【雨に流れた罪と罰ーアキハルー】…2005.2.12




 いくら室内の設備が充実しているとはいえ、やはり外での練習がしたい。
 おもいきり走って、投げて、球を打って。
 そんな気持ちで多少なりとも全員がイライラし始めた、梅雨突入の8日目。
 それまでのような土砂降りではなく、ちょっと粒が目に見えるかなというくらいになった。
 3年の4人が、さっきから部屋の隅に集まり雑談をしている。
 それに気づいたマネージャーの宮下が「コラ」と注意しようとした瞬間、その4人が立ち上がった。立ち上がって、うおおおおおと叫びながら雨のグラウンドへ出ていく。手にはグラブとバットを持って。
「ちょ……っ、風邪ひくよ!」
「ひかねーひかねー」
「つか、もう限界。球、打ちてー!」
 泥を跳ね上げながらバットを振りまくる4人を窓から眺めていた他の部員の体もむずむずと動き出す。
「オレ、も、行こう、かなァ」
「雨、そんな、降ってねーし、な」
 誰ともなしにそう言い訳をしながら、スパイクに履き替える。その中にキャプテンの大河や、普段は冷静な町田も含まれていて、宮下は大きなため息をついた。
「榛名、なんとか言ってやってよ」
 自分の体を第一にしている後輩を振り返ると、その後輩もウキウキとした様子でストッキングを穿き直していた。
「榛名まで……っ」
「や、あの、チームワークって大事っスよね。な、秋丸」
「そそそ、そーです。あの、ちょっとだけ」
 大きく口を開けた宮下はやがてそれを引き結ぶと「ハイハイ。行ってきな」と榛名と秋丸に手を振った。
「動かないでたら腐っちゃいそーだもんね、あんたたち」
「すんません!」
 2人で勢いよく頭をさげて、そして同時にグラウンドに向かう。ぬかるんだグラウンドは走りにくいが、それでも空から降ってくるものが、ここ数日、見るからに筋トレしかできなかった大雨よりは断然弱い。
 半分奇声をあげながら走り回る球児たちを見て、宮下は腕をまくり直した。
「もう。仕事ばっか増やすんだから」
 泥だらけで帰ってくる部員たちをそのまま入れるわけにはいかない。
 バケツとタオルがいっぱい必要ねと言いながら、宮下はそれらを準備するために水道まで走った。



「いっくぜー、魔球第1号」
「ちょ! バウンドさせたら取れないに決まってんだろ!」
「バウンドじゃねーよ。消える魔球だっつの」
「ふざけんな! もー。メガネ真っ黒になっちゃったじゃんか」
 珍しくテンションの高い榛名の前でミットを構えると、消える魔球と言い出した榛名は、投げた球を秋丸の1m手前にぶつけ、その泥飛沫で視界を塞ぐなんてタチの悪い遊びをやりだした。
 その威力の凄さに迷惑をこうむりつつも、久々の距離から受ける榛名の球が嬉しい。
 秋丸はミットに右手の拳をぶつけると「よし来ーい」と言って顔の前に構えた。
 その時、向こうの榛名のモーションに「げ」と思う。
 ――ちょっと。アイツ、なに、本気で。
 本気で逃げようかと思った。だけど体は動かず、ミットだけが球につられるようにして動いていた。
 小気味良い音がして、ミットの中にボールが飛び込む。
「お」
「あ?」
 動揺していると返球を促された。返してやると榛名がもういっかいと叫ぶ。
 さっきよりも大きなモーションだった。手の振りも早さも練習の時とだいぶ違う。
 だけど秋丸はその剛速球から逃げるどころか、まばたきもしないでそれを受け止める。
 ズバンと、本日2度目の音が響く。
 呆然としていると、いつのまにか目の前に榛名がいた。
 独特のニヤニヤした笑みで秋丸を見る。そして。
「こっの! やりやがったじゃねーか!」
 秋丸の額や頭を叩きまくる。
「いてっ。やめ、榛名、いってーっつの!」
「ナニがだよ。ウレシーだろーが。あームカツク!」
「祝福なのか悔しいのかハッキリさせなよ」
「うっせ! でもな、言っとくけど、晴れてたらこんなもんじゃねーかんな。今日は水吸ってる分、ちょっと遅ェ」
 オレの全力はこんなモンじゃねェぞと言う榛名に、秋丸は訊いた。
「ね」
「ああ?」
「ホントに、今の」
 ――お前の全力?
 左手に残る痺れが、キャッチボールや肩ならし程度の球威ではないことを語っていたが、だけど、やっぱり本人の口から聞きたかった。
 真剣な眼差しの秋丸に、榛名も真剣に答える。
「ああ。本気だった」
「本当に?」
「本当に」
「嘘じゃない?」
「しつけーな、テメー」
「……ホント、なんだ……」
 嘘やお世辞じゃないことを確認すると、静かに、嬉しい感情が沸いてきた。目の前の榛名を思いきり抱き締める。
「は、ははははは。ホントなんだ。本当にオレ、榛名の球を……」
「……すげーじゃん」
「自分で言うかな、そーゆーことを」
「真実だからな」
「そだね。でもこれで……やっと、罪滅ぼしができるっていうか」
「――は?」
 秋丸の言葉に榛名の表情が険しくなる。ナニを言いやがったんだ、こいつ。
 そんな榛名からそっと体を離して、秋丸は続けた。
「手を離したことを、ずっと後悔していた」



