【ハマイズ】
 …2005年8月12日発行 合同誌より再録



 入学してからずっと、浜田の視線が三橋を追っていることに気がついた。
 自分や田島と一緒に、三橋を目の前にして喋っている時でさえも、その遠い視線は
変わらない。
 胸がざわつく。
 そして、そのざわついた波に泉はおもいきり強く攫われた。
 少し遠かった抽選会会場に連れ立って自転車で行ってきた帰りの、自転車置き場で。



 初めは普通の疑問。
 ――なんで浜田がここにいるんだ?
 田島や三橋と話している。
 近づいて「何を集まってんの」と尋ねた。
「おー。泉もおーす」
 少し救われたような顔で見られ、泉の頭の中に余計にクエスチョンマークが飛ぶ。
 すると浜田が三橋に向き直った。少しの躊躇いのあとで口を開く。
「……あのさ、三橋さあ、オ……オレのこと覚えてないかなァ」
 ――クラスメイト相手に何の質問をしてるんだ、アホだなこいつ。
 三橋や田島もそう思ったらしく、今更な問いに戸惑ったり、フォローを入れたりしている。
「……う?」
「三橋はスゲーアホだけど、お前のカオくらい覚えてんぞ。オレもだぞー」
 さりげに三橋だけじゃなく、自分も『スゲーアホ』扱いした田島に笑ってしまう一方で、
同じクラスになって以来、三橋を見る浜田に気づいた時に毎回感じる、あの波の音が
耳の奥で聞こえ始めた。
 ガッチョッという音で泉は我に返る。
 真剣そうな浜田に、三橋が自転車のスタンドを立てたのだ。
 その行動に、なぜか、ざわつきが大きくなった。心の波が荒れていく。
 なんだ。なにが、起きるっていうんだ?
 自分の心が掴めない。言い様のない不安が胸に渦巻いて、どんどんどんどん大きく
なる。
 浜田が続けた。
「イヤ…そうじゃなくて、小学生の頃」
 その台詞に一気に気が抜ける。
 なんだ、それが気になってたのか。――なんだよ。人違いか。
 この前、行ったばかりの三橋の家は、この学校の近くで、自分たちの家とは優に
自転車で二十分は離れていた。
「こいつんち、学区全然違うよ」
「えっ、マジで?」
「だいたい、浜田が知ってんならオレも知ってるだろ」
 泉が後ろから告げると、浜田はさっきまでの不安そうな色を消して、流暢に喋り出す。
「2年生の途中で引っ越してったから、泉は同じクラスになってねんだよ。うちと同じ
アパートに住んでたミハシじゃねーのかなー。もうなくなっちゃったけど、山岸荘」
 その台詞が決定的だった。だと、思った。
「アパートなわけねェなァ。だってこいつんち……」
「ギ……」
 ――ギ? 
 ところが、自分の話を遮った音の出所は三橋で。
 三橋は顔を真っ赤にしながら勢い良く右手を上げて叫ぶ。
「ギシギシソウ!」
「へ?」
 聞いたことのない単語に泉の脳裏に、食虫花のような植物が浮かぶ。そんな泉を
よそに、浜田も叫び返した。
「そう! ギシギシ荘! やっぱりー!!」
 ――なんの、話?
「同じクラスになってからずっと聞きたくてさーっ。あーっ、スッキリーっ」
 万歳の格好で喜ぶ浜田に続けて田島が三橋に尋ねる。
「ギシギシしてんの?」
「そう。だから、ギシギシソウ!」
「あの建物、築40年くらいだったよなァ」
 6畳1間でさあ、なんて笑顔の浜田とコクコク頷く、普段の人見知りが少し薄れてい
る三橋に、一度は押しやった波が大きくなって戻ってきて、泉を頭から飲み込んだ。
 プラスして、世界が揺れるとか、目の前が真っ白になるとか、そんなことも体感する。
意識が大きく傾いてしまったせいで、感覚がおかしい。ちゃんと地面に立っているのか
さえ怪しくなる。だって知らない。三橋と浜田が知り合いなことも、浜田が、そんなアパート
に住んでたことさえも。
 ――アパート?
 そうだ。浜田よりも三橋の方が疑問じゃね?
「なんでアパート住んでんだよ。あんなでかい家あんのに」
 声が尖っているのが自分でもわかった。やばい。これって、かなり、みっともない。
 だけど三橋は気づかなかったようで普通――あくまで三橋的に、だ――に答える。
「…う……うち、は、かけおち、だからっ」
 ――へ?
 なんだか今日は、聞きなれない言葉をたくさん聞く日だ。
 泉と田島がカケオチに戸惑っている間に、浜田だけが元気に過去のことに思いを馳
せる。
「あーやっぱお前の親カケオチ夫婦だったんだー!! そーじゃねーかって隣近所で噂
してたんだぜーっ」
 そして浜田は大きく息を吐いた。吐いて、本日最大の、聞いたことのない話を振っ
たのだ。

