<<まずは最初の一歩から>>…2006年5月(島崎アンソロジー様に寄稿)




 誰かがどこかで昔から言っていた言葉。
 ――恋はするものではなく、落ちるものだ。
 理解するのは突然で。



 自分の後ろに頼れるチームメイトたちがいる。
 そんなことは、ずっと投手をやってきた自分には既にわかっていることなのに、それでも、なぜかその時に、準太はぎくりとした。別に、ぎくりとなんてしなくていい理由のはずだ。後ろの存在感に安心するなんていうことは。
 だけど、やけに胸の動悸が激しくて、安心と同時に緊張なんかもあったりして。
 ――なんだこれ。
 動揺のためか、投球が乱れた。
 ――やべ。
 ボールにするはずの、少しスピードの緩んだ球がストライクゾーンへと向かっていく。準々決勝まで上がってきたチームの三番打者がそんな甘い球を見逃すはずがない。ボールはバットに綺麗に捉えられた。低く、速い弾道。内野を抜ける。
 行方を追った準太の目に、慎吾がその球に飛びつき、キャッチする様がスローモーションのように映った。
 こんな光景は見慣れている。なのに心臓が騒ぐ。

 しばらくして準太は、あの日のあの瞬間に、自分が恋に落ちたのだと気がついた。同時に、本当に『落ちる』ものなのだと、初めて知った。
未だに、なぜ自分の思いの先が慎吾なのか、はっきりした理由は判明しないけれど。 



