【昨日よりも今日よりも】
…2007.05.24(2004.11月発行同人誌より再録)



 カチャカチャという慣れ親しんだ音が聞こえ、オイ、と声を掛けられる。
「な、なに、阿部、君」
「なにじゃねェ。今のでダウン終わりとか言わねェだろーな」
 終わりです、とは、とてもじゃないけど言えない口調だった。


 何事にも最初と最後が肝心なんだぞと迫る阿部の迫力に押され、コクコクと頭を上
下に揺らした三橋は、再度、肩を回したり屈伸したりを繰り返す。
 少し離れた位置に戻った阿部の視線が痛い。
 だけど同時に、会話を交わしていない時でも、阿部が自分を見てくれているのがわ
かって嬉しい。
 いいひと、なんて表現では収まらないけれど。
 それでも三橋は思った。
 ――阿部君は、いいひと、だ。
「三橋」
「う?」
「帰り、ラーメン屋寄るけど、お前はどうする?」
「あ、い、行く!」
「おう」
 学校帰りに寄り道ができる。
 みんなと同じ場所で着替えができる。
 西浦に通うことを決意してよかった。マウンドで球を投げれることはもちろんだが、
西浦の野球部に阿部を始め、今のメンバーがいたことに、深く感謝する。
 ふっふーん、と自然に出る鼻歌に体を揺らしながら、三橋はユニフォームから学生
服へと着替えた。
 野球部みんなのお気に入りのその店に着くと、阿部が「やる」と一枚の券をくれた。
大盛りサービス券だった。
 阿部くんはいいひとだ。
 三橋はその認識を新たにする。
 今日は、もやしみそチャーシューメンの大盛りにしよう。


    * * * 


 三橋が目を開けると、辺りはまだ暗かった。
 ぼんやりしながら枕もとの目覚し時計を引き寄せる。盤面を見る。
「まだ、三時だ」
 起床時間まで一時間半もある。
 再度寝ようとタオルケットに包まるが、寝るどころか目も頭もどんどん冴えてくる。
「寝れない……」
 いいや。起きてしまおう。
 眠っている両親を起こさないように足音を忍ばせて階下へ降りると、洗面所の蛇口
を捻った。冷たい水を顔にかける。庭で、投球練習を少しやろう。そしてランニング
がてら、早めに家を出よう。朝五時からの朝練が決まって以来、時間短縮用にと自転
車を使っていた三橋だったが、なんとなく、今日は走りたい気分だった。
 監督に指示された、1日に投げてもいい投球数――部活・自主練含め、だ――の
1/3を投げたところで、家の換気扇から良い匂いが外に漏れてくる。
 日本の朝の象徴、みそ汁の匂い。
 大きく振りかぶって最後の球を投げると、三橋は額に浮かぶ汗を手の甲で拭った。
 散らばったボールを拾ってバケツに入れる。
 なんだかとても気持ちが良い。
 家に入ると「おはよう」と母親が笑った。
「今日は早いのね。いつもこうだと助かるんだけどな」
 そう言って、三橋に朝ご飯を用意し、昼用の弁当箱にもご飯を詰める。
 少し冷めたら包んで持っていきなさいの声に、ありがとう、と返す。
 それにはたくさんの感謝がこもっていた。
 祖父のところから戻ってくると言った時、受け止めてくれてありがとう。
 こんな時間に起きて、ご飯も用意してくれてありがとう。
 野球に全力投球できる環境をありがとう。
 応援してくれてありがとう。
「いやあね。なに改まってんの、今更!」
 三橋の心中を察して顔を赤くした母親は、三橋の背中をばちんと叩く。
「じゃあ、お母さん、もう一眠りしてくるわ」
「うん。おやすみなさい」
「気をつけていってらっしゃいね、廉」
「イッテキマス」
 ご飯を勢いでかっ込んで、食器を洗面台に運ぶ。タライに水を張って、それに漬け
込む。
 そうして蓋が開いたままの弁当箱に蓋をして布で包むと、キッチンに持ってきてい
たリュックの一番底に入れた。
 身支度を整え終わると、4時20分だった。この分だと少し早く着くはずだ。
 三橋は、靴紐を結び直して、朝もやの中を学校に向かって走り出した。



