【この胸の嵐】




 左足に鈍い痛みが走って、水野は眉の間に皺を寄せた。
 やばい。捻った。しかも結構激しく。
 だけど、練習が終わるまで――つまり紅白試合終了時間まで、だ――あと2分。水野は傷んだ足を必死に上げて土を蹴った。ボールを追った。
 練習後の監督やコーチ、主将からの注意事項も聞き終わり、三年から順にロッカールームへと消えていく。水野はそれとは反対の木陰へと歩いた。大きな木の根本に腰をかける。鈍いんだか鋭いんだかもはや痛すぎて判断がつかない左足首はソックスの上から見てもわかるほどに腫れていた。
 くそ、ついてねえ。
 そう舌打ちをした時、爪足に影が被る。
「うわ、すげー。派手にやったじゃん、お坊ちゃま」
「三上……」
「三上?」
「……サン」
「はい、よろしい。上下関係は大事にしねーとな。いくら監督の愛息でも」
「……そんなことは関係ないでしょう」
 つーかなんで部室に行かないんですか邪魔ですよ、の意も込めて睨んでみるが、三上は気付かない振りで水野の位置から60cmほど離れた場所に座り、幹にもたれる。
 最初の数分こそ何しに来たのかわからない三上に気を取られていた水野だったが、そのうち気にならなくなる。基。それどころじゃなくなる。
 足首はどんどん膨れ、痛さを強くしていく。じんじんじくじくズキズキズキ。
 痛みを少しでも和らげようとマッサージを試みるが、指を当てるだけで心臓を直接握られているような痛みが走り、触れることさえできなくなった。
 イタイ イタイ イタイ イタイイタイイタイ。
 小さいながらも荒い呼吸を繰り返していると風が頬に当たり始める。
 なまぬるい。
 なにか焦燥感を煽るような、不吉な風。
 木の葉を揺らして、ざわざわざわ。
 木の枝を揺らしてざわざわざわざわ。
「雨が来るな」
 三上がぽつりとそう言った。
 そして三上の言葉通り、灰色の空のそれより濃い灰色の雲から雨粒が落ちてくる。
 こんなところに居てもどうしようもないのに、だけど動けない。足首が痛い。
 歩けるどころか立ち上がれる気にさえならない足首を、水野は必死に擦った。
 半時、いや、もっとだろうか。
 痛みからくる脂汗が少し引いた頃、足元に出来始めた水溜りの波を見た。なにかおかしい。上を見ると頭上では木の枝がその両手を伸ばし、ぐるんぐるんと振っている。枝についた葉もそれに合わせて揺られる振られる踊り続ける。そうだ、風が強いんだ。なのに雨粒があまり当たらない?
 ばっと隣に振り返る。60cmあったはずの三上と水野の距離は30cmほどまで狭められていた。
 そうして風上に位置する三上の右半身が濡れているのが見える。
「なっ」
 水野は三上の左肩を掴んで自分の方に向かせた。
 捻らせた三上の体の半分は、雨を浴びたせいで、服の色の濃さがまるで違う。
「なにやってんだ、あんた!」
 胸倉を掴まれて、三上は冷静に水野の手を払う。
「雨、見てんだよ。わかんねぇ?」
「わかんねえよ! だったら部室でも部屋でも室内で見ればいいじゃないか!」
「バッカだな。こーゆー日に外で見るから情緒が増すんじゃねえか」
「……っ」
 情緒なんか追求するタマか、あんたが。
 そんなに右手を冷たくしてまで。
 手を払われたときに触れた三上の手は、今の季節からすればありえないほどに体温が下がっていた。
 ――馬鹿みてぇ。
 その言葉は口からは出さず、代わりに「帰ります」とだけ言った。
 後ろの幹に手のひらを当てる。怪我をしていない方の足で強く地面を蹴り、勢いで立ち上がる。足の裏を地面に下ろす。
「っ」
 少しの振動でさえ足首に響く。
 これで、この痛みで、体重をかけて寮まで帰るのか。
 さっき引いた脂汗がまたこめかみに滲む。
 荒くなる息をできるだけ整え、唇を噛んで一歩前に踏み出そうとした瞬間、座ったままの三上から言葉が発せられた。
「言える言葉があるんじゃねえの」
「!」
「せっかくの人手だぜ?」
 三上に視線を向ける。いつものニヤニヤと笑う口元の上、の、真剣な瞳。
 水野は静かに左足に体重を掛ける。痛い。前を見る。校舎と寮、どちらに行くにしても結構な距離だ。
 少し躊躇して、やがて水野は三上に言った。
「……肩、貸してください」
「オーケイ」
 ニヤリと笑って三上は立ち上がった。
 水野の左側に回ってその体を支える。
 びくりと震えた水野に「悪ィ」と声が掛かる。
「冷てぇよな、こっち側」
 密着したせいで三上の濡れた体が水野の腕や足に触れたのだ。
「大丈夫です」
 元は、俺のせいだし。
 そう言うと「そうそう、後輩は素直じゃねーと」と笑われた。
 二人三脚競技のように2人で歩く。歩幅を合わせ、足を交互に出し、歩くタイミングを合わせる。
「面倒くせーし足に負担も掛かるんじゃねえの、これ。てっとり早くお姫様抱っこしてやろうか、水野クン?」
「力一杯お断りします」
 即答した水野はやっぱり笑われる。
「安心しろよ。俺も嫌だね、そんな歩き方」
 三上は水野の腰を支える腕に力を入れた。三上の腕と肩と体に支えられ、雨が降る中、なんとか寮まで帰り着く。
 部屋の前まで水野を送った三上が言う。
「ちゃんと体拭けよ。風邪引かれちゃ困るし」
「……それはあんたでしょう。来週、試合じゃないですか。スタメンで」
「お前ベンチだっけ?」
「入ってません、今回は」
「今回は?」
 入学して2ヶ月の今は様子見の状態で、まだ試合に出しては貰えない。水野も藤代も。だけど。
「次は出るって言いたげだな」
「当たり前です。そのために、ここにいるんですから」
「その鼻っぱしらの強えとこ、嫌いじゃないぜ。好きでもねーけど」
「そっくりそのままお返ししますよ」
「うわ、生意気」
 ゲラゲラ笑った三上は、くるりと踵を返す。ぎゅ、と両手を握った水野はその後ろ姿に小さく叫んだ。
「っりがとうございました……っ」
 三上は肩を少し竦めたことでその言葉が届いたことを水野に教えた。
 水野は自室のドアを開け、静かに閉めて、濡れた服を着替える。同室者は食堂か友人の部屋に行ったのかいなかった。いなかったことに安心する。だって、ひとりでいたい。整理したい。このパニックになった頭を。
 乾いた服を身につけた水野は自分のベッドの中に潜り込んだ。
 蒲団を頭から被る。
 なんだよ、あいつ。なにがしたいんだよ。なんであんなことしたんだ。
 密着した体を思い出す。びしょぬれの、服。冷えた体。支えられた強い右手。
 ぶっきらぼうな口調の下の、やさしい言葉。
 窓がガタガタと揺れた。
 外は本格的な嵐になりそうだ。
 さっきよりも風が強い。窓を叩く雨の音も激しくなっている。
 木の葉を揺らして、ざわざわざわ。
 木の枝を揺らしてざわざわざわざわ。
 水野はざわつく色々に対して呟いた。
「わけ、わかんねぇ……っ」

 この胸にも嵐。




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