【友達と恋人の境界線】<2005.5.15>
まだ顧問も監督も他のチームメイトたちも到着前のグラウンドは静かだ。
鍵が掛かっているために中には入れない。
早く来すぎたなと、阿部は同時刻に到着した三橋に笑いかけ、ただ待ってんのもアレだから着替えておくかと提案した。
脱いだ学生服を皺がつかないようにカバンの上に広げていると、突然、思いがけない言葉が三橋の口から出る。
すきです。
そう、言われたのだ。
だから、ああオレもだよと言ってみた。
すると相手が意味を為さない「あ」だの「う」だので不満を表したので「なんだよ」と振り返る。
そこにいたのは真剣以外の何者でもない三橋で。
――ほんと、に、スキ、なんだ。
繰り返されたそれに阿部も面白くない。ぶっきらぼうにもう一度言う。
――オレもだっつってんだろ。
荒げた声に三橋の体がビクっとする。震えんな、怯えんな、こんなことで。
三橋は黙って首をふるふると横に動かし続ける。その口から聞こえるのは「そうじゃなくて」とか「そーゆーのじゃ、なくて」とかのあやふやな言葉。
そのはっきりしない態度が阿部の神経に障った。ぴくりと動いたこめかみが阿部の心の動きそのものだ。荒げた声にさっきよりも強い怒気をこめる。叫んだ言葉は、半分以上がヤケクソでできていた。
「だから! オレがお前をそーゆー意味で好きなのがおかしいってゆーのかよ!」
その時の三橋の顔を阿部は絶対忘れないだろうと思った。
三橋は零しかけていた涙で、大きく開いた両目の半分以上を潤し、鼻の穴を広げたうえに口まで開けていたのだ。
「ぶ」
思わず噴き出した口を左手で抑える。
「すっげーカオ」
「う、だ、だって……」
阿部に笑われたことで顔を真っ赤に染めた三橋は、それでもおずおずと阿部に近寄ってきたかと思うとその両手を握り、コツンと額を合わせた。
口から発した言葉はただひとこと。
「うれ、しい」
そして小鳥が啄ばむようなキスで言葉以上に語った。
スキです、すきです、阿部君が好き。
阿部はとっくの昔に気づいていた自分の気持ちと三橋のそれが同じだったことに安心して――いや、なんとなく知ってはいたけれど――唇を三橋に解放した。
田島は言うに及ばず。多分、100点。
花井には多少怯えつつも、面倒見てもらってるせいか多少緩い。70点。
しょっちゅう声かけてるっぽい巣山と西広にはだいぶ慣れている。85点。
同じクラスのせいか泉にもそれなりで76点。
ポジションのことで話せる上に怖くない人間だからか沖とも79点くらいか。
話してるトコはあんま見ないが、性格のゆるい水谷には危険信号が点らないらしい、73点。
懐く理由はじゅうぶんわかる、な栄口は、田島と違う理由で100点。
客観的に見て自分には60点だと阿部は答えを出した。
何かというと、三橋の心の開き度だ。
そうしてため息を吐く。
なんでオレに1番よそよそしいんだよ、あいつは。
なんだかひじょーに面白くない。
さっきコンビニで三橋と栄口の会話を聞きかじった。
――あれ、今日は肉まんじゃないの?
――う、ん。今日は、いっぱい。
意味が通じた会話かどうかは怪しいが、当人同士さえ通じていればいいのでそれはまあ置いておくとして、『いっぱい』の言葉の通りに、三橋は弁当ひとつとパンふたつ、それにカップラーメンも手に持っていた。
いつもなら、空いた小腹を帰路分だけもたせるためのコンビニでの仕入れだが、今日のは明らかに主食だ。
更に聞き耳を立てていると、どうやら母親が用事でいないらしいことがわかった。
田島もやってきて三橋に体当たりをぶちかます。
――なんだよ、教えてくれりゃ押しかけたのにー。
広い家でビデオ鑑賞会したいよな花井、と後ろの主将に訪ねて、オレを巻き込むな、と真顔で返されている。ビデオがその手のものであることが明白だからだ。
三橋は笑顔とも泣き顔ともとれそうな表情で立っている。田島が家に遊びに来てくれると言ってくれたことが嬉しいのだろう。そんなのフツーのことじゃねェか。阿部はそう思いながらもムカムカした。なんでオレがこんなのに聞き耳立ててなきゃいけねェんだよ。
ムカツキを隠してレジで精算を済ませる。
あまり考えもせずに手に取ったものはミルクココアで、その甘さがむかつきを多少は癒してくれる。三橋が良く言えば興味深そうに、悪く言えば意地汚く、阿部が飲んでいるそれに着目したのも、阿部の機嫌を上向きにさせた。
「飲むか?」
「いい、の?」
「ダメだったら言わねェし」
ありがと、と言いながら阿部の手からココアを受け取った三橋は美味しそうにそれを飲む。
不透明なプラスチックに入った茶色の飲み物は、ストローを通って三橋の口内に吸い上げられる。
消えていく液体と少し窄めた状態の三橋の唇とカップを持った指と。
それらが外灯を浴びてあやしく浮かび上がる。
瞼に焼きつく残像に、阿部はいつもの分かれ道でいつもの道には行かず、三橋の家の方向を選んだ。
阿部の来訪を喜んだ三橋は阿部をリビングのソファーに座らせると、買ってきたばかりの弁当をレンジで温め、カップ麺のためにやかんを火にかけ、壁にかけてある浴室用のリモコンの追い炊きボタンを押した。
「これで、足り、る?」
温かくなったそれらをテーブルに並べながら聞く。
「や、オレはじゅーぶんだけど、お前は大丈夫なのかよ……つーか悪かったな、いきなり」
「そんなことない、よ!」
阿部の言葉に三橋は紅潮させた顔をおもいきり振る。
