最後の用具を倉庫に片付けた栄口がふいに小さく笑った。
「なんだよ」
 トンボを奥に仕舞い込むために栄口の前に倉庫に入っていた阿部がその声で振り返
る。
 栄口は笑顔のまま、たいしたことじゃないんだけど、と続ける。
「オレたち、結構注目集めてるみたいなんだよね」
「は?」


 野球部と同じグラウンドを使う部活に所属の同クラスの人間が、興味深げに栄口と
巣山に訊ねたのだ。
「あのさ、お前ら毎回ナニやってんの、アレ?」
 言われた瞬間、ピンと来る。
 というか、こんな風に言われるほどにおかしな練習メニューなんて、どう考えたっ
てアレしかない。
 ただ「イメトレ」とだけ答えてもいいが、それじゃあ手まで繋いでいる理由の答え
にはならないだろう。
 他の部の人間も更に寄ってきたので、栄口は巣山と視線を合わせて苦笑する。
 ――そうだよなァ。普通、やんないもんな。
 栄口は自分の手のひらを見せて、志賀に説明されたことを繰り返した。


「みんな半信半疑っぽかったんだけどさ」
「まぁなァ」
「UFO呼び説が一番人気みたいだったよ」
「はあ?」
「だから、オレたちの手繋ぎ円陣」
 輪になって、手を繋いで、目を閉じて五分。
 その間、いくら本人たちはリラックスしているとはいえ、誰も動かずにじっとして
いる姿というものは周りから見ればとても不思議――というか、不気味、なのかもし
れない――に見えるものらしい。
 目撃者の中で疑問が高まり、その挙句に、UFOを呼んでいるんだとか、新しい新
興宗教に違いないとか、きっと全員の体が浮くまでやるんだぜ、とか、とにかく怪し
い事が起きるのだという妙な期待が高まってしまっているそうなのだ。
「いや、常識で考えろよ」
「面白く考えたいもんなんだよ。確かに変だもん」
「副将が自分らの練習を変って言っちまうのかよ」
 ニヤリと人の悪そうな笑顔を浮かべた阿部に、栄口も笑う。
「言うよ。だって良い意味でもオモシロイじゃん。練習も監督も顧問も部員もみんな
! よくこんだけ個性強いのが集まったなーってホント感動してる」
 そうして後ろを振り返る。
 そこには整備し終わった後の、きれいで静かなグラウンドが広がっていた。
「どうなることかと思ったんだけどね」
「……春休み?」
「うん。どーにかなるもんなんだな」
「栄口のおかげだよ」
 さりげなく、だけど真剣な阿部の言葉に、栄口も同等の真剣さで「それはこっちの
セリフ」と返す。

 今年からできるという野球部は、当然、部員もいなければ練習ができるグラウンド
だってまったくない状態だった。
 合格発表の日、阿部は自分の番号を確認すると、踵を返して職員室へ向かう。慌て
て後を追って職員室を覗いた栄口の目に映ったのは、ガタイが良くて柔和そうな顔つ
きの男性教諭の姿だった。
 その人に向かって阿部がなにやら話し掛けている。その顔つきに見覚えがあった。
 ――すげえ真剣に見てんね、学校案内。
 ――いいトコで野球してェからな。
 ――……野球で、高校選ぶの?
 栄口の問いかけに「当然」と、こともなげに言い切った時と、同じ顔。
 阿部は本気だ。
 本気で、何かしようとしている。
 胸の奥が熱くなってくるのを感じた。
 なにを話しているのかよく聞こえなかったが、明日から来てもいいですかという阿
部の声だけははっきりと聞き取れた。その瞬間、思わず声を出していた。
 ――ボクも、来てもいいですか。
 じゃあ四人で頑張ろうと嬉しそうに笑った志賀の後ろに、整った顔立ちと思わず注
目してしまうプロポーションを持った女性がいることに、栄口はその時初めて気がつ
いた。
 そして春休みは毎日、グラウンド整備に明け暮れる。
 石を取り、草を取り、土や砂を運んで慣らす。
 長い単純作業は体に負担がかかったが、そんなところから始めるのは経験がなかっ
たから楽しかったし、厭きが来ないようにと志賀と百枝――職員室にいた美人で、監
督だった――が興味深い話を次々にしてくれたしで、有意義な春休みを過ごせたと思
う。
 外野まで終わらせることができなかったのは悔しかったが、なかなか立派に出来上
がったグラウンドに、栄口は満足する。
 ――オレらの野球部だ。
 本当に第一号の部員なんだと、くすぐったいような誇らしいような、そんな気分で
いっぱいだった。

 栄口は、阿部の胸を軽くこぶしで叩く。
「阿部の無謀に引っ張られて、オレもじゅーぶん楽しい思いしてんだから!」
 すると表現が気に入らなかったらしく、阿部が眉を顰める。
「ンだよ、無謀って」
「ムボーじゃん。じゃなきゃチャレンジャー」
「……そっちのがいい響きかな」
「いい響きすぎ。却下します」
「ひでーな」
「阿部には敵わないけど」
「いつオレがひどくしたんだよ」
 自覚ないの、と叫びそうになった自分を頑張って抑える。
 ちゅーがくン時のアレもコレもソレもみんな、素でやってきたことなのかと少し力
が抜けた。いや、でも、素だからこそ酷いっていっぱいあるよな、なんてしみじみ
思っていたら、ユニフォームの後ろを引っ張られていた。襟口が首の付け根を締め
る。
「い……っ、つか、苦しい! 阿部、ちょっと!」
 じたばたする栄口に阿部が顔を寄せる。耳元でぺろりと舌を出す。
「ザマーミロ」  
「こっの……!」
 力任せに暴れて阿部の顔を振り仰いだ時、ふにゃりと、今まで感じたことのない感
触が唇にあった。
 ――え。
 目の前には影。
 さっきまで、阿部だったものの影。
 近すぎて見えなくなった黒い影の向こうで、開かれた茶色の瞳が揺れたのが見え
た。
 影と離れた瞬間、唇にあたたかい息が掛かる。多分、相手も、感じている。
 向かい合って呆けて、そして、栄口は右手で首の後ろを掻いた。
「あ、は、は、はは、ははは」
 うん。だって、事故だし、笑うしかないと思ったし。
 阿部もそう思ったらしく、唇の端を上げようとする。が、変な形に歪む。
 笑わない。笑えない。
 ヤバイと思った。
 突然のことに揺れた阿部の瞳が、栄口の心をぎゅっと掴む。掴まれたと同時に、栄
口は阿部の体を抱きしめていた。
 そのまま。
 じっとすること、いち、にぃ、さん、し、ご、ろく、なな、はち、きゅう、十秒。
「あのさァ」
 栄口は抱きしめられているままの阿部に囁く。
「……一線、越えちゃった気がしない?」
 いつものように手を握る。
 体温高めの阿部の手はいつもの倍あたたかったし、丸わかりな脈拍で、口から出た
「気のせいだ」なんて言葉を、体で否定してくれた。




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