 ――ギシギシ荘のヨシミといっちゃなんだけど、オレ、野球部の応援団つくっても
いいかな。



「いーずーみー」
 自転車の後部座席で浜田が叫ぶ。何度も。それは泉が返事をしないせいなのだけど。
「いーずーみーってば」
「うっぜえ! うっせえ! なんだよ!」
「うわ、ひっでえ」
「ひっでくねェ! オレは漕ぐのでいっぱいなんだよ、70キロの肉の塊、乗っけてんだから!」
「ニクのカタマリって」
 再度、ひでえを繰り返し、おそるおそるながらも浜田は要求を出した。
 コンビニ寄ってくんねェかな?
 泉はそのビクビクした浜田の態度にカチンと来たが、丁度見えてきた緑と白がきれいな、
オープンしたばかりのコンビニにぐいっとハンドルとタイヤを向ける。
 ブレーキを掛けるとヒョイと後ろに降りた浜田が「泉は?」と聞いてきたので「ここにいる」
と告げる。別に、買いたいものもねーし。
「ちょっと待っててな」
「先、帰る。ここまで来たんだからいいだろ」
「そゆこと言うなよー。スグだから、スグ!」
 浜田は泉の前髪に指を突っ込んだ。くしゃりと握って「待ってて」と笑う。泉はフイと横に
視線を逸らした。
「……冗談だよ。帰んねえから、とっとと行って来い」
 浜田は突っ込んだ手を開いて泉の前頭部をポンと軽く叩くと、自動扉の中に入っていった。
 泉は自転車から降りて、植え込みのブロック塀に座る。今しがた触られたばかりの前髪を
右手で上から抑える。
「気安く触んな、バカ」
 ただのコーハイ相手に、なんて思うのは、かなり自分が卑屈になっているせいだ。
 ギシギシ荘。
 おんぼろアパート。
 築40年。
 6畳1間。
 隣近所。
 小学校低学年。
 自分が知っている浜田は、そのギシギシ軋むとかいうアパートから出た後だ。そういえば、
ある日いきなり、増えていた。同地区の仲間として。
「引っ越して、同じ地区になったのか」
 そんなこと、今まで気にとめたことがなかった。


 台風やら大雪やらになったりする登校の前には一箇所に集まり、集団となってから学校
へと進む。並びは前から五年生二年生三年生四年生一年生六年生。二年生の一番後ろが
定位置だった泉と、三年生の一番前を歩く浜田は、顔見知りから知り合いとなり、ともだちに
なった。
 春の通学路清掃も、夏のラジオ体操や地区ごとに割り当てられて使用できる学校のプール
の時間も、秋の廃品回収も、冬の地区主催のスキー行事も、学年を超えて、浜田のグループ
となり、一緒に行動した。もちろん、普段の遊びでも。
 浜田が四年生となり、部活動が始まると、遊ぶ時間は格段に減った。代わりに、部活の様子
を教室から眺めることができた。浜田が走り、打って、投げる姿に憧れた。
 遊びの時より、全然すごい。四年生はもちろん、五年生や六年生より、全然、すごい。
野球ってこういうものなんだ。
 ――ハマちゃんと、野球がしたい。
 その思いは日に日に強くなり、泉は来年を待ち焦がれた。早く『部活』がしたい。『野球部』に
入りたい。
 各部を見てまわる時間が疎ましかったくらいだ。だってオレはもう決まってるのに。
 第二希望なんか書かなかった。野球部以外に、入りたい部なんてなかった。
 初回の部活の時、新入部員として並んでいる泉を見て浜田が笑った。
「よーっす、泉」
 浜田の隣のデカイ人が尋ねる。
「ハマダの知り合い?」
「同じ地区。こいつ、足、かなり早えよ」
「へえ」
 後から覚えたところ、それは六年生でキャプテンだった。
 ――こいつ、足、かなり早えよ。
 その言葉に胸が躍った。幼稚園の頃から徒競走で取り続けた一等が、こんなに誇らしかった
ことはない。
 もっと誇れるように、そして、ついていけるように、努力した。同時に、浜田が見せる野球に、
もっともっと魅せられていった。
 それは中学でも変わらない。
 小学校より厳しい社会で、ハマちゃんは浜田先輩になり、タメ語は敬語に変わったけれど。
 そして楽しそうな顔しか見せなかった浜田が、腕を回しながら顔をしかめるようになり、その
三ヵ月後。練習中に初めて聞いた本気の苦痛の声は、今でも泉の耳に残っている。
「浜田!?」
「浜田先輩!!」
 脂汗が流れ、目をきつく閉じて右肘を抑える浜田の腕を触っていた顧問が、小さく呟いた。
それは、あまりに小さすぎて、すぐ傍にいた泉にしか聞こえなかっただろう。
 ――こんなになるまで、我慢しやがって。
 顧問は、昔、野球小僧だったと自分を紹介した。途中で怪我しちゃったんだけどなと笑って、
お前らも体はホント気ィつけろよと、ことあるごとに言っていた。浜田を病院に連れていく顧問の
後姿は、ひどく悲しそうだった。
 だが、浜田は次の日も、その次の日も、けろりとした顔で部活に出てきた。心配げにみつめる
チームメイトに、へーきへーきといつもの顔でへらへら笑う。言葉の通りに試合にも出た。泉を
早いと称した浜田は、部内の最速記録を持っていて、その浜田が塁に出ると、いつだってベンチ
は湧いた。勝っているときも、負けている時でさえも。 
 だけど。
 病院に行って以来、投手だった浜田が再びマウンドに登ることは、なかった。