「ひとりじゃないのも嬉しいけど、一緒が阿部君なのが、すごく、嬉しい!」
「……そりゃどーも……」
相変わらずのストレートな言葉と眼差しがいたたまれなくて、阿部の方が目を逸らしてしまう。
こういう変なところで妙に直球で、いまいち、三橋が掴めない。
うひ、と笑った三橋は「そーだ!」と叫んでキッチンへ戻った。
なにやらバタバタしていたかと思うと、小皿に黒い固まりを持って現れる。
見た目にも美味そうと思えるチョコレートケーキだった。
「お母さんが、食べなさいって、置いてった」
「置いてったって……手作りかなんか?」
「な、なんか、会社の仲良い人の趣味とか、で、ケッコウ、貰う」
「へえ」
「オイシイ、よ、いっつも」
「ああ、わかる」
綺麗なデコレーションに、食欲をそそられるチョコレートの香り。加えて、三橋がフォークを差し出してくるものだから、つい口に入れた。
周りをコーティングしたチョコと一緒にブランデーをたっぷり含ませてしっとりしているスポンジが口の中で溶ける。
「うま」
思わず率直な感想を洩らすと、だよね、と三橋が頬を緩ませ、紅茶作ると言って、またキッチンに駆け出した。
弁当が冷めるとか、ケーキは普通食後のデザートだろとか言う暇はまるでなかった。
そんな三橋に苦笑しながらも、元来、甘いものが嫌いではない――むしろ好きだ――な阿部は、手にもった小皿の上のケーキをつついては口の中に放り込んでいく。
甘い。美味い。そして少し、ほろ苦い。
それがチョコレートがもたらすものなのかブランデーがもたらすものなのかはわからないが、食しているうちに目まで回っているような気になった。
ケーキに用いた少量――多分――の酒で酔うわけがない。とは思うが、自分がぐるぐるしているのは事実で、それは大きなマグカップを持って戻ってきた三橋にも一目瞭然だったらしく、慌てふためきながら手に持ったそれをテーブルに置く。
「あ、阿部君、どうしたの」
頭が、クラクラする。
クラクラというかグラグラというかグルグルというか、なんだか、ムカムカ?
阿部はよくわからない自分の状態に動揺して、そして感情が抑えられなかった。突然、言葉が溢れ出す。
ていうかさ、お前、オレのこと怖がってんだろ、そりゃ怖がらせるよーな態度のオレも悪ィけど、でも田島や栄口みたいに優しくねェし、けどお前は好きだっていうしオレも同じで、それなのに話もまともにできなくて、お前何もしねェし、なんなんだよ。
なんなんだは三橋の台詞だと自分の冷静な箇所が自分に突っ込みを入れる。
なんなんだ。真面目に。この支離滅裂でわけのわからない絡みは。
そうは思うがとめられなくて、ぶつ切りの、主語や述語を飛ばした文句が次々と三橋に向かって出された。
延々続いたそれはやがて途絶える。もう出てこない。
出てこないほどに胸のモヤを表に出したんだろうか。
長く息を吐いてそんなことを思い、唐突にものすごい羞恥が押し寄せてきた。
――うわ、て、オレ、なんか今、すげー幼稚でどうしようもないことを。
三橋は阿部の前の床に半分正座したような格好のまま硬直している。それはそうだろう。いきなり変な絡まれ方したら。
阿部は「ワリ」と言ってこめかみを抑えた。悪い、今のなし、忘れて。
すると顔に温かさが触れた。
顔だけじゃない。胸にも肩にも背中にも。
「三橋……?」
阿部の体は三橋の腕に抱かれていた。
いや、どっちかというと三橋が阿部に抱きついていた、の方が正しい表現だ。
ぎゅうぎゅうと阿部の体を強く抱いて、うれしい、と繰り返す。
ヤキモチも、したいと思ってくれていたことも。
そして不器用でごめんなさいとも思う。
自分のことでいっぱいで、その不器用さが阿部を不安にさせていたなんて、思ってもみなかった。
だから必死に言葉をつむぐ。
「阿部君も優しいよ。た、確かにちょっとコワイ、けど、そーゆートコも含めて、スキです」
三橋は少しだけ体を離すと、阿部の顔を覗き込んで、そして静かに唇を寄せた。軽いキスから深いキスに。唾液が溢れるようなそれに変わる頃には阿部の背中はソファーの上で、三橋はその阿部の上に乗っていて、もうダメだと思う。
タガが、外れちゃう。
すると頬に伸びてきた指が「いいよ。外せよ。外しちゃえ」と囁いた。
西浦に来て、たくさんできた友達はみんなやさしくていい人で。
中でもトクベツにスキな人は最高にいい人で。
スキです、大好き、大好き阿部君。
その言葉以外を忘れてしまったかのように何度も呟きながら阿部の体を撫で、阿部の体の中を何度も往復した。
どろどろになった体を行為の続きのようにはしゃぎ合いながらお互いお湯で流した。
冷めた上に少し渇いてしまった弁当や、伸びきってうどんのようになってしまったインスタント麺をぽつぽつ食べながら、スキンシップに飢えてんのかなとか、いや足りねェのは言葉だろお互い、とか、いろんなことたくさん話す。
会話が途切れるたびに交わすキスも優しくて嬉しくて照れくさくて、お互い、何度も視線を宙に漂わせた。
好きだと打ち明けてしまった時に友人としての関係は終わってしまったのかもしれなくて、だけどそこから踏み出せなかった昨日までと違って、今日から始まった新しい関係はなんだかとてもくすぐったい。
目に見えない線のようなものを越えて今こうして並んでいる自分たちも悪くないと、2人は握った指に力をこめることで確認をした。
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