【会いたくて】




 この数時間の間で何度ため息を吐いたかわからない。
 心にも頭にも重く掛かる空気はコナン・ドイルの書物の中で一、二を争うほどに好きな作品を読んでいても晴れることはなく、新一は吐いたばかりのため息を三十秒も経たないうちに、また繰り返した。
 近年稀に見る後味の悪い事件に遭遇した。



 どんな理由があろうと、人が人の命を奪うなんて権利があるわけがない。警察然り、探偵然り、だ。
 犯人を追い詰めて自殺させる探偵は人殺しと同じ。だから追い詰めない。死を決意しようとしたなら何をしてでも阻止する。救えなかったただ一人の人を思うたびに決意は固くなった。現にその事件以来、新一は自分が関わった事件で命を失わせた相手はいない。だが。


 両親を幼い頃に亡くし、結婚してすぐ、夫も交通事故で急逝してしまった幸薄い女性の唯一の心の拠り所が腹の中に宿った子供の存在だった。この子がいるから大丈夫。私は大丈夫。生きていける。楽しい時を、この子とふたりで。ところが運命はその女性をあざ笑うかのように回る。その子の五歳の誕生日だった。「フンパツしてゴーカなものを食べようか。何が食べたい?」「あのね、ボクね、おっきいハンバーグ!」「食べに行く? お母さんが作る?」「おかあさんのハンバーグ!」「よーし。頑張るからね。楽しみにしてて!」「うん!」オーブンの中で肉汁が溢れ、芳しい匂いを立てていた時だった。来客を告げるインターフォンの音。あら誰かしら。そういえば新聞の集金がまだだったわね。何の疑いもなくドアを開けた途端、彼女の目に飛び込んできたのは見知らぬ男と刃渡りの長いナイフ。悲鳴を上げる間もなく口を塞がれ、その場に押し倒された。もちろん用意周到なそいつは扉を閉じて鍵も掛ける。着ていたシャツは中の下着ごと切り裂かれ、前がはだけて、白く形の良いそれに男はいやらしげに唇を舌で舐めた。その時。玄関での大きな物音に驚いた子供が「おかあさん?」と顔を覗かせたのだ。「だめよこっちに来ないで来てはだめ子供に手を出さないでいやだやめてやめてくださいなんでもするから!」悲痛な叫びが聞き入れられることはなく、彼女の目の前で子供の柔らかい胸に深々とナイフが沈み込んだのが見えた。倒れた子供に駆け寄ることも許されず、それから一時間、男は彼女の体を弄んだ。ようやく男が自分の上から退いた時、彼女は初めて子供に触れることができた。心臓は止まっていた。まだやわらかい体を胸に抱いている間に男は家中をあさって現金を探し出して逃走する。彼女には男を追いかける事よりも息子を抱き締めることの方が大事だった。それから二十年の時が経つ。来る日も来る日も息子と男の顔を交互に思い出し、捜し求め、復讐を誓う彼女は神に感謝する。
 み つ け た 。
 バカンスなどとはしゃいでリゾートホテルに泊まった男の後をつけ、命を奪う計画を立てた。

 別な事件の関係で目暮警部に同行してそのホテルに泊まった新一は、彼女を見た時に嫌な予感がした。綺麗な顔をしたスレンダーな彼女の目の奥が、どこか狂気を帯びていたせいだ。一度気になるととことん気になるもので、それとなく新一は彼女を目で追ってみた。すると、チンピラ風の軽薄で派手なシャツを来た男の後をつけているらしいことがわかった。男は常に数人で歩いていた。周りの迷惑も顧みず、男たちはロビーで下品な態度で下品な会話を交わす。新一が眉を顰めた時、男が連れから離れた。どうやらトイレに立ったらしかった。近くのソファーに座っていた彼女も立ち上がって同じ方向へと歩く。右手は鞄の中に入れたままだった。胸のざわめきが大きくなる。新一の中で危険信号が点る。やばい。なにかがやばい。新一も彼女の後を追った。男子トイレの前でもつれている男女がいた。新一に見えたのは振り上げられたナイフ。それが、何度も何度も男に刺さる姿。男子トイレ隣の女子トイレから出てきた若イ女性三人が、その様子を見て悲鳴を上げた。遠目から見てもわかるくらい完璧に男は絶命していた。それでも彼女はナイフを振り下ろすのをやめない。新一が「やめろ」と叫ぶと、男に向けられていたナイフがその全身を宙に現した。彼女は綺麗に微笑む。その刃先が彼女の白い喉を目指しているとわかった新一は夢中で駆け寄り、彼女からナイフを取り上げる。新一の後ろの方で目暮警部や高木刑事たちが騒ぎに気付いた声がした。彼女の手がナイフを求めて新一の手に伸びる。呟く。返してそれを返してやっと死ねるのあの子の傍に行ける。ナイフを手にする代わりに、彼女の細い手首に手錠が掛かった。ぼんやりとそれを眺めた彼女は、やがて自分の命を絶てなかった事を知る。その瞬間。新一の目にも誰の目にも明らかに彼女の心が砕けたのがわかった。二十年、復讐を誓い生きてきた彼女が他に望むことは、この世から消えることだけだったのだ。その願いが断たれ、絶望し、彼女は心を手放した。何も写さない瞳からはひとすじの涙だけが零れた。彼女の心が聞こえた気がした。
 ――ドウシテ 死ナセテ クレナイノ。
 他にないのに。私には何も。償うことだって望まない。だって私は満足しているもの。あの子の痛みも未来も取り戻せはしないけど、少しでも自分の手で相手を傷つけることができて良かったわ。後悔なんてしていない、これっぽっちも――。