 校門にタッチして、息を整える。
 誰もいない時間のランニングはとても快適で、車の排気ガスが充満していない空気
は、胸に心地よかった。
 ふーっと、一際おおきく息を吐いてからグラウンドに向かって歩き出す。
 まだ誰も来てないよね。
 携帯の時計を見ながら、どこで時間を潰そうかと考えていた三橋の足が止まる。
 だって、グラウンドに人影がある。
 ざっざっと、一定の音を出しながらトンボを動かしている。
 誰だろうと考えるよりも先に、目が反応していた。あの体のライン。阿部君、だ。
 グラウンド入り口のフェンスを押すと、キィと小さな音を立てながらそれは開いた
 ――阿部が中に居るのだから当然のことだが。
 阿部が音に振り向く。
 三橋の姿を見て驚く。
「うっす。早いじゃん」
「あ、阿部君、こそっ」
「まあな」
 三橋はベンチに飛び込んで、自分的には超特急で練習着に着替える。
 ベンチ脇に立てかけてあるトンボを握って走り、阿部に近寄ると、阿部はうっすら
汗を掻いていた。額に、首に、多分、全身に。
「阿部君、何時に……」
「あ? 4時過ぎくらいだったかな。そんで適当に走って、今は整備」
「先生、とか、監督は、」
「もう少しで来るんじゃねェか」
「グラウンド、って、鍵……」
「オレが預かってるから」
「そ、なんだ……っ?」
「早起きは苦じゃねェしな」
 阿部はいつも自分より先に来ていた。でもまさか、こんなに早い時間から来ていた
なんて、本当に驚きだ。
 できるだけ肩を動かすようにトンボを使えよ、なんて言いながら三橋の肩を叩いた
阿部の手は結構な熱を持っていて、阿部の体がウォームアップを終了させていること
がわかる。
 次々と部員たちが集まり、それぞれに声を掛ける阿部は今はマウンドを丁寧に整え
ている。
 その表情にドキリとした。
 なんて、愛しそうで嬉しそうな顔をするんだろう。
 野球のこともイロイロ知っていて、作戦も立てれて、守備も攻撃もできるスゴイ阿
部くん。
 そんな認識だったが、少し考えればわかることだった。そうだ。スゴさは努力に裏
付けられる。
 阿部の自信は、すべて、この人知れずの努力の上にあるのか。
 そしてこっそり様子を伺っていて、もうひとつ、気が付いた。
 ――今のでダウン終わりとか言うんじゃねェだろうな。
 以前、言われた言葉だが、それを言うに値するほど、阿部のアップは丁寧な上に長
かったのだ。
 交わした約束を思い出す。
 阿部君がいないとダメなんだと言った自分に、阿部は笑ってくれた。
『三年間、ケガしねェよ。病気もしねェ。お前の投げる試合は全部キャッチャーやる! 
そのかわり、』
「お前も故障すんじゃねェぞ……」
 阿部がくれた言葉を繰り返す。
 うん。うん。うん。
 ただ投げるだけじゃダメだ。
 例えどんなに速い球を投げれても。どんなにコントロールが良くても。投げれなく
なったら、それは意味を為さない。
 オーバーワークしないよう、いつも自分のベストを保って、そして保つためには考
えて動かなくてはダメだ。目の前の、阿部のように。
 三橋は背筋を伸ばす。足も手も、すべての筋や筋肉を伸ばし、縮める。
 丁寧に。
 体をできるかぎり温めて。解して。やわらかくなったら、阿部の構える、あのミットを
目指す。
 


