【王子様と僕】…2004.02.22発行




 きっと自分はいつものように朝五時には目が覚めるだろう。
 隣で眠る金髪を起こさないようにそっと起き出して、いつもとは違ったランニングコースに出る。帰ってきたらまだ寝ている金髪を叩き起こして、寺の朝掃除に一緒に参加し、朝ご飯を食べて、それから――。
 部活で必要な物だとか、自分たちに必要な物だとかを買いに行こうとか、そんな計画を立てていた竜也の予定はいきなり崩れる。
 だって、目覚めたら、見たこともない世界に居たのだ。



 竜也は寒さのために意識を覚醒させた。
 寒いさむいサムイ。
 理由は至って簡単。昨夜、金髪とイタシタ後、疲れてそのまま寝てしまったから、衣服を身につけていなかったのだ。
 ――あの野郎。また蒲団を持っていきやがったな。
 そう舌打ちして、後ろに手をやり、自分の体に毛布や蒲団を巻きつけようとした――が。
 蒲団が手に触れない。ついでに、いつもなら竜也の背中にぴったりくっついているはずの男の姿も。
「?」
 確認のために寝返りを打って驚いた。
「え……なんだよ、これ……」
 目の前にはそそり立った黒い壁。周りを見渡すと、薄茶の洞窟が広がっている。
「どこだよ、ここ」
 なんでこんな見も知らない場所に居るんだ。
 中途半端な夢を見ているみたいで気持ちが悪い。その上、竜也は裸だったのだ。
 昨夜、服を着て寝ていないのだから裸な理由はわかる。
 だが。
「じゃあなんでこんな変なとこにいるんだよ」
 夢にしては律儀すぎるではないか。服くらい着せてくれ。
 少しの間、そこに座り込み、そして立ち上がった。
 竜也は左に向かって歩くことにする。洞窟の奥はとてつもなく長くて深そうで、とてもじゃないけど進む気にはなれない。そして右には洞窟の出口を示すものらしい光があったから、とりあえず、そっちの方が安全だと思ったのだ。出たら、何かあるかもしれないし。
 だけど中々進まない。足元が不安定なせいだ。一歩歩くごとに体が沈み、体が沈むと足元の白い地面が盛り上がる。
 不思議な地面はふわふわして、ふかふかして、転んでも痛くはない。
 実際に歩いたことなんてないが、雲の上を歩いているみたいだと竜也は思った。うん。きっとこんな感じに違いない。
 苦労しながらもなんとか洞窟から出ると、緑の丘が広がっている。空は恐ろしく高くて遠く、しかも何故か茶色だった。
 ここまで歩いて使った労力に、肩で息をしながらも竜也は辺りを見渡した。
 ――誰も、いねえよな。
 こんな明るい場所で、素っ裸で歩いていて誰かにみつかったら、変態以外の何者でもない。
 人影も気配もないことを確認してから、竜也は丘を登り始めた。
 草に見えた草は、植物なんかじゃなくて、輪の形をしていた。細くてたくさんの輪。気を抜くとそれに足の指を捕られそうになり、竜也は懸命に足を上げて登り続けた。
 竜也が登る丘に平行して、金色の滝のようなものもある。
 ――なんだろ、これ。
 触ってみると無数の糸のようで、そのうちの一本を手に持って引っ張ってみたが、どこかにしっかり結びついているものらしかった。
 三回引っ張ってみても切れそうな素振りはない。
 ただ登るよりは、これを伝っていった方が楽そうだと判断して、竜也はそれを両手で伝い始める。
「藁かな、これ」
 だけどこんな大量の、しかもこんなに大きな藁があってたまるか。
「藁にしては細いしな」
 何か喋っていないと落ち着かなくて、竜也は自問自答を繰り返しながら登った。
 疲れで足を踏み外した時だ。事態は変化した。
「うわ……っ」
 落ちる、と咄嗟に手にした糸に強く掴まった途端、糸の先で声がしたのだ。短く、ひとこと。
「いてっ」
 次いで、肌色の何かが伸びてきて、竜也がしがみついている糸のてっぺんをぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
 掻き混ぜたものを見て、竜也は愕然とする。
 嘘だ。うそだ。うそだうそだうそだ。
 だってそれは、見たことはないけど見たことがある物だったのだ。
 昨夜。綺麗な形のそれが変化していたのを竜也は見ていた。