 あれは中2の夏だった。
 時々痛そうにしていた榛名の膝は、半月板が壊れていた。
 だけど怪我したことよりも、治した後の方が問題だった。故障したそのことよりも、自分の指導――それが間違っていたわけだけど――を無視して指定外の病院に行った榛名のその態度が気に食わないという、まるで子供のような理由で、監督はそれまで散々使っていた榛名を登板させることはなかった。
 榛名のロッカールームでの叫びが、今も頭の中を掠める。
 ――野球なんかやめてやるッ。
 絞り出すような声だった。
 日に日に荒れていく榛名を、確執が深くなる榛名と監督を、自分たちはとりなすことができなかった。
 そして、野球が好きで、マウンドからも愛されていて、見る者すべての期待を乗せた投手が、グラウンドに戻ることもなかった。
 登校途中、移動教室、どんな時に見かけても榛名の「は」の字も言えず、話し掛けることすらできなかった。
 榛名が苦しんでいる時になにもできない自分を思い知っていたからだ。
 話し掛けたとして、なにもいえない。榛名の悔しさややりきれなさを拭ってやれない。
 そんな無力な自分を知るのも辛かった。
 話をしないまま、半年が過ぎた。
 中学最後のクラス分けの発表がされ、秋丸のずっと後ろに榛名元希の名前があった。それを目にして、少し体が震える。
 この半年、ろくに目もあわせていない。それどころか姿を視界に入れることさえ拒否していた。榛名は、今、どうなっただろう。
 そろそろと入った教室に榛名の姿はなく。
 なんとなく胸を撫で下ろしていると、後ろから背中をどつかれた。
「邪魔だっつの。ボケっとしてんなよ、秋丸」
「榛名……」
「最後の年にナンデお前と同じクラスだよ。なあ?」
「――それはこっちの台詞だよ」
 昔と変わらない軽口の応酬。荒んだ雰囲気は少しだけあったものの、一時期の、触れたら切れそうな雰囲気はすっかりなくなっていた。
 そして昔にはなかった、知らない人物の自慢話。
 ――オモロイ1年がいるんだ。
 ――お前もアイツの根性見習って。
 ――タカヤがオレの球捕りやがってさ。
 榛名がシニアでいい野球をしているのだということへの嬉しさと寂しさが複雑に混ざって、秋丸の胸に大きなシミを作った。



