<<あなたの名前〜和葉編〜>>
この世で一番嫌いな言葉。
――ク・ド・ウ
「また東京に行くん?」
いそいそと着替えやらなにやらをバッグに詰め込む幼なじみの姿を見ながら、決まりきったこととは思いつつも一応、和葉は問い掛ける。
そして予想通りの答えが平次から返ってきた。
「ああ。明後日には帰ってくるけどな。じゃ和葉、おかんをよろしくな」
「……折角今日、おばちゃんと美味しいケーキ焼くのに、食べれなくてカワイソウやなぁ、平次」
「そら丁度良かった。うち今、胃薬切らしてん。死なずに済んだわ」
「なんやって!?」
「嘘や、うそ。冗談やって」
和葉が反射的に繰り出した拳をなんなくかわしながら、平次はすれ違い間際に、和葉の肩を軽く叩く。
「一切れくらい残しといてや」
「ちょーしのいいこと言わんといて」
「あ、やっぱり?」
カラカラと軽く笑いながら階段を降りる平次に、和葉は声を掛ける。
「あ、平次……」
「ん?」
お守り、と言いかけて止める。どうせ、持っていても持っていなくても『持っている』と答えるに違いないのだ。
「蘭ちゃんと、……くどー、くんに、よろしくな」
おう、と片手を上げて平次は台所に居る母親に向かって「行ってくる」と怒鳴り、玄関の外側へと消えていく。
残された和葉は。
さっき、平次が触れた肩が異様に熱くなり、それに伴って暴れる心臓と戦っていた。
「気安く触んな、アホ……」
『工藤くん』を見た。
思っていたより、ずっとずっとイイ男で。
平次に少し、似てた。
「似とるかぁ?」
「似てるだろ。だから気が合うんだ」
その言葉にムッときて、悔しくて。
「なんや。そんなん二人ともナルシスやんか」
と、棘を含めつつ言ったら、
「そっだな」
と軽く流されて、余計、くやしかった。
「けど、一番嫌なんはアタシやなぁ」
素直になれないくせして、ヤキモチだけは一人前。
この耳障りな心音が、どくどく言いながら大きくなっていって頭に響きだすと、理性が壊れる。
厭味っぽくて、喧嘩腰にもなって、ちっとも可愛くなんかない。
「……たすけて……」
動けない。
囚われて、どこにも、いけない。
「和葉ちゃんさぁ」
「何?」
唐突に新一が切り出した。
「絶対、気付いてると思うんだけど」
肝心な箇所が抜けているせいで、平次には新一が何を言いたいのか、よくわからない。
「何に?」
こんの鈍感、と新一は胸の中で毒づきながらも説明にかかる。
「だから、この状況だよ!」
「この、って……」
今の新一と平次は。
新一の家で。新一の部屋で。新一のベッドの上で、なぜか裸で寝転がっている。
それはつまり、裸で寝転がる必要があったということで、新一と平次の現在の関係の深さを物語る。
「――ってこと?」
「……だよ」
「まっさかー!」
平次は新一の言葉をおもいきり笑い飛ばした。
「あの鈍い和葉がそないな考えに及ぶはずないって!」
世界中の誰に言われてもお前に鈍いなんて言わたくないだろうよ、と喉まで出かかるが、新一は寸でのところで押し留める。そして、だってさぁと続けた。
「だって、すげー顔でオレのこと睨むんだぜ?」
「和葉の凄い顔は生まれつきや」
「ひっでーな。可愛い顔してるじゃんか」
新一の口からさりげなく出た言葉に、平次がぴくりとこめかみに血管を浮かせた。
「ほー。工藤はあーゆーんが好みか」
「は? つーか、そりゃお前だろ!?」
「なんでオレが好みのタイプをお前に決め付けて貰わなあかんねん! ああ、そうや、工藤の好みは和葉よりは蘭ちゃんやもんな。それは失礼しましたね!」
「ばっ……、なんでそこで蘭が出てくるんだよ!?」
「知るか! なりゆきじゃ!!」
甘いはずだった情事後のムードは消し飛び、ふたりして上半身を起こして睨みあう。
荒く息を吐きながら、新一が言った。
「なんでオレたち、喧嘩してんだよ?」
「お前が、変なこと言うから……」
更に続けようとした平次の唇を、新一は自分のそれで、静かに塞ぐ。
言葉を飲み込む、飲み込ませる、優しいキス。
そのやわらかさに、平次も力を抜いて瞼を閉じ、触れる唇からのぬくもりをゆっくり味わう。