 練習終了間際に降ってきた雨は、着替えが終わる頃には本格的な降りになっていた。
 胸のボタンを留める手を止めて水を製造する夜の雲を見上げていた三橋の後ろで声
がした。
「持ってねェのか、傘」
 振り向いた阿部の手には黒い折りたたみ傘が握られている。
「お前、今日、歩き?」
「う、うん」
「じゃあ送ってくよ。早く着替えろ」
「え、で、でも、遠回り、に」
「なんでもねーよ、それくらい」
「ありが、とうっ」
 勢い込んで言うと、いやまだ何もしてねーし、と噴き出される。
「え、えへ」
 ああ、また、胸のほこほこ。
 阿部が笑うと嬉しい。
 そして、笑わせたのが自分であれば、もっと嬉しい。
 この2ヶ月間で強く感じたことだった。
 阿部が笑う。「言葉が雑だから。いや気ィつけるけど」と三橋に断わったその口が
『バカ』という言葉を紡ぐ回数は多くなった。ことあるごとに出されれば、それはもう
阿部の口癖だ。キツさなんて感じない。むしろ親しくなっている証拠のような。
 グラウンドを出ると、いくつかのグループに別れる。
 自転車組が一番先に駆け出す。濡れるのは覚悟のようだ。
 風邪引かないようにね、の監督の声に、元気よく「うーっす」や「お疲れっした」
と答えて、田島、花井、栄口、水谷、泉が自転車で駆け出した。
 同じく監督や顧問に頭を下げて、残りの5人も歩き出す。
 バン、と黒い傘を広げた阿部が三橋を呼んだ。
「ほら、三橋」
 その呼びかけに、おずおずと中に入れて貰う。
「あれ、阿部は?」
 前を歩いていた巣山が、チャリじゃねーの、と阿部を振り返る。その質問に「ジョ
ギングしながら来た」と答えた阿部は、沖や西広から尊敬の眼差しを向けられた。その
三人は駅に向かうため正門を出て左に曲がる。また明日、と軽く手を挙げて、三橋と
阿部は駅とは反対の道に向かった。
 遠い等間隔で街灯が並ぶだけの道は、車も滅多に通らない。水を弾いて歩く自分た
ちの足音と、傘に落ちてくる水の音、そして、あらゆる場所を叩く雨の音で世界が
いっぱいになる。
 頭に被さった傘のおかげで音がこもる。間近で聞こえてくる阿部の息遣いに、三橋
は顔が上げられなくなった。ひどく、いたたまれない。何か、しゃべらなくては。そう思
った時、ふと疑問に思う。なぜ濡れていないのだろう、自分は。
 いくら両方細身の方とはいえ、傘一本に、男子高校生ふたりがきれいに収まるはず
がない。
「三橋、車」
「あ、うん」
 前方から迫るヘッドライトの明かりに、阿部が三橋に脇に避けろと指示する。それ
に従い、数歩阿部側に寄った三橋は、車が通り過ぎる際に照らした阿部の肩を見て、
目を見開いた。
「あ、あべ、あべくん……!」
「あ?」
 思わず、傘の柄を阿部から奪い取る。
「だ、だだ、だめだ、よ、阿部君の傘、なのにっ」
 阿部の右半身が、ぐっしょりと濡れていたのだ。
 傘を奪い取った三橋は、それを阿部の方に傾けた。肩も入るように。
 阿部は三橋の手を押し返す。
「投手の肩だろ、冷やすなよ」
「右肩は、大丈夫だ、しっ、そそ、それに、阿部君だって右利き、で、捕手で、大事
なことに変わりはないじゃないか……!」
 真剣なその言葉に、誰かの声が被った。
 ――若いと思って乱暴に扱うんじゃねーよ。てめーのカラダだろ。


