【いちばん近くに】…2006年1月発行無料配本より再録<2006.9.19>



「あ、あれ? 阿部君、自転車じゃ、ない、の?」
 自転車置き場に向かった他の部員たちに手を上げた阿部に、三橋が問う。
「おー」
 今日は風が強かった。
 普段なら風が強かろうが自転車で行く事を選択するが、今日は朝練もなく、放課後
もミーティングのみだったため、阿部は久し振りに電車で行く事にした。そのため、
帰りは当然、徒歩になる。
「お前も歩き?」
 同じく自転車置き場に向かわずに自分と並んで校門への道を選んだ三橋に、阿部が
訊ねると、三橋は首を縦に動かした。
「う、ん。寝過ごし、て、オヤに、送って貰ったんだ」
「何時まで寝てたんだよ」
「起きたら、八時半、だった、よ!」
 その答えに、阿部は「ぶ」と噴き出しかけた。
「マジで? よく間に合ったな」
「ぎ、ぎりぎり、でっ」
 うひ、と照れくさそうに笑う三橋に、褒めてねーよ、と突っ込んでやる。
 その言葉に、三橋がビクリと身を縮めるのももう見慣れた姿ではあるが、無駄に緊
張させたいわけではないので、阿部は幾分、語調をやわらかくさせた。
「試合の日にそれはやってくれるなよ」
「だい、じょぶ!」
「……だよな」
 勢い込む三橋の返事は言葉だけではない。実際、合宿の時も毎日の朝練も公式・練
習の試合の日も、野球が絡む時の三橋に遅刻の事実はなかった――田島や泉情報に寄
ると朝練のない学校行事の日はかなりの割合でギリギリか下手すると遅刻してくるら
しいが。
 時間通りに来るというのは確かに当たり前のことだが、基本がそれほどシャキッと
していない三橋が、それでも時間を守るというのは野球が好きだという表れのほか
に、怯えがあるんだろうなと思う。
 時間を少しでも過ぎれば、置いていかれるとかマウンドの権利はないと感じている
ような雰囲気がある。
 ――三星ではそうだったのかもしんねェけど。
 長い時間をかけて植え付けられた概念は簡単に上書きされない。
 春に比べればずいぶんと堂々としてきたが『自信が漲る』まで行ったと阿部が感じ
たのは片手の指にも満たなく、その上、どれも瞬間的なことだった。
 それにイラつかないと言えば嘘になる。
 イラつくし、半年という時間を経ても、三橋に心からの自信や安心を与えれないこ
とが悔しい。だけど、まだ半年、でもあるのだ。
「これから、か」
 まだ二年もある。
 投手の攻略が難しいなんて、それは多分、全国何百何千人の捕手が感じているに違
いない。
 気合を入れるための息抜きと、静かに息を吐いて、また大きく酸素を体の中に取り
入れた阿部は、ところでサ、と三橋に声をかけた。
「どこ行くんだ?」
 それは通ったことのない道で。
「こっち、が、近いって、田島君が言ってた」
「ふーん」
 地元民が推薦したというその道には、よく言えば懐かしい、悪く言えばボロい屋並
が延々と続いていた。
 築三十年は経っているんじゃないかという一軒家や、手摺や柱が錆びついていると
一目でわかる木造アパートの群れ。
 時が止まったかのようなその通りを歩いていると、タイムスリップでもしてしまっ
たかのような錯覚に陥る。戦後の日本っつっても通じるかもしんねェなどと失礼なこ
とを考えていると、ピタリと三橋が立ち止まる。
「どうした?」
「あ、あ、あれ……!」
「は?」
 三橋の指の向こうには空き地があって、そこで数人の少年たちが壁に向かって軟式
の野球ボールを投げていた。そして三橋が指したのは、空き地のコンクリートの壁に
不器用に書かれた的で。
「始めは、アレだったんだ、よ!」
「……なにが?」
 三橋の言葉の意を掴めずに阿部が聞きなおす。ついでに相手の顔を見た瞬間、阿部
の心臓が飛び跳ねた。
 不意を打たれて、とても驚く。
 目を見開いている三橋は、めずらしく表情がくっきりで、更に満面の笑顔だったの
だ。
 驚く阿部に気づかずに、三橋は少年たちが使う、少し遠くの四つのマスに分かれた
的をいとおしそうに眺めて、ハマちゃんが作ったんだと阿部に告げた。
「ああいうの、ハマちゃんが書いて、一番最初に投げて見せてくれた、んだ!」
 ストライクゾーンを四マスに分けで、それぞれの中を目指してボールを投げる。
 簡単そうに見えてかなり難しいことだが、九分割で投げることのできる今の三橋な
ら造作もない。
 そしてその造作もないことは、四面楚歌の中でも投手を続けさせるほどに楽しかっ
た、浜田との野球が基盤になっているらしい。
「ふーん」
 阿部はなんとなく、生返事で返す。
 だって、なんとも表現しがたい感情が胸の中で渦巻いているのだ。
 嬉しいと思う。三橋が野球を捨てれなかったことが。だから自分とも出会えたのだ
し、そのきっかけの楽しい思い出と浜田には、自分だって感謝したい。
 同時に、ちり、と胸が痛む。
 それが浜田に対する嫉妬と、的に向かって毎日毎日ひとりで投げ続けた小さな三橋
を思ってのことだとわかったが、どちらがより大きな感情なのかは判断しづらかっ
た。
 だから、ただ「ふうん」と繰り返す。「そっか」と繰り返す。
 そして告げた。
 丁度後ろから吹いてきた風に小さく乗せながら。
「これからは、オレがいるからな」
 その言葉はちゃんと、三橋の耳に届く。
 振り向いた三橋に、阿部は力強く頷いてやる。
 しばらく目を丸くさせていた三橋は、やがて目の縁いっぱいに涙を溜めて、フヒと
笑った。笑ったはずみでそれが零れる。
「ばーか」
 そんなの、当然のことなのに。
 今更の三橋の反応に少しだけムカついて、阿部は三橋の目や頬を乱暴に指で擦っ
た。
「ありが、とう、阿部君」
「……どーいたしまして」
 帰ろうぜと促すと、子供のようにペタペタと足音を鳴らしながら、三橋が阿部の隣
を歩く。


「じゃあな」
「気を、つけて」
「……三橋」
「う?」
 三橋の家の前で別れる間際、周りに誰もいないことを確認した阿部は素早く三橋の
唇に自分の唇を重ねた。
「あべく……っ」
 急なことにほんの少し怖気づいた三橋の手は、しばらくして、阿部の背中にしっか
りと回る。



 いつか、聞きたい言葉がある。
 いつかでいいから言って欲しいと願う言葉がある。

 ――お前にはオレがいるからな。

 ――阿部君にも、オレがいるからね。

 約束しろよという言葉を、阿部は三橋の口の中にゆっくりと吹き込んだ。



 
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