「くそ……っ」
 手にした本に集中できずに、新一は本を机の上に投げ出した。
 初めて聞いた言葉なわけではない。何度か聞いた。耳を塞ぎたくなるほど絞り込んだ絶叫だとか、時にはあからさまに恨みをぶつけられたこともある。だけど。
「何か言われた方が楽だな」
 ベッドに移動し、そのスプリングに身を任せながらひとりごちた。
 何も言わないまま、誰にも思いをぶつけないまま崩壊してしまった人間を見たのは初めてだった。あんなに胸が痛いと思わなかった。けれど、彼女の死を黙認することは百回生まれ変わったとしても自分にはできないだろう。
「死んで得られる幸せ、か……」
 自分が口にした『幸せ』という単語に即座に反応した脳が、ある人物の映像を映し出した。
 自分と造りの似ていると言われる彼の顔。
 会いたいと思う存在。
 嬉しい日も楽しい日も、なんでもない日も、今日みたいな憂鬱な日も。
 彼女が失ってしまったそれに心臓が痛む。ギリギリする。苦しい。こんな、言い知れない不安や寂しさを抱えて、この先ひとりで居るなんて確かに辛いことだ。
「何があっても昔は平気だったのにな」
 心にもたれる何かはあっても自分で解決してきた。心細くなったり誰かを頼って弱くなるなんてことはなかったのに。
「……黒羽」
 新一は胸を抑えて瞼を閉じた。鮮明に浮かぶ人物を思うと、乱れた息が少しずつ整ってくる。会える想像をすると自然に口元が綻ぶ。
 あいつの部屋の下に立って、小石を軽くぶつけて。何事かと注意深げにカーテンを開いた相手は表にいる自分に気付いて目を丸くする。急いで降りて来る。「なんでこんなとこにいるんだよ」「散歩中」「電車に乗ってか?」「変か?」 「変に決まってんじゃん……とにかく入れよコーヒーくらいならご馳走するぜ」「コーヒーよりお前がいいな」「な、なに馬鹿言ってんだか……!」
 そう、きっとそんな感じで。そうして相手に触れているうちにきっとモヤだって晴れる。でも勘が働く奴だからきっと完全に誤魔化されもしないしスルーもしてくれないだろう。真正面から何があったんだ、と聞かれて今日あったことを話すと、欲しかった言葉をくれるに違いない。一気に楽になるんだ、それで。
 ――会いたい。でも今は真夜中。無理だ。行けない。
 新一は整い始めた息を一度溜めてから、ゆっくりと外に出した。
 ――大丈夫、オレは冷静だ。
 机の上で光る蛍光塗料が塗られた時計が差す時間を見て判断を下せた自分を、そう評する。
 平静を失うことが何よりも怖い。何をするかわからないからだ。自分が気付かないうちに自傷行為に走ることもある。こんな、心がエアポケットに入り込んだような夜は。
 視界が暗闇に遮られた。月が雲に隠れたのだろうか。なにげなく窓を見て新一は驚愕する。窓には、ニンゲンのカタチがあった。



