【キャラメルと絆創膏ーハルアベ】…2004.12.25


 
「手!」
「は?」
 ミットを脱いだ途端、阿部の左側にいた榛名が大きな声を出した。
「手、どうしたんだよ!」
「いてェっ」
 どうしたんだよの、「よ」の音と共に阿部の手首は榛名の手のひらに取られる。怒ったように阿部の手を急に引っ張った相手は、その指先を見て「なんだ」と小さな声を出した。
 そうして手首を離し、阿部の頭を帽子越しにゲンコツの側面で殴る。
「バーカ」
「はァ!? なんなんスか、いきなり!」
 阿部が榛名の意味不明で理不尽な行動に食ってかかると、「指」とだけ言われた。言われるままに素直に左手の甲を見た阿部の目に、赤く染まった中指が映る。
「げ」
 逆剥けから大量の血が溢れていたのだ。もともと荒れていたところに榛名の球を受けていたせいだろう。加えて、この寒い空の下だ。
 珍しくスプラッタ並に出ているその血液に、阿部は更衣室に向かって少し先を歩く榛名の背に向かって「ありがとうございます」と言った。
「全然気付きませんでした」
「鈍感」
「……」
 あんたにだけは言われたくないです、と口に出さずに言い終わると同時に、榛名の声が飛んでくる。
「うっせえ!」
「なんにも言ってないじゃないですか」
「なんか聞こえたんだよ」
「獣並」
「ああ!?」
「なんでもないです!」
 阿部は榛名に負けないくらい大声を張り上げた。
 この人ときたら、良いことを言っていても全く反応しないくせに、都合の悪いことだと、困るくらいに地獄耳になる。
「被害者意識が強ェってことなのかな」
 王様でオレ様なくせにわけわかんねェ、と、やっぱり心の中で言い放ってから、阿部は小走りで榛名の背中を追いかけた。



