【a beginning】<2008.10.29> ※2007年9月発行同人誌より再録


 闇の中に足が浮かんでいる。
 白い、足。足首から下だけだったそれはやがて膝まで現れた。せわしなく動いている。
 阿部は不思議な気持ちでそれを眺めた。
 見覚えのある、というか、間違いなく毎日見ている自分の足だ。そしてその足が、仰向けに寝ている自分の視線の先にあるとはどういうことだろう。
 すると、膝が自分の裸の胸についた。腰が浮く。それから、とても大きな圧迫が訪れる。
 体が割り開かれたのだ。
 おおきく広げられた両足の間に人が入り込む。無理矢理こじ開けられた体の穴の中になにかが捻じ込まれる。
「あ……!」
 本来、出口のはずの場所を入口として、熱く固いそれが阿部の中に深く埋まっていく。
 痛みはなかった。
 どこまでもどこまでも進入してくるそれで、内臓が埋め尽くされる。埋め尽くしたものがどくどくと脈打ち、阿部の中で今にも弾けそうだ。内臓を犯されることが苦しいのか、それとも体勢が苦しいのかわからないが、阿部は助けを求めるように目の前の人物の首に手を回した。
 腕を絡ませると相手の腕も阿部の背中を抱く。
 知っている匂いだった。
 知っている体温だった。
 知っている顔だった。
「みはし……?」
 三橋は笑って、阿部の中を掻き回す。
「あっ、あ、あ……!」
 激しさに声が漏れる。どんどん、追い立てられる。快楽の絶頂まで。
 揺さぶられ、前を握られて、阿部は三橋の腹部に自分を擦りつける。
 ――阿部、君。
 耳元で愛しげに名前を呼ばれ、そのやさしさに鳥肌が立つ。体も心も熱くなる。
 みはし、と呼び返したいのになぜか声にならず、阿部は背中を仰け反らせながら精を解き放った。

「――って、なんだよ、今の……!」
 阿部は飛び起き、汗に濡れた額を手首で擦った。張りついた前髪を払う。
 

 明け方の夢は正夢になるという―― 



 ――あんな夢を見たのは、絶対、三橋とコイツのせいだ。
 阿部に「コイツ」と呼ばれた雑誌の表紙には、筋肉の盛り上がっている男のセミヌード写真が載っている。中身はというと、これまたセミやオールの野郎の裸と絡み合い、その創作と実話、恋人募集などが掲載された、いわゆるゲイ専門誌、だ。
 先にスキだと告げたのは確かに阿部の方だった。だがそれは「仲間」や「友人」「人間」としてへのスキであって、それ以上の意味はない。すぐに三橋から.返ってきた「オレも阿部君がスキだ!」も確かに同じ意味であったはずなのに、いつから違うものが含まれ始めたのだろう。
 四日前は風が強かった。
 その風に乗って、声が聞こえたのだ。三橋の家の前で別れた後に。
 ――好きだ。
 思わず自転車を止めて振り向く。振り返った阿部に、三橋がビクリと体を硬直させた。泣きそうな顔になる。
「今、なんか言ったよな」
「う」
「気のせいじゃないだろ」
 三橋の態度でそれはわかる。だけど阿部は敢えて確認する。キョロキョロオドオド怯えていた三橋はやがて、ぎゅっと両のこぶしを握った。そして肯定する。
「――うん」
 阿部は目を細める。こんな三橋を以前、見たことがある。ゴールデンウィークの最後の日だった。
『阿部君がいなかったらオレはダメピーで』
『オレが受けりゃあ、お前、いい投手になんのか』 
『う、――うん』
 嬉しく思ったのを覚えている。それまで卑屈で、決して自分を認めていなかった三橋が、初めて自信を持ったのだ。他人のことなのに、それがとても嬉しかった。自分が、三橋に自信を与えることができたのだということが嬉しかった。
 そして今も。
 少しずつ、本当に少しずつながら、三橋が心を解いてきている。強い方に、良い方にと変わってきている。なにも喋れなかった三橋が、自分の意見を口に出し、会話が成立して、笑えるようになっている。
 さっき伝えられた言葉が、友人としての枠を越えたものであっても、好意は好意だ。困惑はするけれど嬉しいことに変わりはない。
 だから阿部も真剣に答えた。
「嬉しいよ。ありがとな」
 それ以上のことは言えないけど。
 考えたことがないし、感じたこともないし。だから、今の正直な気持ちだけ。
 三橋はもともと大きな目を更に大きくさせてから、ふにゃっと顔を崩して笑った。
 撥ねつけないでくれて、ありがとう。
「風、強いから気をつけて」
「おー。じゃあな」
「バイバイ、阿部君」
 向かい風の中を自転車で進む。