 あろうことかその人間は、驚く新一に構わず、バンバンとガラスを叩いた。
 明るい声もつけて。
「開けろよ、工藤。入れて」
 想像の続き? いや、自分がそいつの家に行く想像はしても、そいつが訪ねてきてくれるなんて都合の良すぎる妄想なんてしていないはずだ。じゃあ目の前のコレは一体どんな事態だ。
 上半身を起こして目を見開く新一とがっちり視線を合わせたそいつは、にっかり笑うと「早く」と急かした。
「いつまでもこんなとこに張り付いてたら、変質者みてーじゃん」
 深夜に窓から侵入しようなんて考える奴なんてむしろその言葉通りではないだろうかなんて思いながら新一は鍵を外し、窓を開けた。途端、胸を目掛けてダイビングしてきた男に、その勢いのまま床に押し倒されて熱い熱いキスをされた。
「ジュリエットったらなかなか開けてくんないんだもん。嫌われちまったのかと思ったよ」
「誰がジュリエットだよ」
「新ちゃーん。そんでオレがロミオ様。ど? ぴったりじゃねぇ?」
「逆だろ」
「無理無理。だって工藤にそんな甲斐性ねーもん。常識持ってる奴には出来ない所業だろ?」
 『真夜中に他人の家に押しかけてはいけません』
 『訪ねる時は玄関から』
 確かに、自分の中で常識だ。いや、大抵の人間はそうだろう。だけど、そんなことを気にせず実行に移してしまうから不覚にも心がトキメいてしまったり、かっこいーじゃん、とか思ってしまうわけで。だけど素直にそう言うのも悟られるのも嫌だから皮肉めいた事を言ってみる。
「つまり、黒羽は非常識だってことだよな?」
「ひっどーい。折角会いに来たのにー」
 軽くシナを作りながら快斗は、とても今更ながら、履いていたスニーカーを脱ぐ。その辺に転がしとけという新一の指示に従って机の脇に底を天井に向けて置く。
「なんかあったのか?」
 突然の来客に新一が訊ねる。
「まあ、ちょっとね。あと、何か、虫の知らせってゆーの? 工藤がオレに会いたいって思ってくれてるよーな気がしてさ」
 快斗の言葉に僅かに体を硬直させた新一を、快斗は見逃さなかった。
「当たり?」
 だけど、自尊心の高い新一を刺激しないように快斗はイタズラっぽく笑う。クイズに当たったかのような子供の無邪気さで。
 基本は人間の心を見透かす立場にいるせいで、先回りされたり透かされたりするのには慣れない。だけどそこをわかったうえで避けてくれる相手の気遣いに多少の悔しさはありつつも、単純にその心が嬉しいので、新一は肩を竦めた。
「黒羽の勘には敵わねぇな」
「マジシャンは相手の心を読むプロですから」
「探偵も似たようなもんだけどよ」
「あはは、まーね。で? 大丈夫なのか?」
 飛び込んで倒した新一の上から退いて、右手を差し出して立ち上がらせる。立ち上がった勢いで、今度は新一が快斗を抱き込んだ。
「ベッド行きたい」
「お、工藤大胆」
「そーじゃなくて」
 立ち話も変だろう。
「工藤がベッドに座ってオレが椅子に座るってのは?」
「却下。やだよ。なんで白々しい距離を今更作んなきゃいけねーんだ」
「やー、なんか案を工藤に却下されんのって妙な快感があってさ」
「どんな趣味だ……」
 交わされる早いテンポの他愛も無い会話が流れるたびに、心が軽くなる。
 希望通りベッドの上に移動して、改めて唇を重ねる。唾液が絡まるほどに深く激しい口づけを六分交わして、やっと双方共に満足した。
「キスしたーって感じだな!」
「……そんな明るく言うことか?」
 屈託の無い快斗に新一が照れていると、今日の事を報告しなさい、という課題が黒羽先生より出された。
 相手の服を脱がしながらぽつぽつと事の顛末を掻い摘んで話す。
 やりきれない結果に挫けている風の探偵を快斗はふわりと抱き締めた。
 先生の出した答えはこうだ。
「しょーがねーんじゃねえ?」
「しょうがない?」
「価値観は人それぞれで、全員が全員の望むように生きてくなんてできねーわけだし、そんでそれがぶつかちまったらしょーがねーじゃん。何が良くて何が悪いかなんて自分にしか判断できないもんだしさ」
 そりゃあそうだけど。頭では理解しているが、感情がやりきれないからこうしてブルーになっているのであって。
 何か言おうと口を開きかけた新一の唇を抑えて快斗は続ける。