    * * *


「やり直し」
「はァ?」
 不機嫌そうに言われたその言葉に眉をひそめて疑問を返す。
「なに言ってんスか、元希さん」
 名前を呼ばれた男は、なんでもなにもねェよ、と阿部を睨み返した。
「やり直せっつってんのがわかんねーのかよ!」
「なんのことを言ってるんだかわかりませんって聞いてるんですよ!」
「なんでわかんねーんだよ、鈍感」
「オレ、人間ですから、言葉で言ってもらわないと理解できないです」
「あったま悪ィな、お前」
 ムカっとしたどころではない。ぶちぶちとこめかみの血管を切ってしまいそうにな
りながらもなんとか堪えた阿部を、榛名は一瞥する。そして一言、「足りねェんだよ」
と言った。
「膝の屈伸。腰の柔軟。キャッチャーに必要なもんだろ。それを中途半端な準備しか
しねェヤツに、投げる気になんねーよ」
 ぎくりとした。
 確かに、今日は委員会の会議で学校から出るのが遅くなり、練習時間ギリギリに滑
りこんだために、いつもよりおざなりな準備体操しかやらなかったのだ。
「そんなんでオレの球が捕れると思ってんのかよ。舐められたもんだな」
「……っ」
 榛名の投げる速さも、重さも、手どころか体中に受けていて、その凄さを知ってい
る。口先だけの男ではないことを充分に理解している阿部だったから、榛名からくる
りと背を向けた。
 グラウンドの端によって、もう一度柔軟運動を繰り返す。
 各関節や筋肉を充分に動かしてから、ミットをつけた。
 途端、声が飛んでくる。
「おせーよ、タカヤ! 早く来い!」
 投げないと言ったり、来いと言ったり。いったいコイツの思考はどうなってんだ。
 腹立たしいと思いながらも、阿部は榛名の前に立つ。まずは、キャッチボールから。

 
 榛名が戸田北に入ってから1ヶ月が経った頃だった。朝早くからキャンプに出掛け
るという家族の都合上、いつもより3時間も早く家から追い出された阿部は――母親
が、鍵を渡すのが面倒くさいと言いやがったのだ――一時間は適当に本屋に寄って時
間を潰したが、早くも飽き、なんとなく、戸田北の練習場に足を向けた。
 その辺に座って監督が来るのを待とう、と、軽い気持ちだった。
 入り口に着く前にフェンスを掴む。その場にしがみつく。目に映るものが信じられない。
 そこには、短いダッシュを繰り返す人物が居たのだ。
「元希さん……」
 ダッシュが終わると次のメニュー。それが終わるとまた次と、榛名は黙々と練習を
積み重ねる。
 やがて流す程度のゆっくりとしたランニングに入り、そして榛名の姿が大きくなっ
た。
「……なにやってんだ、タカヤ?」
「え」
 金網にへばりついている阿部を発見した榛名がコースを変えて、阿部の目の前に
立っていた。変なヤツ、と呟きながらも「さっさと入って来い」と言う。
 お前がいるなら投球練習、始めれるじゃん。
 ラッキーと笑った汗まみれの顔を、なぜか正面から見ることができなかった。
 真剣な人間だということくらいはわかっていたけれど。
 いや、やっぱりわかってなどいなかったのだ。
「すみません」
「は?」
 榛名に背中を押してもらいながら阿部は謝罪の言葉を口にした。
「もっと、才能の上に胡座掻いてるような人だと思ってました」
「……」
 怒るかと思った榛名は、ゲラゲラと笑い出し、それから軽く阿部の頭を殴った。
「フツー、そーゆーことは思っても言わねェだろーが。失礼なヤツ!」
 おもしれーし気に入ってるけど、と付け加えられて榛名を振り返った阿部の眉の真
ん中に、皺が寄ったらしい。
 そーゆー反応がムカツクんだよ、と、寄った皺をぐりぐりと伸ばされる。
「いて! いてーですよ、やめてください、元希さん!」
「生意気なヤツにバチだ」
「それを言うならバツでしょう。神様ですか、あんたは」
「あームカツク!」
 軽いプロレス技をかけられながらも、あらゆる筋を伸ばされる。遊びが、柔軟に変
わっていく。
「丁寧ですよね。元希さんのストレッチ」
「あー、オレ、膝に爆弾抱えてっからな」
「らしいですね」
「お、聞いてんの?」
「少しは。あんた、異常なくらい、そこんとこ徹底してますし」
「詳しい話は?」
 教えてやろーかとニヤニヤしながら聞かれて、正直に言う気はねぇよなと思う。
 だから言った。
「別にいーです。話したければ話せばいいし、嘘言われるくらいなら何にも聞かない
方がいいですもん」
「そーゆー口調も生意気」
「これがオレですから」
 だよなァ、と大口を開けて笑った上に、榛名は阿部の頭をポンと叩いた。
「結構、スキだぜ」
 トクン、と心臓が大きく鳴ったことを、阿部は自分で感じた。


