【言葉の魔術】<2004.6.1>



 トロいとかウザイとかイラつくとかムカつくとか。
 そんな言葉ならたくさん聞いてきたけれど。
 『スキ』なんて言葉に免疫はなくて。
 まして、その二文字が、こんなにほかほかするだなんてことを、今まで知らなかった。



「あ、べく、ん……っ」
 マウンドを丁寧に整備している阿部に駆け寄った三橋は、阿部が持った用具に手をかけた。
「オレ、が……っ」
 言い掛けて、足元を見た三橋は肩を落とした。もうやることなんてないほどに整っていたのだ。いつもと同じくらいに。三橋がこの学校でマウンドに上がってからずっと同じ綺麗さで。
 練習が終わってからすぐトイレに走ったせいで、また、マウンドの整備に当たれなかったのだ。
 ――どうして我慢できないんだろう。阿部君が作業早いの、知ってるのに。
 そう思ったら、緩い涙腺からじわーっと熱いものが目の縁を目指してやってくる。
 隣に立つ阿部が、ぎょっとして体を動かすのがわかった。
 ――ああ、ダメだ。こんなとこばっかり見せちゃ。
 感情が抑えきれない自分が嫌で仕方がない。それでも必死に、じんわり浮かんだものを手の甲で拭って阿部を見た。
「ごめん、ね。今日も、手伝え、なかった」
「いいよ。ココを整備したいのはオレだし」
 阿部は整備を終えたばかりの土山を優しい目で眺める。
 それが本当にやさしい雰囲気で、三橋は少しの間、本気でその横顔に見惚れた。
 そうして気付く。
 綺麗な鼻すじ。顎のライン。意志の強さをはっきり表す眉毛に、自分を真っ直ぐ見てくれる瞳の深さに。
 その強さと面倒見の良さで、三橋が中学時代ずっと自己嫌悪していた性格を初対面で『投手としての長所』だと言ってくれた。
 人知れずしている努力に気付いてくれて、しかも「投手としてじゃなくてもスキ」だと言ってくれた。
 ――嬉し、かっ、たぁ……っ。
 その時を思い出したら、さっきとは違う『じんわり』が胸にざざーっと広がる。
 阿部君がスキ。
 誰かに言いたかった言葉をいとも簡単に言わせてくれて、受け止めてくれた阿部こそ、捕手としてもニンゲンとしても凄いと思った。尊敬した。
 阿部君が、スキ。
 辺りが一面、明るくなった。
 月と存在を交代する太陽が、沈む前に一際眩しい光を投げたのだ。グラウンドは見事なほどにオレンジで、そのオレンジを浴びた阿部が逆光で良く見えなくなった。見えるのは影と輪郭。
 嬉しい言葉を与えてくれる薄い唇の。やわらかそうな。
 ――くちびる? やわらかそぉ……?
 心を過ぎった単語を疑問符をつけて反芻する。
 ど く ん 。
 腹の奥内部がどくどく言い、心臓もばくばくしてきた。
 ――なに、これ……ッ。
「三橋」
 正視していたら、その箇所が三橋の名前を象って音まで聞こえたので、突然のことに髪の毛が逆立つ。
「は、はははは、はい……っ!」
「何もしてないし、言ってないだろ」
「あ、あ、う、」
「……いきなり声掛けて悪かったよ。あっちも終わったみたいだし、着替えて帰ろうぜ」
 コクコクと首を上下に振ることで、阿部の言葉に賛同の意を表す。
 ベンチに戻ると監督の犬がベンチの大部分を占めて眠っていて、仰向けの見事な睡眠っぷりに、自然に目が合って笑った。
「あいつら……」
「え」
「整備した後に遊んだら意味ないよな」
「あ」
 外野の方で田島と泉と沖がキャッチボールをして遊び始めている。眺めてうずうずしているから、そのうち栄口も加わっていくだろう。
「阿部君、は、」
「オレは帰る。お前は?」
 交ざらないのかと訊こうとしたら、何を訊かれたのかわかった阿部が三橋の言葉を途中で遮って質問を返す。
「あ、オレも、かえ……る……」
「そ」
 阿部はもう着替え終わって、脱いだそれを丁寧に畳んで仕舞っている。
 三橋は急いで制服を羽織ると乱暴に練習用ユニフォームをリュックに突っ込んだ。
 早く。
 早くしないと。
「じゃ、お先」
 阿部が三橋を振り返って言った。
「あ、あの、あの……」
 三橋が呟く小さな声は阿部に届かない。
 遠くなってしまう背中に、三橋は、ありったけの勇気と根性を振り絞った。
「あべくん……!」
 それは自分でもびっくりするような大きな声だった。
 自分でさえ驚いたのだ。声を掛けられた方はもっと驚いた顔をして立ち止まっている。
 もう、引っ込みはつかない。
「いいいい、一緒に帰っても、い、い……?」
 ぎゅうと握り締めた掌に爪が食い込むほどに緊張しながら訊ねた。
 瞬間呆けた阿部は、次に、「いいよ」と言った。普通に。
「じゃあ早く帰ろう」
 だから。
 シャツのボタンを留めて、荷物を持って、ここまで早く走ってこい。
「……うん……!」
 力いっぱい頷いて、不器用に言われたことをやりながら三橋は走った。
 綺麗な夕焼けは、甘夏みたいな色だった。



 スキだなと思う人が居て、相手も同じことを言ってくれる。
 そして次のステップに行ける喜びを噛み締めながら、両側に自然がいっぱいの道を分かれ道までまっすぐ歩いた。
 おはよう。
 ありがとう。
 おつかれ。
 また明日。
 ちゃんと言えるようになろうと三橋は思った。
 寂しくない。こわくない。
 だって、ちゃんと受け止めてくれる人がいる。
 胸がほこほこして、嬉しくて、楽しくて、こんな気持ちは初めてだった。
 その奥のじんわりは、阿部と話すたび、一歩踏み出すたびにチリチリしていたけれど、その正体に三橋が気付くのは、もう少し後のお話。



<次>