 突然、ピタリと頬に冷たいものがあたって、泉は文字通りに飛び上がる。
「うわ、そんなにビビんなよ」
 こっちのがビビったじゃんと目を丸くする浜田の右手にはポカリがある。
「てめ、それはこっちの台詞だ!」
 醜態を見せてしまったことが恥ずかしいやら腹立たしいやらで、泉は浜田に腰に向けて足を
振り上げた。上げた足は左腕でガードされる。
「怒んなって。コレやるから」
 浜田はポカリスエットを泉に持たせた。自分用にはカフェオレを買ってきていて、泉はありがたく
ポカリを受け取りつつも、そっちも飲みたいと言ってみる。
「ん」
 ストローを差した浜田は、自分が飲む前にそれを泉の前に突き出す。
「いっただきー」
「どーぞ」
 久し振りに飲む、ミルクたっぷりのそれは甘かった。
「こんなに甘かったっけ」
「こんなもんじゃね?」
 浜田もストローに口をつける。泉が飲んだ後の。
 それを凝視してしまっている自分に気づいて、泉は慌てて視線を外した。
 ズズーっと中身をすすった浜田がそんな泉に小さな声で訊ねる。
「あのさ」
「あ?」
「オレ、なんかマズイことしたかなあ?」
「あぁ?」
「だって泉、スゲー機嫌悪いじゃん」
 だから、なんかしたのかなァと思って。
 そう言って座っている泉を見下ろす浜田は見下ろしているくせに、捨てられた子犬が人を見上げ
てくるような、正にそんな目つきで泉を見てくる。
 なにか。
 したといえば、した。
 三橋の記憶を呼び起こした。そして、応援団をやってもいいかと、許可を求めた。
 泉が野球部入部をほのめかした時は、ただ笑ってはぐらかしたくせに。
 していないといえば何もしていない。
 浜田は浜田で、なにか理由も事情も、いろいろあるんだろうことは薄々だけど知っている。だけど、
それを本人が言わない以上、無理に追及することではないと思うから、話してくれる日を、泉は
待とうと思った。泉だって、なにからなにまで浜田に話をしているわけではないし。
 だから。
「……オレの虫の居所が悪いだけ。悪かったな、八つ当たりして」
 素直に謝る。カフェオレとポカリの甘さが、泉の苛立つ心を丸くさせたせいもある。
「……そっか」
 浜田が頷いたので、泉は残りを全部飲み干して、空になったペットボトルをゴミ箱に捨てた。
 帰りには暴君になることも忘れない。
「浜田が漕げよ。オレ、後ろに乗る」
「へーい」
 予想はしていたのだろう。
 浜田は異議申し立てもなしで、泉の自転車に跨り、泉が後ろに乗るのを待った。
 重みが来て、腰に手が回る。それを合図に大きく方向転換して走り出す。
 二人を乗せた自転車は、ぐんぐんスピードを上げていく。
 浜田の長い足が、リズム良くペダルを漕ぐ。目の前の背中は一昨年よりも大きくなっている。
 この体が伸びていく様を、ずっと後ろで見てきた。
 学年の差はあっても、後輩の中で特別に可愛がられていると、自覚していたし、自慢もあった。
だから、自分の存在以上に気にしていた三橋と、実際、知り合いだった事実に、驚き、ショックを
受けた。それは、多分、おそらく、独占欲。
 そして、それより強いのは、嫉妬という煩悩。
 聞いたことなかった。知らなかった。浜田が、応援団を作ろうと思ってたなんてこと。
 そして、元後輩の「一緒に野球しよう」には応じなかったくせに、一年か二年付き合った幼なじみ
には、そのヨシミで「応援団を作りたい」とか言うのかよ。
 元後輩に、その『ヨシミ』は発生しないのか。
 その中に、先輩後輩を超えた感情が働いていることを、泉は自分で自覚していた。
 いつからかはわからないけど、結構前からだと思う。はっきりわかったのは中二の時だったし。
 ハマちゃんがスキだという純粋な憧れは、浜田先輩が好きだという恋情に変わっていた。
 だから、それが、働いたゆえの嫉妬でもある。 
 ――ほんっと、みっともねえ。
 そんな事で世界が真っ白になるほどに、自分の中の浜田の存在が大きかったことに泉は初めて
気づいたのだ。
「バカみてェ」
 流れる風に乗せて小さく言ってみる。浜田の背中のギリギリに額を近づけた。その時。
「泉」
 背中が振動した。浜田の声を伝える。
「アホなこと言ってんなって、ムシしてもいーかんな」
「は?」
「オレねぇ、ちょっと嬉しくて、そんでもって、ガッカリした」
「……?」
 先の見えない話になにごとかと丸まっていた背骨を正して浜田を覗き込む。
 すると、浜田はとんでもないことを言い出した。
「ミハシのことでさ、お前、動き止めたじゃん。もしかしてもしかしたらもしかっすかもってちょーっと
期待したんだよ。そのあとも機嫌ワリーし。えーと、その、なんつーか、ヤキモチ、妬いてくれたん
かもなァって」
「は!?」
「や、だからアホだなーって笑ってくれればいんだって」
 そして浜田は軽い調子で「オレ、お前がスキだからさあ」と告げた。
「けど、カンチガイだったみてーで、ガッカリした。やっぱ、そんなに上手く行くワケねーよ。キモチ
だって言ってねんだしさ、って思ったら言いたくなった。とりあえず、聞くだけ聞いといて。オレは、
泉がスキです」
 動きどころか、呼吸も心臓も、停止したような気になった。あまりに突飛すぎてついていけない。
なんだよ。なにがどうしてそーなるわけ?
 だけどパニックを起こす一方で、浜田の言葉が脳内を巡る。スキだから、スキです、泉がスキです。
「到着ー」
「ぶっ」
 いきなりブレーキを掛けられて、泉は浜田の背中に鼻をぶつけた。
「いってェよ!」
「だって泉ん家……」
 着いたじゃん、とブレーキの意味を伝えようとした浜田は、振り返って、そして硬直した。
 そこには、顔どころか、耳も首も指すらも真っ赤に染めた泉がいて、その動揺しまくった顔からは、
自分を否定する感情はまったく見えなかったのである。
「フ、フフフフ、フヘ」
「変な笑い方すんな!」
「いやだって」
「だってじゃねえ!」
 いたたまれなくて地面をみつめた泉は、浜田のベルトについたチェーンを掴んだ。
 そしてひとこと。
「ハナシ、終わってねーじゃん。寄ってけよ」