「慎吾さん」
 さっきまで後輩たちによってたかって集られていた慎吾に、準太は後ろから声を掛けた。
 全員を別の三年生の元へ送った直後で気を抜いていたのか、慎吾の肩がわずかに震える。慎吾は振り向いて準太の姿を確認すると、先程震わせた肩を軽く竦めてみせた。
「準太か。オレはまた利央たちが戻ってきたのかと思ったぜ」
 おどけたその言葉に、大変そうでしたもんねと準太は笑む。
「あいつら、加減を知らねーからさ」
「そんくらい慎吾さんをスキってことでしょ」
「雰囲気に酔ってるだけ……って可能性もある」
「雰囲気も理由のひとつですけど、確かに」
「だろ?」
 今日は、卒業式だ。
 中高一貫教育の桐青高校は一緒にいる年月に比例して、横の絆はもちろんだが、縦の絆だって多分、他の学校に比べて強い。
 だから別れが惜しくて、はしゃいだりまとわりついたりする。世話になりまくった三年生と、できるだけ話をしていたくて離れない。だって、中学の時の別れとは違う。当然ながら、校舎が移るだけでは済まない。この学校から、桐青高校の生徒であるという関係から、離れてしまうのだ。
「でも、それだけじゃないっスよ」
 暗に、「あなたもそうだったでしょう」という言葉を含める。慎吾だって、去年・一昨年と、きっと今の自分たちと同じ状況を過ごしたはずだ。
 慎吾はそれには答えず、左腕につけた時計をちらりと見て準太に問い掛けた。独特の、からかいを含めた声で。
「準太はコッチでいいのかァ? もう時間がねーんじゃね?」
 校門が閉まるまで、あと十分もない。
 放っておいたら平気で何時間も立ち話をしてしまうだろう生徒たちを追い出すために、桐青では卒業式終了後の校内解放時間は一時間半と決められていて、同級生も後輩も、その時間内に校内にいる好きな人間を探し出し、独占して、最後の時を過ごすのだ。そして今年のそれも、あと十分が経てば終わってしまう。
 準太はぺろりと舌を出す。
「実は、真っ先に行きました」
「お、意外」
「だってこの時間の和サンなんて、ゆっくり話せねーでしょ。絶対、利央たちがぎゃーぎゃー騒いでますもん。……最初に行ったおかげで他にだーれもいなくて、思ってたよりじっくり話せました」
 男気溢れる前野球部主将は、当然のように人望も厚くて、その人の最後の時なんて、絶対に複数の人間が群がっているはずで、群がっている人間の中で最後の隣をキープというのも悪くはないが、とにかく、大好きで尊敬していて憧れている人だ。最後の一瞬よりも、堅実な時間が欲しい。だから、最初に行った。校庭から校舎を見上げる和己をみつけ静かに近寄り、卒業おめでとうございますと、やっぱり静かに言って、少しだけ長く話をした。
 そのことを思い出し、俯き気味になった準太の顔を、慎吾が楽しそうに覗き込む。
「……泣いた?」
「誰がですか」
「準太」
「泣きませんよ」
「ほんとに?」
「ほんとです」
「マジで?」
「マジですって」
「和己に後で聞くぞ」
「……」
 念を押されて準太は口を噤んだ。
 和己と、なんでもない話をして、して、して、そしてどうにか、本題の「ありがとうございました」を声に出すことができた時、和己の大きな手が準太の左肩にポンと乗せられたのだ。こっちこそな、の優しい声と共に。
 熱いものが込み上げてきて、せっかく堪えていたそれが、ほろりと表に出てしまう。地面に染みを作る。ぽたり、ぽたり。
 ――スンマセン。我慢、してたんスけど。
 ――夏ン時のお返しだ。
 あの時はお前に泣かされた。和己はそう言って笑った。あの日以来、和己が決して口にしなかったあの試合の話に触れたこと、更に続けられた「ありがとう」の言葉に、準太は唇を噛んだ。きつく噛む事で、止まらなくなりそうな涙をなんとか我慢した。
 例え慎吾に聞かれたところで、和己は準太が泣いたことを喋らないだろうから誤魔化しはいくらでも効くはずだ。だけど、そこまでして誤魔化すのもなんなので、準太は小さな声で正直に事実を告白する。
「泣きました」
 ちょっとだけ。
「ふーん」
「ほんとにちょっとですよ」
「へーえ」
 慎吾は顔を赤らめながら言い訳をする準太を眺め、ニヤニヤした笑みを浮かべ続ける。
 ああもう、この人は。
「最後までコーハイイジメして楽しいですか」
「楽しいねェ。だって明日からできねーんだぜ」
「そーっスけど、イジメられてる方の気持ちにもなってくださいよ。一応オレだって『やっちゃったなぁ』って思ってるんですから、後悔してるんですから、泣いたことは!」
「今更今更」
「……オレ、今、慎吾さんもすっごい泣かせたいです」
「あー、無理無理。ま、寂しくねェったらウソだけど、悲しくはねーもんよ、オレ」
「あ、でもそれはありますよね。オレ、和さんや慎吾さんたちが高校行っちゃう時はスゲー寂しかったですけど、自分の卒業の時は、全然さっぱりしてました」
「そんなもんだよな」
「はい。利央が騒ぐのがウザかったくらいで」
「ひでー、準太」
「だってアイツうるさいでしょ。さっきも凄かったじゃないですか」
 利央と迅を中心とした野球部の中でも子供な五人組は、三年をひとりひとり探し出し、囲んで一気にお礼と別れの言葉を告げて、また次のターゲットへとダッシュする、まるで嵐のような集団と化していて、過去、準太も中学を出る時にはそれをやられている。ちなみに慎吾や和己は、熱烈で一種乱暴なその挨拶を受けるのは二度目になるが。
「中一ン時とまったくおなじだったな。あまりに変わんねーから爆笑しちまったよ」
「腹、抱えてましたもんね。あいつらも頭撫でられて満更でもなさそーでしたし」
「見てたんだ?」
「慎吾さんの順番待ちしてましたから」
「ふーん」
「しょーがないです、アイツはアホだから」
 そのアホ加減がいい息抜きになったり、場の空気を和ませたり、性格がきつい者同志を取り持ってくれたりするし、実際は言うほどアホでもなかったりするし、なによりストレートに慕ってくれるその態度が結構、かなり、たくさん、喜びになっているのは身を持って知っているが、それでも準太の胸はチクリと痛んだ。
 爆笑していた慎吾さん。
 大口開けてた慎吾さん。
 笑いすぎで涙が出たのか、目尻を指先で拭っていた慎吾さん。
 一年生の頭をぐしゃぐしゃとまぜてやってた慎吾さん。
 いとしそうに目を細めて、そいつらをみつめていた慎吾さん。
 自分には引き出せそうにない、慎吾さん。
 胸の痛みの理由はわかりきっている。嫉妬、だ。
 後輩たちの天然で無邪気なその特性は自分にはないもので、だから、ゴロゴロと犬猫の如く懐ける利央たちが羨ましい。かといって、そういう風にこの目の前の人に可愛がられたいかというと、そんなことはない。
 結局、自分が自分の性格を持っていて、いつからか自覚した「慎吾さんが好きだ」という恋愛感情を持っている限り、どうすることもできない痛みなのである。
 うっかり考え込んでしまい、どうしたよと笑われる。その笑顔も、もう見れなくなる。別れの時が迫っている。このままでは、伝えたいことが伝えられない。残り、二分と三十八秒。
 話を切り出すために、準太は深く頭を下げた。
「今までありがとうございました。いっぱい、お世話になったし、支えてもらったし、いろんなこと教わって、その分、イジメられたりもスゲーしたけど」
「最後のヤツ、余計じゃねェ?」
「事実は事実です」
「ヤサシクしてやったんだって。愛情だよ、アイジョー」
「もー。ちょっと黙っててくださいよ。話を進めらんないでしょーが」
「なんかヤなんだよ、こーゆーシリアスめいた雰囲気ってさ。準太にやられっと、照れくささ倍増っつか」
「オレのせいですか」
「だって利央ん時は背中痒くなったりしなかったぜ」
「背中痒いって……」
 テンポのいい言葉はお互いの口から発されるが、どうにも中身がない。
 そうしているうちに最後を知らせる鐘の音が響きだした。厳かで、胸がしめつけられそうに高く響く、聖堂の鐘の音。
「聴き納めか」
 慎吾がひとりごとのように呟いた。
 これで終わる。一緒の時が。明日からは別々の世界で別々の時間を過ごすことになる。もしかしたら、もう会えない。
 準太は夏が終わって三年が引退した次の朝を思い出した。急に人数の減ったグラウンド。追いかけても姿の見えない、上級生たちの姿。
 それでも同じ校舎にはいた。屋上、図書室、聖堂、購買部、食堂、昇降口、なにより靴箱。どこかでその存在を感じることも実際に見ることもできたのに、もう、そんなことも――。
 鐘が鳴り終わる。慎吾の姿が校門の外に出た。右手が上がる。
「じゃあな、準太」
 いなく、なる。
 ――嫌だ……!
 このまま終わるのは嫌だ。なんの関係もなくなるなんて、絶対に嫌だ。
 告白のための勇気を出すより、子供じみた真っ直ぐな感情の方が先だった。準太は慎吾の右腕を掴む。驚き、振り返ったその人に告げる。
「オレ、慎吾さんが――!」



 やっと言ったと、慎吾は小さく笑った。




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