重ねるだけのキスからゆっくり離れた新一は、拗ねたように呟いて、そのまま平次の肩口に顔を埋めた。
「しょーがねーじゃん。推理なら自信はあるけどさ、恋愛に関しちゃ、そんなもん、これっぽっちもねーもん」
ぼそぼそと小さい声でそんなことを言う新一の頭を、あやすようにポンポンと叩いて、平次は笑う。
「ヤキモチ妬かれるんも、嬉しいけどな」
新一の手は、背中を降りて腰にまわり、その体をしっかりと抱き締める。
そして、ごくごく真剣に告げてみた。
「好きだよ、服部」
言葉はなかったが、同じくらいの強さで新一に縋る平次の腕が、答えを雄弁に語ってくれた。
日曜の夕方。
ただいま、と叫びながら帰宅した平次だったが、家の中のどこからもそれに対する言葉はなくて。
「なんや、誰も居らんのかい」
土産の箱を台所に置こうとしてなにげに居間を覗いたとき、見慣れたポニーテールが机に突っ伏しているのが見えた。
「なんや。来とったんかい、和葉」
「……あ、おかえり、平次……」
昼寝でもしていたのだろうか。焦点の合わない目で、和葉が平次を見る。
テーブルから顔を上げるだけなのに、その動作はえらく緩慢で。
「フラフラしとんで?」
平次は襖を大きく開けて、和葉の傍へと歩み寄った。
呆けたままで、あんまり寝れへんかったせいや、と言いかけて、和葉は何も言えなくなる。
気付いたら、平次の顔がアップで間近に有ったのだ。
「な、ななな、なに……っ!?」
動揺する和葉に構わずに、平次は和葉の前髪をかきあげ、現れた額に、自分の額を押し当てた。
そして次の瞬間、和葉を抱き上げる。
「ちょ、ちょお、平次!?」
「熱あるやんか。自分の体のことやろ、気付けや、アホ」
「……ごめん」
平次は和葉を抱えたまま階段を上り、行儀悪く足で自分の部屋の扉を開けると、奥のベッドの上に、そっと和葉を下ろす。
「氷持ってくるから、ちょお待ってろ」
踵を返そうとした平次を、和葉は慌てて止めた。
「待って、平次! 昨日、あんまり寝られへんかっただけや。風邪やないと思う。寝れば復活するから平気」
「ほんまか?」
じっと目を覗き込まれて心臓が跳ねる。
ああ、この目。この顔。生まれた時から見ているのに。
なのに、こんなに心臓が騒ぐなんて。
「せやったら、寝とけや。下に居るから、なんかあったら呼べよ」
「……うん……」
和葉の頷きに頷き返した平次の足音が遠ざかる。
部屋を出て、階段を降り、廊下を歩いて。
だけど、和葉には。
トク トク トク トク、トク、トクトク……
自分の鼓動しか耳に入らない。
――アタシの気分、いちいち平次に振り回されて、みっともない。
だけど、そんなみっともない自分も、もしかしたら、すっごく、かわいい、かもしれない。
顔を赤くして、平次の匂いのする枕を抱えながら、和葉は笑顔で呟いた。
「やっぱアタシ、大好きやわ、あの男」
結局和葉は、平次の部屋を占領して、朝までたっぷり眠りこけてしまったらしい。
目覚ましが示す時刻に驚き、急いで階下に降りると、本を読みながら徹夜していたらしい平次が、振り返りもしないまま言った。
「美味かったで、ケーキ」
もちろん、ちゃんと平次用に残しておいたのだ。
「あ、当たり前や。誰が作ったと思てんの」
相変わらず素直じゃない返事に自分でがっかりしたり。
うわー和葉らしい、と笑う平次に朝からときめいてみたり。
自分の心は結構、忙しい。
送ってくれるという平次を丁重にお断りして、和葉は朝焼けの中、自分の家に向かって歩く。
一晩中、平次の香りに包まれ、安心して寝れた。
『工藤くん』と平次を思って眠れなかった一昨日が嘘のようだった。
失いたくない、自分にとって大事な人だと、再認識してしまった。
もう、迷わない。
心音を心地良くする。
だって簡単なことに気付いたのだ。
『クドウ』を『カズハ』に変えればいいだけのことなのだ。
「目指すは工藤新一!」
朝の清浄な空気を思い切り吸い込んで心に誓う。
「絶対、負けへんからな」
例え現時点で、向こうがリード、していても。