 大量に降ってくる雨を見上げながらため息を吐く。
 駄目だ。止みそうにない。
 覚悟を決めて駆け出そうとした体が突然後ろに引かれる。バランスを崩して倒れそ
うになる。
「あっぶねェな」
「……その危ない目に遭わせた張本人が、ナニ言ってるんスか」
 聞きなれたその声は榛名のものだった。
 阿部の両脇に手を入れて、尻餅をつくのを防いだ榛名が「入れてってやるよ」と阿
部に傘を差し出した。
「家、どこだよ」
「あんたの家とは反対方向だって聞いてますけど」
「それ、答えになってねーだろ」
「あっちに向かって十五分くらいです」
 詳しい地名を言ったところで、どうせこの人はわからないだろう。
 そう思って方角だけ示した阿部に「OK」と答えて、榛名は傘を開いた。
 左腕で傘を持ち、左側へ阿部を入れる。
「で、家が反対方向の元希さんが、なんでここに居るんですか」
「いちゃワルイのかよ」
「そうは言ってませんけど」
「言ってるみてー」
 弾む会話に楽しそうに反応した榛名は「びょーいん帰り」と短く言う。
「……そうですか」
「そーなんだよ」
 それから十分後、阿部の家の前に着いた時、頭を下げた阿部に榛名は真剣な顔を
見せた。
「野球選手が、肩を冷やすなよ。余計な出費でもなんでも、こーゆー時は傘を買え。
百円ショップでいーんだからよ」
 ――若いと思って乱暴に扱うんじゃねーよ。てめーのカラダだろ。
 故障を体験したことのある人間の、重みのある言葉だった。
 素直に「はい」と答えた阿部に、榛名は「うし」と笑って、乱暴に阿部の髪を掻き混
ぜた。
 阿部は乱れた髪のまま「ちょっと待っててください」と言って榛名を待たせ、自分は
家の中に入ると、厚手のスポーツタオルをタンスから出す。急いで門前に立つ榛名の
元に戻り、それを差し出した。
「投手が、いくら利き腕じゃないからって、肩、冷やさないでください」
 阿部に多く差しかけられていた傘は、榛名の左肩と頭だけを守り、右肩は着ている
服の色が変わるほどに濡れていた。
「サンキュー」
 タオルを受け取った榛名はそれを阿部の前で右肩に入れる。
 じゃあな、と言って、もこもこして不格好な姿のまま、来た道を戻って行った。
「……りがとう、ございます……」
 遠くなる背中に、一礼して、その背中が完全に消えるまで、阿部はそこに立っていた。


 いっそ、嫌な思いだけが残っていればいいのに。
 阿部は唇を噛み締める。
 確かに榛名は、譲れない物のためなら自分を最優先にするような人間だったが、
そうじゃない場面では他人も気遣える性格だったことは、偽りようのない事実だった。
 優しくされたことや、感化された行動は、今も自分の中に残る。
 できる限りの練習時間の作り方。
 今、こうして、三橋の肩を大事にしようと動く体。
 忘れない。
 忘れられるわけがない。
 忘れるには、相手の引力が強すぎたのだ。
 

