<<エデン>>




 人の形が無くなった十字架を見上げて珍しくもぼんやりするエンヴィーの後ろから、ラストが声を掛ける。
「しんみりしてるじゃない」
「んー」
 気の抜けたような声でエンヴィーは答えた。
「死ぬってああなっちゃうんだと思って。ていうか、グロいよね」
 十字に磔られていたのは、以前、仲間だったもの。
 いまや、骨のひとつ、肉片のひとつも残さずに溶かされ、父親の腹の中に収まっている。
「あんたが、そんな面持ちになるなんて意外だったわ」
 顔を見ればことあるごとに反発していたのにね、とラストが付け加えると、前を見たままでエンヴィーが肩を揺らした。
 そうして小さく呟く。口の中だけで。
「……って、言ったんだ」

 ――たかが薄皮一枚の話じゃねぇか。

 サングラスの奥の目は、結構、真剣だった。




「まーた、そんな妙ちくりんな格好してんのか、嫉妬」
「久し振りの挨拶がそれって、気遣い足りないんじゃないの、強欲」
 ついでに美的センスもね。
 険を含んだ声で、呑気な挨拶に返してやると、グリードはエンヴィーを見直す。爪先から頭のてっぺんまで。
 無遠慮に眺められたエンヴィーは嫌がる表情を隠さない。
「何見てんだよ」
「や、どこらへんが美的センスなんだろうなと思ってよ」
 自分の顎を指で撫でるグリードに、エンヴィーのこめかみの血管が一本、軽く切れる。
 次の言葉には続けて四本くらい切れた。
「元の姿のが良くねぇか? ゲテモノエンヴィー」
「うるせーよ!」
「おっと」
 振り上げた足は金属の壁に当たって、その振動だけを足の裏に響かせた。
 本当に壁に当たったわけじゃない。エンヴィーが変身能力を授けられたように、目の前の男にも『最強の盾』と呼ばれる全身を硬化することのできる能力があるのだ。
 それでもエンヴィーは、逆足を更に振り上げる。握った拳も。
 それらを難なく硬化で凌いだグリードは七発目の攻撃を掌で受け止め、ニヤリと笑った。
「まあ、落ち着け」
「落ち着いてられっかよ! テメェに何がわかる!」
「たいしたことはわかんねーけどよ。おまえの悩みが重い問題じゃねえってことくらいだな。わかるとしたら」
「なに勝手なこと……」
 勢いづいて前進したエンヴィーの胸を、グリードが手の甲で叩いた。少し強めに。
「たかが薄皮一枚のことじゃねぇか。そんなに悲観することか?」
「……けっ。なにをエラそーに。だったらお前も不細工なあの格好で普段から過ごしてみりゃいいじゃねえかよ」
 全身を硬化の鎧で覆ってしまうと化け物としか呼べない体になる目の前の男に言う。自分こそ、見目の悪くない人型を愛用しているくせに――しかもそっちのが本当の姿である分、自分とは違う――よく、そんなことが言えたものだ。
 だけどエンヴィーの悪態にグリードは動じない。
「おいおい。アレの姿を保つ方が力が要るんだぜ?」
「使い果たして死んじまえ」
「ひでぇ言い様だな、兄弟」
 なにがおかしいのか、額に手を当てて豪快に笑ったグリードは、やがて下品なそれを止めて、数回聞いたことのある台詞を吐いた。
「まだ死ねねぇなぁ。俺は強欲だからよ。金も欲しい。女も欲しい。地位も、名誉も、この世の全てが欲しい」
「あーハイハイ」
 聞いたことがなかったのは、最後に付着した言葉だった。エンヴィーの体が固まる。
「おまえもそのうちのひとつだぜ、嫉妬」
「――ハイ?」
 その時、どんな表情をしたというのだろう。
 「そんな顔初めて見たぜ」と、馬鹿笑いしながらそいつが右手を上げて出て行ったのは、多分、百年は前のこと。



 
「オレが欲しいだなんて、だいそれたこと言いやがったんだ、あの男」
 欲しがったことは、いくらでもある。
 綺麗な髪。綺麗な体。綺麗な顔。きれいでかわいいものは好きだけど、そんなもの、自分が持たなければ意味がない。変身能力。それは、なんて自分に合った才能。
 だけどあくまで仮初めの姿だ。
 何度も何度も形を変え、そしてその度に満足はしているけれども、心の奥底にはいつもある。脳の一部にはいつもこびりついている。どんなに時を過ごしても忘れることのできない自分のカタチ。
 自分でもおぞましくなるほどのそれを。
 ――たかが薄皮一枚。
 ――元の姿のが良くねぇか?
「絶対おかしい、あのセンス」
 そう口にした時、エンヴィーの頭の上に何かが放られた。
「なに」
 ラストの、上着。
「みっともないから隠しなさい」
「みっともないってなんだ……って、……え……?」
 顔が、しとどに濡れていた。
 ラストを振り返ろうとしたはずみに顎から水が地に落ちて、それでようやくエンヴィーは自分の変化に気付く。
 目から面白いほどに水が流れている。
「なん……だよ、コレ……っ」
「涙」
「なにそれ」
「知らない」
「どーやって止めんの」
「……わからない」
 だから隠しなさい。
 ラストは静かにそう言った。
 よくわからないままにエンヴィーはラストの言葉に甘える。上着のファーが頬に張り付いて、少し気持ち悪くはあったが、他はレザーで、水を吸収してくれそうになかったので、仕方なくそのままにした。
 水の流れが止まってしばらく経った頃、いつのまにか人数が増えていた。
 ラストの傍にグラトニー。
 広い空間には他の奴らの気配も感じる。
 低い声に名前を呼ばれる。
 ラスト。
 グラトニー。
 エンヴィー。
 ラース。
 スロウス。
 プライド。
 全員で声の方向を見て、言葉を返した。
「はい、お父様」
 時は満ちたのだ。



 すべてを欲しがり、すべてを手にできなかった男がエンヴィーの頭を掠めた。
 いつまでも、ひとりで地獄とやらを見てるがいいさ。
 そう思った。
 オレたちは。
「行くわよ、エンヴィー」
 ラストの声に歩き出す。濡れた上着はその場に捨てていく。
 そして。
 賢者の石と錬金術師とで叶える夢を見る。
「さーて。一暴れするか」

 ――地上の楽園を、この手に。