「なんで付き合えなかったんだろうって。ちょっと榛名が怖かったからって、そんなことで勝手に離れた自分が、すごく格好悪いと思った。だけど榛名とまたこうして野球やれるようになって、せめて、少しでも……」
 そこから続く愚痴は言えなかった。
 榛名が秋丸に鋭いデコピンをお見舞いしたせいだ。
「なにすんだよ……っ」
「過ぎたことをウダウダとうっせーからだよ!」
 怒鳴ると同時にもう一発が飛んできた。
 かろうじて避けて威力を減らす。避けられたことに腹を立てた榛名は、今度は秋丸のメガネを取り上げる。
 秋丸のぼやけた視界の中で、榛名だけがはっきり見えた。
「バカじゃねーの。付き合うだの付き合えなかっただの。ンな期待、これっぽっちもしてねェよ」
 榛名がスパイクで足元の土を蹴散らす。
 ガシガシと音が聞こえるたびに、茶色の泥が榛名の足にも秋丸の足にも掛かる。
 それ以上、秋丸も榛名も何かを喋ることはできなかった。しばらく無言で、だけど動くこともできず、その場に立ち尽くす。
 動いたのは榛名だった。
 秋丸の頭をぐしゃぐしゃと掻き回し、深刻に考えんなよと言う。
「つーか貰ってんだよ、もう。イロンナものをイロイロ」
 本当に野球をやめたいのかと訊いてきたのは当時の副キャプテンだった。
 監督の横暴ってそのことだけで、野球自体を捨てんのかよ。お前にとって野球ってそんなもんだったのかよ。
 熱くなって泣き声にまでなったのは次期キャプテン候補の同い年の奴。
 シニアって手があるよ、榛名。
 メガネの同級生にそう言われたことをハッキリと覚えている。
 ここはいーからシニアに行け。
 押し出してくれたのはキャプテンだった。
 そして戻りたいと思わせてくれたのも。
 嫌だったらいーんだけど。
 無理じゃなかったら応援に来てよ。予選の二回戦だけど。
 なんせイロイロあった身だ。誘われない限り、中学野球なんか観に行くことはなかっただろう。
 そこにあったのは、過去の自分が手にしていたものだった。
 勝ち負けへの拘りはもちろん、仲間への信頼感。一体感。共に感じる、嬉しさと悔しさ。
 ――オレの、居た場所だ。
 スタンド席から眺めながら、ぼんやり、そう思った。
 諦めきれない。夢を追いたい。
 高校野球で、やり直しを図りたい。
 ――榛名、武蔵野希望なんだ。
 ――おー。
 ――ふーん。
 入試の時、家の前にいた秋丸に驚いた。
 ――今日、受験だろ。
 ――お前も?
 ――まあね。武蔵野だから。
 ――は?
 クラスは分かれたものの、放課後に野球部の部室で再会した。
 ――……なんでお前が居んの。
 ――榛名との野球、オモロイから。
 ――あ……っそ。
 ――うん。
「お前がいなかったら、オレはココにいなかったかもしんねーよ」
「え」
「だっから! イロイロ貰ってんだっつの! 余計な心配してねーで、晴れの日にオレの球捕れっかどーかだけ不安にしてろ、ウルトラバカ!」
 榛名が投げつけるように言い放った言葉に秋丸も反応する。
「ウルトラって……榛名に言われたくないよ、スペシャルバカ」
「す、スペシャルってなんだよ、えと、スーパーバカ?」
「榛名なんかグレートバカじゃんか」
「く……テメーなんかただのバカでジューブンだ!」
「そっくりそのままお返しするよ!」
「バカバカバーカ」
「子供じゃないんだから」
「うっせ!」



 激しい言い争いを始めた後輩を3年生が眺める。
「なんだあ、アイツラ」
「ま、若いしな。いんじゃね、タマには」
 止めに入らない方が吉だろ、と満場一致で決めて、晴れてきた空を眺める。
 明日は晴れそうだ。
 そして。
「マウンド整備、大変そーだよな……」
 小さなことからコツコツと。



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