で、しかもこれから帰らなきゃならないってのに、なんで。
 そう考えて、また焦る。
 ――なんでもなにも、別にヤローがヤローの前で胸をはだけて見せたからって、この人がオレに疑問がられることもなくて、おかしいのは明らかに自分の方であって。
 だが、いくらそれを自覚しても、もう遅かった。
 体が勝手に動く。
 吸い寄せられるように元希の顔に自分の顔を寄せていく。
 元希の開いた唇からあたたかい息が出て、隆也の唇に触れる。
 隆也はゆっくり目を閉じた。
 元希のそれに隆也の唇が――。


 重なる寸前、監督室のドアが開いた音がして、隆也は後ろに跳ね退いた。



 更衣室のドアがノックされ、監督が姿を見せる。
「誰かいるの? ああ、隆也か。そろそろ閉めるよ。元希、起こして!」
「あ、はい」
 10分後に鍵をかけるからと言い残して、監督はまた監督室に戻って行った。
 隆也の心臓は、まだ早い鼓動を止めない。
 でも、よかった。監督が来て。
 取り返しのつかない――いろいろと――ことをするトコだったと胸を撫で下ろし、隆也は深呼吸してから元希を揺さぶる。
「帰りますよ、起きてくだ……っ!?」
 隆也は学ランの胸元を掴まれ引き倒された。ばちっと目を開け、すさまじい目で睨んできた元希に。
 そして。
 目から火花が飛び出るほどの衝撃に、自然に涙が滲む。額同士をぶつけたのだ。
「いっ……!」
「……ッ!!」
 双方、声も出ないほどの痛みをなんとか堪え、涙で潤む目で睨み合って罵りあう。
「いてェじゃねーか!」
「なにすんですか、あんたは!」
「タカヤが堪えねえからだろ!」
「いきなり引っ張っといてなに言ってんだよ!」
「つーか、そもそもてめェに意気地がねーからだろーが! 男だったらキスのひとつくらいさっさとかましやがれ!」
「は……!?」
 その言葉に二の句を次げない。
 ――何だ? この人はなにを言って……?
 目も頭の中もぐるぐるさせている隆也に構わず、元希は「くっそ」と言った。
「せっかくここまでお膳立てしてやったのに」
 ――お膳立て?
 なにが? どれが? ……どれも?
 帰りを待っていたり。
 無防備に寝てみたり。
 気が変になりそうな寝息を立ててみたり。
 肌をちらつかせたり。
 しかも、タヌキ寝入りまで?
 ぐるぐる回る思考が繋がる。つまりは、なんだ。みんな、こいつの罠ってことか。
 罠? 罠って、なんのために?
 まとまりかけた考えはすぐに新しい疑問によって拡散する。わからない。元希が何をしたいのか。だが、とりあえず騙されたということだけは確実で。
 怒りを言葉にしようと口を開いた時、またもや襟を掴まれた。
「な」
 やわらかいものが隆也の唇を覆う。
 それはしばらくの間、強く押し当てられた。
 離れた後、元希が濡れた自分の唇を舌でぺろりと舐める。
「よし」
「なにが、よし、なんだよ」
 隆也は自分の身に何が起こっているのか全く理解できないままに、呆然と訊ねる。
「にっぶいな。『1ステップ進んだな』の『よし』じゃねーか。次ン時はべろちゅーに挑戦しよーぜ」
 やりたいことをやって言いたいことを言った元希は、機嫌良さげに鼻歌なんぞを歌いながら、自分のカバンの紐を掴んで肩に担ぐ。
 隆也のも手に取って「おら」なんて言いながら寄越しもした。
 途中、2人の足音を聞きつけた監督が部屋から顔を出して「お疲れ」と声をかけてくれたので「ありっした」と返す。元希は元気に。隆也は相変わらず呆けたまま。
 靴を履いていると元希が肘で隆也の脇をついてくる。
「なにボーっとしてんだよ」
 だから正直に言った。
「オレ、展開についていけてねーんスけど」
「はあ?」
「なんでオレと元希さんがキ、キ、キ、キス、したりしなきゃいけねーんですか……っ」
 途中の言葉を口に出すのはえらく恥ずかしくて、でも言わないことには続かなくて、どもりつつも隆也はなんとか、自分の疑問を伝えることに成功した。
 だが、返された言葉は当然のような「したかったからだろ」で。
「し、したかったからって、なんでオレと!」
「お前とだからしてーんじゃねーか。なに言ってんだ?」
「だから」
「うっせえな。スキだからに決まってんだろがよ」
「え」
「え、たぁなんだ。おまえの気に応えてやるっつってんの」
「はあああああ!?」
 最後の言葉は、音に出してはいない。隆也が心の中で叫んだ言葉だ。
 理解できない。どこからそんな思考が。ていうか、オレ、あんたのこと好きだとか言ったことないんですけど。いや、別に、嫌いでもないし、ある程度のソンケーはしてるけど。
 相変わらずひとりでパニくっていると、元希は自転車置き場までついてくる。
「……歩きじゃなかったですっけ?」
「乗せてけよ」
「別に、いいですけど」
 よくわからないままに元希を後ろに乗せて、隆也は自転車を漕いだ。


 気持ちも思考も、まだ整理はつかない。
 きれいに整った元希の顔。
 うなじやさこつやほくろにさわいだ自分の胸。
 隆也が好きだと言い切って、更に、おまえがオレを好きなんだろと暗に込めた、あの人のわけのわからない言動。
 ぶつけた額。
 重ねられたくちびる。
 キスも一緒にいることも嫌じゃないことと、まるで異世界の人間である榛名元希という生き物に興味を持っていることだけは、自信を持って頷けるけれど。
 ズキズキと痛む額のたんこぶが元通りになる頃には、答えも出るだろうか。
 感情がはっきり形になる前に、ステップ2とやらを仕掛けてこないことを祈りたいと思いながら、隆也は後ろに声を掛けた。
「まだ真っ直ぐですか?」
「おう。次の信号を左」
「はい」
 まだ寒い2月の冬道で、背中だけが暖かかった。




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タカヤが鈍いのか元希さんが電波なのかびみょーな感じになってしまいました。
ち、ちがうのっ。元希さんは元希さんなりになにかを感じて確信しているだけで……!
へたれ攻と誘い受を目指して書いていたはずなのにおかしいな。




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