 ――好きだ。
 どれだけ風が吹いても、三橋が言ったその一言は、阿部の耳からずっと離れなかった。
 深い意味を含んだ好意に気づいてしまったからにはそれについて考えてみるべきかと、色々考えた結果、阿部は意を決して直帰せずに最寄り駅の駐輪場で自転車を止めた。電車に乗り、十二個先の駅前にある大型書店まで足を伸ばす。そして同性同士の恋愛について書かれている雑誌を購入してみた。わざわざ遠いところまで行ったのは、そこなら確実に置いているだろうと思ったことと、なにより、それを買うところを知り合いに見られたら、ちょっとアレだからである。
 内心、口から心臓が出そうなほど緊張しながら「勉強のため勉強のため」と自分に言い聞かせて精算を済ます。もちろん、野球雑誌を買うことも忘れない。普段から買っているものなのに、こういう時には姑息なごまかし購入に思えてくるのはなぜだろう。
 そんなことを考えながら足早に店も駅も後にして自宅に戻った。
 最初から最後まで目を通して――過激なビデオの紹介カラーページはさすがにきついものがあったが――思ったのは、結構、みんな、真摯であるということだ。そりゃあそうだろう。普通に考えればわかる。人が人を求める感情に男も女もない。まして、壁が多い恋愛だとわかっていても同性を好きになったり、同性しかダメだったりするのだ。生半可な気持ちからじゃできないかもしれない。少なくとも、阿部はそう思った。そして、生半可、を超えてしまったらしい三橋の顔を頭に浮かべて苦笑する。
 ――や、実はなんにも考えてねーのかもしれねェけどさ。
 並大抵の天然じゃない相手だから、素直に自分の感情に従っただけかもしれない。
 好き以上のことってしたいのかな。つまり、この雑誌に載ってるような、男女でもやるような、あーゆーことやそーゆーことやこんなことを、三橋はオレと。
 そんなことを考えているうちに、眠ってしまったらしい。そして見た夢がアレで、結果がコレというわけだ。
「つうか」
 阿部はひとりで赤くなる。
 なんでオレが下なんだよ。
 なんでアレで興奮するんだよ。
 なんでオレはナチュラルに三橋を受け入れる方向で考えてんだよ。
 拒絶反応のまったくない自分に改めて驚いた。あんな夢を見た後でも。



 朝練の最中、思わず視線を外してしまう。正面から三橋を見れない。だって、見ると、今朝の夢が浮かんでくるのだ。三橋の鎖骨。三橋の上腕。三橋の胸に、腹、三橋の――。
 感触ごと思い返した男の象徴に、阿部は身震いする。
 イヤイヤイヤ。そんなもん思い出さなくてもいーから。
 だけどそうやって自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど鮮明に思い出す。
 熱いほどの体温だとか、うるさい心音だとか、頭の中が真っ白になるくらいの、くらいの……、ナニ?
 阿部が疑問をみつけた時、三橋と視線がかち合った。いつの間にか凝視してしまっていたらしい。すると三橋の口が動いた。あべくん。とても真剣な顔だった。ドキリとする。
 ――あ。
 今、オレ、三橋をかっこいいとかそのカオ好きとか思わなかったか。
 突然、世界が歪んだ。くらりとする。格好良い三橋の顔が近づいてくる。間近に迫って腰を抱かれた。
 正確には、腰を支えられた、だ。
「阿部君!」
 熱があると聞こえたのは、気のせいだっただろうか。意識が、遠くなる。
 


