【アベハルアベ】
 …2005年8月発行 無料配本より再録



 聞こえてきたユメのような会話。
 クラスの女子の『理想のタイプ』について。
「あたしねえ、雨の日に自分が濡れるのに構わないで犬とか猫とか拾ってる人みたら、
一発で好きになっちゃうかもしんない」
 どこの少女漫画だと思った。
 そもそも、犬猫が捨てられてるところにすら遭遇するのは難しいのに、その上、雨の日
限定だ。こいつ、一生カレシできねェなと失礼かつどうでもいいことを思いながら、隆也は
机に突っ伏した。昼休みは残り十二分。午後は死ぬほど退屈な念仏――に聞こえること
で有名な世界史――の時間だ。せめてもの抵抗に、今、少しだけでも寝ておこう。
 窓の外の少し遠い場所では、薄黒い雨雲が、違う世界のようにぽっかり浮かんでいる。



 掃除を終えたときに、それはやってきた。
 ぽつり、ぽつり。
 コンクリートに染みを作る。微妙な降りだ。この程度じゃわからない。
 隆也は自転車置き場まで走ると、勢い良くそれに跨る。今日は待って焦れる、週三回
のシニアチームの練習の日で、雨天時は中止になったりするのだが、雨粒は大きいが
そんなに激しくない現状況では決行するかもしれない。むしろ、決行して欲しいと願いな
がら、片手で傘を差し、いつもの練習場へとペダルを漕いだ。
 そしてソレに遭遇したのだ。
 ソレ、イコール、どこの少女漫画。
 風も少し出てきたというのに、首と肩だけで変な具合に傘を支え、足元にはダンボール。
だらしなく緩んだ顔の前には黒っぽい動物。聞こえてくるのは爽やかな笑い声。
「うわ、舐めんなって。くすぐったいだろ。やっべー、カワイイなァ、おまえ」
 本当に、どこの少女漫画だろう。
 雨の日に、子犬を拾って笑顔で戯れる学生服に、もれなく、鼓動を速くする自分なんて。
 でも確かに『好きになる』を意識してしまうシチュエーションかもしれない。普段の仏頂面
とのギャップのせいで。
 相手も自分もミスマッチにもほどがあり、現実だとはあまり思いたくないが、子犬にキスを
した学生服が、立ち尽くす隆也に気がついて「おわ」と声をあげたことで現実に返る。
「な、ナニ見てんだよ」
「この面食らった顔が見えませんか。犬相手だとずいぶん優しいんスね」
 心臓を速めながらこんな憎まれ口が叩ける自分に自分で驚く。隆也の言葉に含まれた
トゲを察した元希が、少し腹を立てたのがわかった。
「コイツはお前と違ってカワイーもんよ」
 大きな手のひらを子犬の両脇に突っ込んで抱える元希は、隆也に向かって舌を出すと
犬に頬擦りした。僅かに濡れているのは子犬の毛皮か元希の頬か。湿ったやわらかそうな
毛が元希の頬に張りついた。
 しばらくして、隆也は元希に声を掛ける。
「そろそろ、時間っスよ」
「知ってる」
 だけど元希の足は動かない。根が張ったようにぴくりとも。
 そのまま自分だけ行けばいいのに、それも出来ず、隆也はたっぷり一分、差した傘の下で
雨の音を聞いていた。雨は、どんどん強くなる。
 そして、もう一度、口を開く。
「こんなんじゃ、練習ナシかもしんねーですし、一回顔出して、中止の連絡聞いたらダッシュ
で戻ってきましょうよ。……連れてくワケには、いかないんですから」
 またしばらく黙った後、元希は「だな」と短く言った。言って、子犬を胸に抱き、頭と背中を
ゆっくりと撫でた。
「ちょっとだけ、待てるか? 待ってろよ」
 すぐ来るからと呟きながら、そっと、子犬をダンボールの中に戻す。
 元希はできるだけ濡れないように木陰にダンボールを押しやると隆也を振り返った。
「乗せてけ」
「荷台、濡れてますけど」
「タオル持ってんだろが」
「そっくりそのままお返しします」
「カワイクネーな」
「いつものことでしょ」
「違いねーけどよ」
 元希は舌を打ちながら歩み寄ってくると、袈裟懸けしているスポーツバッグの中から青色
のタオルを取り出し、隆也の自転車の後部座席の水滴を軽く拭いた。
 遠慮なくドカッと座ると命令を出す。
「よっしゃ、行け」
 その場から自転車が離れるほどに、子犬の鼻を鳴らす声が耳に響いていた。