 寄った泉の家の泉の部屋でハナシどころか次まで進んでしまったのだが、それはだって、若いし、
仕方がないことで。
 浜田は泉を抱きしめながら、その耳元で囁く。
「頑張ってるお前ら見たら、オレもなんかやりたいなって気になった」
「へー」
「だから応援したい」
「……へェ」
「応援、させて?」
「……カッコわるく、ねーならな」
 真っ直ぐじゃない言葉を作るのは泉の得意技で、それは重々承知なので、いくらキツクたって
気にならない。
 あの頃、ミハシは球拾いも、覚えたての野球を反映するのもすごく早くて、ゲームがもっと面白い
ものになったけど、今こうしていられるのもミハシ効果だよなァと、久し振りに会って、本人だと
確認できた幼なじみに、浜田は感謝する。
 ミハシがいたから、感情を丸出しにした泉に会えたのだ。
 帰り間際に、泉が玄関で言った。
「明日、来るんだろ? 遅れんなよ」
「がんばるけど、メールくれっと嬉しいなあ」
「甘ったれんな、バーカ」



 甘ったれはしたものの、自分でやると決めたこと。もちろん、目覚まし三個セットできっちり起きた
けど、直後に届いた「起きろ」メールに嬉しくなる。
 浜田は牛乳をガブ飲みしてパンを口に咥え、眠い足取りながらも、学校に向かうために、家を出た。



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