 目を開けると見知らぬ天井があった。なんだこれ。
 阿部は一瞬混乱したが、傍にある気配にすぐ覚醒する。
「三橋……」
 そばには、目の縁も目も赤くさせ、唇を噛み締める三橋がいたのだ。
「練習……」
「お、終わった、よ。今、昼休み……っ」
「……昼? マジ?」
「う、うん。阿部君、ずっと起きなくて、目、覚まさなくて、オレ、オレ……!」
「あー……」
 泣きべそを掻く相手に素直に謝る。心配させて悪かった。だってこんな様子じゃ、多分、毎時間ごとに阿部を見に来ていたに違いない。
「ただの寝不足。ぐっすり寝れて、気持ち良かったくらい」
 阿部が軽く笑ってみせると、三橋は更に俯いた。小さな声を出す。
「ごめん、ネ」
「は? なんで、三橋が謝んの?」
「だ」
「だ?」
 聞き返すと、三橋は小さくさせた体をもっと縮こまらせた。体がブルブルと震える。こういう気弱なところは変わらない。そして、これをやられると、やっぱり阿部は苛ついてしまう。決して口には出さないし、だいぶ我慢できるようにはなっているけども。
 できるだけ落ち着いた声を出して先を促した。
「なんだよ」
「う……」
 少しの沈黙のあと、三橋が喋り出す。
「寝れ、なかった、のって、オレのせい……でしょう? オレが、変なコト言った、から、それ、で。だから、ゴメンナサイ……」
「はあ?」
 思わず大きな声が出る。それに反応した三橋は両手で頭を抱え込んだ。そして、それほどまでに怯えているくせに、妙なことを叫んだのだ。
「み、みないようにする……! できるだけ、見ないようにする、し、ヘンなことももう言わない! だから、こないだの、わ、忘れて!」
「なに、」
「だから、きら、きら、きらい、嫌いに、ならないで……っ」
 阿部は、三橋が何を意味して何を言っているのか、さっぱり掴めなかった。ただ呆気に取られ、思考が停止する。
 停止した脳が再び動き出した時、どうしようもないほどの怒りと苛立ちが込み上がってきた。
 あんなに悩んだのに。
 あれほど悩まされたのに。
 なんで変な方向に空回って先回りして自分一人で答えを出して終わりにしようとしてるんだ、こいつは。
「っざけんな!」
「っ」
 阿部の大声に三橋の体が飛び上がる。だけど顔は上げられなかった。ベッドの上に突っ伏しながら震えている。
 うっかりまたもや出してしまった大きな声に反省しつつ、阿部はできるだけ静かに話し掛けた。
「嫌ってねェし、嫌う予定もねェよ。寝れなかったのは、まあ、確かにソレが原因だけど。オレが今、怒鳴ったのは、そんな簡単でいーのかよってこと。忘れてって言われても忘れられるもんでもねえし、それでお終いにされたら、なんであんま寝れねェほど悩んだのか、全然わかんねーだろ」
 言っているうちに鼻の奥の方がツンとした。やばい。自分の言葉で泣きそうだ。
「お前にとってオレが好きってのは、その程度のことだったのかよ」
「ちがう!」
 大きな声だった。
 聞いたことのないほど激しい、三橋の、大きな否定の声だった。
 思わず黙ってしまった阿部は、うつ伏せたままの三橋をみつめる。布団をきつくきつく握りしめたまま、三橋はうわ言のように呟く。
「ちがう。オレ、本気、だけど、阿部君を困らせたい、ワケじゃないから、そう、なるなら、忘れてもらった方がいいと、思って。だ、って、阿部君が忘れても、オレが阿部君スキなのは、変わんない、し、オレは、阿部君をスキになれたコト、が、スゴク嬉しいから、それ、言えただけで、もう……っ」
 そこで言葉は途切れた。それ以上は、涙が邪魔して言えないみたいだった。
 ああ、もう。
 いつのまにか、阿部の目の淵にも涙が溜まっていた。それがまばたきしたことで零れる。頬を伝う。
 ウソ、ゆーなよ。泣いてんじゃん、お前。告げて、それで満足で、忘れていいなんてウソ、もう絶対つくな。
 阿部は小さく声を出す。
「悪かった。ひでェこと言って」
「……」
「カオ上げろ」
「……」
「上げろって。でないと泣くぞ」
「っ」
 格好悪い脅しの言葉だったにも関わらず、『大好きな阿部が困るところなんて見たくない』という言葉の通りに、三橋は阿部の言葉に従った。そして、既に泣いてしまっている阿部を見て困惑する。固まってしまう。
「あ、阿部君……?」
 阿部は三橋の額に自分の同じ物をぶつけ、目を閉じた。閉じたことで、目の中に残っていた涙が、また流れていく。
「その程度じゃないなんてお前が言うからだよ」
 泣くほど嬉しかった。
 そして、忘れろという言葉が、泣きそうなほど辛かったとも言ってやる。
 そもそも、嫌いなら告白されても論外だ。友人関係を続けたくて困ったというのともちょっと違う。好きで、なんとかしていきたいと思ったから悩んだのだ。わざわざ、どうすればいいかなんていうステップを調査してまで。
 いつから、こんなに囚われていたのだろう。三橋のいない生活なんて、想像できない。
 不器用な手が伸びてきて、不器用に、だけどとてもやさしく、阿部の頬の涙を拭った。
 キスしてもいいですかと聞かれ、なんで敬語だよと笑いながら阿部は目を閉じる。本当は自分から仕掛けたかったのだが、先に告白してくれたことだし、
 今回は三橋に譲ることにする。
 影と気配と息遣いが、三橋が近づいたことを阿部に知らせる。頬を手のひらが包んだ。緊張して引き締めた阿部の唇がやわらかいもので覆われる。重ねられたそれはびっくりするほどやわらかくて、びっくりするほど甘く、しあわせな気分にさせてくれた。
「阿部君」
 スキです。
 そう言って三橋は阿部の手を取った。
 繋いだ指から三橋の想いが流れてくる。胸が、ほこほこする。
 自分のそれも同じくらい伝われと願いながら、阿部も力強く三橋の手を握り返した。

 


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