 予想通り、練習はつぶれた。
 連絡を受けた瞬間に、元希は顔を輝かせ「お疲れさまでした」らしきことを叫んで走り出す。
次回の練習日も聞かないで。
「なんだァ?」
「いつもならゴネんのに」
 三年生たちも同級生たちもいつもとは反応が違う元希に目を丸くする。
 隆也は元希に伝える点も注意深く聞き止めながら、さっきの姿を思い出していた。
 全開の笑顔に、優しい声音。いとおしそうに、犬の体を撫でる指。
 あんなの、見たことがない。
 ちょっと羨ましいかもと思ってしまって、隆也は慌てて頭を振った。
 ――羨ましいって何だよ!
 変なシチュエーションを聞いて、更に目撃してしまったせいだ。思い込みだ。勘違いだ。
つーか、沢村のせいだ。
 勝手に聞いていたくせに、昼休みに奇妙な言葉を、まるで予知か呪いのように残した同じ
クラスの女子にすべての責任を押し付けて、すこしだけ落ち着く。
 そう、これは、勘違い。
 ありえない現実が起こったから、その事実に戸惑っているだけだ。
 そう結論を出して、上級生や監督に頭を下げ、自転車置き場までまた戻る。
 戻る時の足も、元希がいるだろう場所まで自転車を漕ぐ足も、いつもの倍早いなんてこと
は、絶対、気のせいに違いない。



 放心したように立ったままの元希の後姿に胸が痛んだ。
 元希の手は、だらんと垂れ下がっている。何も抱えてはいない。そしてダンボールに生き
物の姿はない。
「いない……ん、です、か」
「ああ」
「……か、かわいかったから、誰か拾ってったのかもしんないスね」
「ああ」
「今頃、きっと、あったかい家の中っすよ」
「……そーだよな」
「! そーです!」
 元希の返答が「ああ」以外の言葉になったのが嬉しくて、隆也は懸命に喋り続けた。きっと
お金持ちで大きな家であったかくて優しい人に拾われていっただろう子犬の幸せについて、
イッショウケンメイ。
 そのうち、元希がぷはっと噴き出した。
 腹を抱えて笑い出す。
「なに、ヒッシになってんだよ、てめえはよ」
 左手が伸びてきて、隆也の頭をガシッと掴み、そしてワシャワシャと乱暴に掻き混ぜた。
「なにするんスか!」
「やー、だって、おもしれーんだもん、お前」
 右手も加えられ、もみくちゃにされる。
「いて! いてェよ! 髪の毛ひっぱんな!」
 隆也の抵抗はまるでないもののように抑えられ、やがて満足したらしい元希が小さな声で
隆也の耳元に囁く。
「サンキュー、な」
 気遣ってくれてサンキューな。
 傍にいてくれてサンキューな。
 それはきっと、この人にとっては目一杯の感謝の言葉で。
 髪の毛を数本引っ張られた機嫌の悪さなんて、それだけでそこかに吹っ飛ぶ。呼応する
ように、雨も止んでいく。
「……帰りましょう」
「おう」
 元希を後ろに乗せ、ペダルを踏もうとした瞬間、後ろでガサリと音がした。
 同時に振り返る。声を上げる。
「あ」
「元希さん!」
 ダンボールから少し離れた繁みの中から、黒い顔が見えていた。


 ――あたしねえ、雨の日に自分が濡れるのに構わないで犬とか猫とか拾ってる人みたら、
一発で好きになっちゃうかもしんない。

 そんなことが本当にあるということを、隆也はこの日、身を持って体験した。
 体験できて嬉しかったかどうかは微妙だけれど。



 かわいい、と歓迎された榛名家で、主人と共にあたたかいシャワーを浴びた子犬は、濡れ
たままで、元気に絨毯の上を転げ回っている。
「風邪ひいちゃうわよ。ちゃんと乾かしてあげなさい」
 姉からドライヤーを手渡されて「へーい」と伸びた返事をする。
 走り転げる子犬を掴まえ、胡座を掻いた自分の足の間に座らせるとスイッチを入れた。
 ブオ、という風の音に、子犬の耳と体がビクリと強張る。
 キッチンから炒め物の音と一緒に姉が質問してきた。
「その子の名前、決めたの?」
「あー、名前かァ。なににすっかな」
 改めてみつめて、何かが頭を過ぎる。
 人工の風か、音か、またはその両方かに怯えて固まりながらもじっと耐える子犬の姿が、
なにかと重なったのだ。
「……?」
 見たことがある。確かに見た。こんな姿になったヤツを。
「あ」
 そして思い出した。
「アイツか」
 スピードの乗った球を肩だの腕だの腹だのに受けているにも関わらず、痛みを堪えて立ち
上がり、まっすぐな目を向けて、捕ることを諦めようとしなかったコーハイの姿。
 元希は、くくっと笑って、姉を振り仰ぐ。
「ねーちゃん」
「んー?」
「コイツ、タカヤな」
「タカヤ?」
「そ。タカヤ」
 いいだろ、と言った元希に、顎の下を撫でられて、タカヤは嬉しそうにワンと吠えた。




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