「お前はお前の正義で動いたんだろ?」
 そこで人生を終わらせてしまえば確かに満足したのだろうし、後悔だってないだろう――なにせそれだけを生き甲斐にしてきた人だ――だが、良い方に転んだかもしれない可能性だって捨てきれないはずだ。
「考え込むタチのくどーくんに、楽観的な快斗君が具体的な発想をプレゼントしよーか。ありきたりな例えだけど、恋人ができるかもしんない。相手は刑事とか弁護士とか教官とか医者とか。ちょっと犯罪しちゃったことも知ってるんだから打ち明けなくっちゃって悩む必要は無いしな。ま、こんな私でいいのかしら、とか、そんな悩みは出てくるのかもしんないけど。恋人じゃなくても、おとーさん的な存在になったりとかも有り得るだろ? 可哀相に思って同情して庇護して、そんでまた自分の亡くした娘とかに似てたりしてさ、本当の子供のように可愛がってくれるようになったり、ほら、世の中、結構イイ人でいっぱいだぜ? 生きてれば絶対なんかにはなるって。それに――」
 一呼吸置いてから快斗は告げた。
「お前がそんなに考えてるじゃん。思ってんじゃん、その人のこと。関わることが怖くないなら手紙とか花とかしつこーく贈るのも有りじゃねぇ? もちろん正体なんか明かさなくてもいいし。誰かが自分のこと思ってくれてるって気付いた時ってすっげー感動だと思う。あったかくなるよ、心が。頑張る力にだってなる」
 祈ることもできるし、やれることもたくさんあるのだと快斗は言った。
 だって、生きているのだから。
「そう……だな」
 落ち込むくらいなら、例え余計なことでも動いた方がマシ、か。
 呟いた新一の頭が快斗によって撫でられた。
「そうそう、ポジティブに行こうぜ、新ちゃん」
「……なんかムカツク」
「なんでだよ!」
 いい提案したなって誉めてくれてもいいじゃん、と唇を尖らす快斗に苦笑して、新一は快斗をそっと抱き寄せた。相手の首筋に額を埋めて小さく囁く。サンキュー。
「お、素直」
「飾り様がねえよ、今日は」
「それはそーかも」
「正直、すげえ嬉しかったし。ちょっとへコんで、ぐるぐるしてて、甘えだけど、お前に会いたかった。話がしたかった。こうしていたかった。それも含みで、サンキューな」
「新ちゃん可愛いー」
「うっせえ」
 照れる余裕が出てきたら今度は新一の番だ。
「黒羽は? お前も、なんかあったんだろ?」
 そうじゃなくてこんな時間に訪ねては来ない。
「あのさ」
「うん?」
 互いの体温が移るくらいに密接しながら話をしようとした快斗だったが、あのさ、の後はなかなか続かなかった。
「?」
 不審に思った新一が快斗の肩口から顔を離して相手を見ると、快斗は新一を見て、困ったように口をパクパクさせる。
「黒羽?」
「どーしよ、新ちゃん」
「なんだよ」
「言いたいこと忘れちゃった」
「……」
「……」
 至近距離でお互いの顔を見て同時に噴出した。
「バーカ!」
「よくあることじゃんか!」
「ねえよ!」
「ある!」
「ない!」
「あるって」
「オレは無い」
「まーたオレ様が始まったー!」
「工藤新一様だからな」
「はいはい。王様、今晩は何をご所望で?」
「そりゃもちろん」
 憂鬱が甲斐性されて、好き合った者同士がひとつのベッドでお互い裸なら、する事はひとつしかないでしょう?



 寝入った新一の顔を見ながら、快斗は聞こえないように心の中で言った。
 ごめんな、隠し事が多くて。
 会いに来た理由を忘れるなんて有り得ない。だけど言えないことだったから。
 さっきまでビッグジュエルを狙って、夜の顔――怪盗だ――で仕事をしてきた。例の組織の奴らともかち合った。
 冷たい銃口が突きつけられる。火を放つそれに命を狙われる。
 足も体も、震えまくる。
 だけど。
 帰りたい場所がある。会いたい人間がいる。
 それは強い力になる。
 ――餌食になんかならない。絶対、切り抜けてやる……!
 そうして切り抜けたら、むしょうに、行きたくなったのだ。
 肌も情も交わした相手のところに。
「会いたかったのはオレの方だ」
 眠る相手の頬に、やさしいやさしい、キスをひとつ。




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