 トイレに寄って、水道の蛇口を捻る。強く出しすぎた水を少し絞ってからその下に左手を突っ込む。
 透明な水にぶつかられて、赤い血液が流れていく。ある程度見えなくなったところで右手の中指で左手のそれを擦って、きれいさっぱりと肌色の状態に戻した。
「止まってんのかな」
 阿部は疑問を確かめるために第一間接の下を押す。押した箇所から白くなった指先の逆剥けには、ぷくりと小さな赤の点が浮かんだ。
 普通にしてれば大丈夫。
 痛みはなく、ただ血だけ溢れたそこを舌で舐めて、水道を止める。
 季節の変わり目は手が荒れやすい。
 気温の変化になれてくればすぐに元通りになる手を振って水分を飛ばすと、阿部は更衣室に急いだ。
「おつか……って、元希さんだけですか」
「オレだと挨拶しねーのかよ」
「さっきしたじゃないですか」
「何回したっていいじゃねーか」
「ヤですよ、めんどくさい」
 短く答えた阿部に、面倒くさいとか言うかな仮にも先輩に向かってよ、と榛名は笑う。
 笑ったうえに、仮にも先輩、なんて自分で言うなんて珍しい。
 ――帰りの道中気をつけよう。雪でも降るに違いない。
 そう思った阿部が学ランを着終わると、榛名の手からチューブが飛んできた。
 咄嗟に受け止めたそれは、ハンドクリームで。
「つけろ」
なんて命令も一緒に下される。
 しげしげとそれを眺めた阿部は、訊いてみる。
「……元希さんの、スか?」
「おう」
「……へえ……」
「なんだよ」
「や、意外っていうか、ああ、でも、当然なのか」
「アヤシイと思った時はマニキュアもしてんぜ」
「マジすか!」
 逆剥けを作らないよう。手を乾燥させないよう。爪が割れないよう。
 榛名元希という投手らしいといえば、とてもらしい気の遣いようだが、榛名元希という人間としては、とてつもなくらしくないような細かい気遣いだ。
 阿部はカバンを取り出した代わりにロッカーにスパイクを放り込むと、少したてつけの悪いドアを力を込めて閉めた。
 榛名が座る長椅子の隣に腰掛けると、チューブの蓋を取り、中のクリームを少量、手の甲に出す。
「もっと出せよ」
「いっぱいだとベタベタして気持ち悪ィじゃないですか」
「その方が持続すんだよ」
「いいですって」
「いくねェ!」
「ちょ……!」
 榛名に攫われたチューブから500円硬貨大のクリームが出される。
 こんなにいらねーよ、と榛名の右手に付け返すと「いい度胸してんじゃん」とその手の甲を顔に当てられた。左頬にべっとりとハンドクリームがつく。
「うっわ! そーゆーことしますか、フツー!」
「ちょい、ストップ。ストップ、タカヤ!」
 止まれと言われて馬鹿正直に止まった阿部に、榛名の携帯のカメラレンズが向けられる。
「なんスか」
「まーまー」
 撮られること自体、あまり好きじゃない。
 嫌そうに顔を歪めてみたものの、そんなことを言ってもやめる相手じゃないので、大人しく撮られてやった。
 すると。
 撮ったばかりの画像を得意げに見せて、馬鹿なことを言う大馬鹿野郎がひとり。
「タカヤの顔射シー、」
 最後まで言う前に、クリームが浸透してサラサラになったばかりの右手で榛名の額をべちりと叩く。
「おっまえ! センパイ殴りやがったな!」
「殴られて当然だろ! ンなことより、ソレ寄越せよ! 消すから!」
「させっかよ。トーロクして保存だ」
「ふざけんな!」
「取れるもんなら取ってみろよ、チビ」
 立ち上がり、両手を高く上げたところで携帯を弄る榛名を掴まえるために、阿部は座っていた椅子の上に素早く立った。榛名より高くなって携帯に手をかける。と、後ろに逃げる携帯を更に追って、体が揺れた。
「わ」
「あ」
 一瞬の浮遊感。
 そしてバランスを失った体は前のめりに倒れる。
 床にダイブする間際、ガガガと大きな音が鳴り、そして阿部はバフッと、ヤワラカイモノの上に落ちた。
「いってェ……」
 阿部はすぐに起き上がって、自分の下の人の胸倉を掴む。
「怪我は!? アタマ打ちませんでした!?」
 左手の位置を確認して肩を触る。大丈夫。痛がったりはしない。足も、変な風に曲がったりはしていない。唯一抑えている後頭部もコブはできていないようだ。
 ほう、と息を吐く。
「無茶すんなよ、もう……」
 それに対して榛名が口を開こうとした時、更衣室のドアが開き、監督が顔を覗かせた。
「今、すっごい音したけど、」
「あ……」
 そして乱れた椅子と床に倒れている2人に、慌てて駆け寄ると両方を助け起こす。
「倒れたの? 怪我は? 大丈夫か?」
 一生懸命心配してくれている監督に、気まずくなって頭を下げる。
「スンマセン。ちょっと、その、ふざけてて……」
「平気っス」
 監督はどこにも異常なさそうな2人の様子に微笑むと、元気もほどほどに、ついでに早く帰りなさいと言って、まだ残っている作業を続けるために監督室に帰っていった。
「……」
「……」
 とりあえず、黙って、避けられた椅子を元の位置に並べる。
 ――これの位置がこのままで、モロにぶつかっていたら。
 なんともない状態ではなかったし、第1に、倒れてくる自分を避けずに受けとめてくれ、更に椅子にまで気を配った人がいたから無事でいられたんだと改めて思う。だっていきなり過ぎて、多分、まともな受身なんて取れなかっただろうし。
 阿部は床に転がったカバンを椅子の上に置き直して、そのポケットを探った。入っているはずだ。昨日、コンビニで買ったばかりのお菓子が。
 それを握って、榛名の名前を呼ぶ。
「元希さん」
「あー?」
「ありがとうございました。これ、あげます」
「あ?」
 榛名の手のひらに赤色のパッケージを押し付ける。
 楕円に大きな目がついた鳥の絵が描かれている。
 榛名はビニールを取っ払って数個を手のひらに出すと、貰ったばかりのそれを口の中に放り込んだ。
「オレ、ピーナッツの方が好き」
 同じシリーズの黒パッケージのことを出され、阿部はムッとする。
「じゃあ返してくださいよ」
「貰ったからには俺のものー」
 ひひ、と笑った榛名はポケットからいつものガムを取り出した。
「お前にはこっちをやるよ」
「……どーも」
 受け取ろうとした時、榛名の口が「あ」をかたどった。
 その視線を追って、指先の逆剥けから血が出ていることに気付く。
「あー、力、入ったから」
 そう言いながらも、別に痛みのある傷ではない。榛名からのガムを噛むことを優先にしていると榛名が動いた。
 チームのロッカーである1番端を開けて、中の救急箱を漁る。そして手に絆創膏を持ち、「痛々しいから止めとけよ」と、阿部の中指にそれを巻いた。
「どーも」
 その後しばらく妙な間が空いて、そして、阿部の頬に榛名の指が伸びてきた。
 左頬を丁寧に撫でる。
「あ」
 さっきのドタバタの原因になったクリーム。
「忘れてた」
「消えかけてたけどな」
 本日何度目かのアリガトウを阿部が言いかけた時、榛名がニヤリと笑う。
「どーせならコッチで貰いてェな」
 榛名はクリームを伸ばしていた手で阿部の頬を固定すると身を屈めた。
 阿部の唇に自分の唇を重ねる。
 驚く阿部が口を開いたのを逃さずに、その中に舌を侵入させた。
 歯の裏側を舐めて、上顎を舐めて、頬の内側を舐めて、阿部の舌の下に潜り込んで付け根を舐めてから、逃げる舌を絡め取る。
 後ろによろめく体は腰に手を回すことで支えてやり、更に阿部の口内を味わった。
 唾液が交ざり、わずかに水音が洩れ、榛名の息は荒くなって阿部がくぐもった声を出す。
「ン……ッ、ふ、んん……っ」
 榛名は、ちゅっという恥ずかしくなるほどの音を立てて阿部の舌先を吸い上げてから、解放してやった。
 放心している阿部に向かって言う。
「チョコとキャラメルとミントが混ざって変な味」
 キスの前と後で、完全に違うことがある。
 それは互いの口の中のもの。
 榛名の舐めていたキャラメルは今は阿部の口内に。
 阿部が噛んでいたガムは、今や榛名の口の中にと移動していた。
 味の違いは、確かなキスの証。
 だまし討ちみたいなファーストキスだけど、できたことに満足しよう。
 そう榛名が思った時、ぐい、と阿部が独特の、榛名が好きな眼差しで睨んできた。
「キャラメル、嫌いなんですか」
「は?」
「嫌いなんスか!」
「や、別に、キライってほどじゃねーけど」
「じゃあ」


 阿部の台詞に目を丸くして、そして口元を綻ばせた榛名は、阿部の両頬を固定して上を向かせた。


 ――じゃあ、返してください、オレのガム。




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