    * * *

 
 三橋は、黙り込んでしまった阿部の顔を覗き込んで、はっとする。
 遠い目。
 このカオは。
 ――榛名サンのこと、考えてる?
 練習の一環として観に行った、春の大会、浦総対武蔵野第一戦。
 思いがけず聞いた阿部の過去の話。
 阿部にとって楽しい話ではなかったようで、ぽつぽつと話して聞かせてくれながら、
時折無表情で――その実、多分、とても傷ついているカオで――黙り込んでいた。
 あの時と、同じ表情。
 過去は消せない。
 やりなおしたいとか、なかったことにしたいとか思っても、どうにかなるものではない。
 それは、三橋自身、よくわかっていることだ。
 阿部君は、榛名サンが好きで、榛名サンに、拘って、そうして、ここにいる。
 聞いた話だけではわからない、阿部だけの拘りが、きっとたくさんあるのだろう。
 少しずつ、少しでいいから。
「楽に、できないかな」
 そっと呟いて、三橋は阿部の手を握った。
「三橋?」
 突然、手を握られたこと。
 しかも、かなりの強さであることに阿部が反応する。俯かせていた顔を上げる。
「阿部、君」
 三橋は握る指に更に力を込める。
 三星戦で、過去から現在まで引き摺る怖さに対して、堪えきれず逃げ出した自分を
阿部が力づけてくれたように。
 あの時のあの手に、自分が少しでもなれるように。
 阿部君。 
 オレは、ここにいる。
 なんにもできないけど、でも、できれば、力になりたいと思っているオレがいる。
 思いに比例して、三橋の手も指も熱くなる。
 つられるように、阿部の指先も、温かくなってきた。
 ついでに、顔も。
「あ……」
 真っ赤になっていく阿部に三橋は思い当たる。
 もしかして。もしかしなくても。
 元気づけたい思いだけじゃなく、別な、その、超えている部分まで、手を通して伝
わってしまったのかもしれない。
 監督から聞いた話を思い出す。
『手っていうのはイロンナことができるよね。そんでもって、実は顔よりずっと正直
なんだよ。だから、手を握ると、イロイロなことがわかるの』
 つき指した三橋を診てくれた時に、そんなことを言っていた。
 その時は意味もわからず頷いていたが、今ならわかる。
 そうだ。伝わる。伝えられる。伝えてしまった。
 パニックになりながらも、握った手は離さない。そうして、足が一歩、前に出た。
 自分の唇を阿部の唇に近づける。近いところで息がかかり、そのままゆっくりと重
ねた。
 時間にすると、もしかしたら3秒ほど。だけど三橋にとっては1分のような、逆に
1秒もないような、不思議な時間の感覚だった。
 離して、正面から阿部を見てしまう。
 無表情なままで、顔色だけ赤に変えたその人が、異常なほどに可愛いくて、ツボに
ヒットして、三橋も耳まで真っ赤になる。
「あ、えっと……!」
「なんだよ、今、の」
「え、え、その」
 どもった三橋だったが、唾を飲み込み首を上げる。顎を突き出して宣言する。
「キス、だよ」
 阿部君がスキだからシタ。
 はっきり、そう告げる。
「冗談、とか、勢いじゃない、よ」
 本気なんだと、ちゃんと伝えたいと思った。
「……」
 触れた唇を右手で抑えて、ショックを受けていたらしい阿部が、やがて口を開く。
「いきなりは、やめろよな」
 心停止するかと思っただろ。びっくりしすぎて。
「あべ、君」
「嫌いじゃない。嫌いじゃねェよ。今だって、嫌じゃなかった。けど、三橋をそーゆー風に
スキかって聞かれたら、ちょっとわかんねェ……」
 阿部が一生懸命に伝えてくれる、ごまかしのない言葉に嬉しくなる。
 今は、それで充分だし。
「うん。ごめん、ネ。とつぜん」
「や、びっくりしただけ」
「そう、だよね。びっくりだよ、ね」
「なあ?」
 あはははは、と、中々に空々しい笑い声を響かせた後、同時に「それじゃあ」と言った。
 一瞬黙って、またハモる。
「また明日」
「また明日」
 肩が揺れた。
 いつまでも笑っていたい気分だった。



 離れたところに座る阿部が叫ぶ。
「三球!」
 一球目。ど真ん中。
 二球目。ど真ん中。
 三球目も、同じところ。
 力一杯投げたストレートは、すべて、阿部の構えるミットの中に収まった。初めての、
ことだった。
「ナイスボール!」
 キャッチャーマスクの後ろで、阿部が笑ったのが見えた。
 もっと。
 もっともっと頑張ろう。
 なりたい自分に近づくために。



 昨日よりも、今日よりも。
 明日はもっと、強くなる。