 『どうしたんだよ、これ』
  ――さっきまで無かっただろ。
  竜也が成樹の左手を取ってそう言うと、成樹が割れたそこをみつめた。そうして、ああ、と言う。 
 『夕食の準備の時、包丁で切りつけたんや』
 『お前が? 珍しいな』
 『や。たつぼんがアヤシゲな皮の剥き方しとったから、あまりの器用さに見惚れてもーて』
 『……人のせいにすんな』
  ついでに。切りつけたんなら切りつけたらしく、その場で「痛い」とか「しまった」とか言えよ。
  俺は何も聞かなかった、と不機嫌になった竜也を引き寄せて、頬にキスして、せやって痛くなかったし、 
 と成樹は言った。
 『ちょっと割れただけやん。お前が気にしなや』
  ぺろり出した舌で唇を舐められ、軽く、だけど、竜也はその舌に齧りついてやった。
  齧って固定した舌先を自分に口の中に埋めて自分の舌で舐める。
  成樹の舌も合わせるように動いて、しばらく舌を絡ませあった。
  名残惜しそうに離れた後、ぽつりと竜也が言う。
 『気にするよ。お前の、数少ない良い所じゃねえか』
  ――きれいな爪は。
 『それ、褒めとんの?』
  人差し指を添えて支え、自分のそこに乗せた成樹の親指を何度も何度も自分の親指でなぞった。

 見たばかりだったのだ。
 多少、大きさや見え方が違ったところで、間違えなんかしない。
 竜也は金の糸から手を離し、歩きにくい緑の地を踏んで、その輪の上を必死で駆け登った。
 その時、金色が動いた。回転する。
「う、うわ……っ」
 金が一瞬宙に浮き、地面が盛り上がる。竜也は元の場所まで転げ落ちた。そして金色が緑の大地に再び着陸した時には、金だけだった藁の大軍の中に、模様が現われていた。
 巨大な、口。
 巨大な鼻――というより竜也から見れば鼻孔、だ――。
 巨大な睫の先。
「これって」
 竜也は今度は立ち上がることができなかった。
 だって見えるものは紛れも無い、指先以上に見間違えるはずのない、佐藤成樹の顔だったのだ。



 なんだよなんだよなんだよ、これ。
 結構な時間、竜也は巨大な成樹の顔を口を開けて見上げていた。
 開いた口が塞がらないとは正にこのことだ。
 ほんとうに。どうすれば閉じれるっていうんだ、こんな事態に口なんか。
 落ち着けと三回、掛けることの六回。
 それを唱えたところでようやく、心臓をやや普通の速さで動かすことに成功した。
 落ち着け、水野竜也。
 なんでこんな状態になったのかはわからないが、現状の可能性としてはふたつある。
 @相手が大きくなった。
 もしくは、
 A自分が小さくなった。
の、どちらかだ。
 冷静に考えて。
 後者だろうなと思った。足元の白はシーツ。さっきの丘は枕とそれに掛けているタオルだろうから。そしてそそり立った黒い壁、は、成樹の背中とランニングシャツ。
 なんでだよ、と、どうしよう、と。
 ふたつの感情が交互に同時に湧き出て竜也の頭の中をぐるぐる回る。
 とにかく、現状から脱出しようと思った。
 それには目の前の相手を起こすことから始め……ようと思って、竜也は体を震わせた。
 くしゃみを四回、繰り返す。
 訂正。
 まずはこの格好をどうにかしないと。
 しかし、簡単にどうにかできるものでもない。これが自分の家だったなら、叔母である百合子が使った布の小さなハギレがあったかもしれない――どうやって調達するかは置いておいたとして。
 だがここは成樹の家で、成樹がそんなものを部屋の中に置いているなんて、まず有り得ないだろう。
 だったら。
 竜也は再度、洞窟――毛布だ――の入り口を目指した。
 ここが成樹の家ならば、確か蒲団の近くに。
「あった!」
 幸い、成樹の体じゃない方にそれがあったおかげで、姿を簡単に認めることができた。
 竜也は、なんとか蒲団の海を越えて、畳に転がるそれの前に移動する。
 重かったりするのかな、との危惧を抱えつつ手を伸ばして引っ張ると、案外簡単にそれは剥がれた。ただし、千切る時は多少コツが欲しかったけれども。
 それでもなんとか千切ったものを腰に巻きつけ――実はトイレットペーパーだ(日頃、後始末に使っているのでその辺に転がっているのを思い出した)、残りをポンチョのように羽織る。
 直に空気に触れなくなった体に安心を覚えて、まずは、成樹を起こすことにした。
「シゲ。シゲ!」
 遠くで叫んでも意味はないらしく、うんともすんとも言わない。
「くそっ」
 仕方がないので、苦労してさっきの場所に戻って、目の前で喚いた。
「シゲ! 起きろ、シゲ! 起きろってば!」
 それでも起きない成樹の顎や喉を蹴飛ばしたり蹴り上げたりしていると、ううん、と唸った成樹の手が凄い勢いで伸びてきて竜也の体を捕らえた。
「もー、なんや痒いー」
「いて! 痛い! いてぇよ、放せ、シゲ! 放せよ!」
 全身を手のひらで握られ、かなりの圧迫を受ける。
 骨が軋むかと思うほどの痛みに、竜也は本気で悲鳴をあげた。
 成樹の目がぱちりと開く。
「たつぼん?」
 指が、更に竜也を締め付けた。
「いてぇ!」
「え」
 自分の手の中で、声を上げてジタバタしたものを見て、成樹の目が最大限に開かれる。
 ええと。
 これはいったい、何の冗談やの?
 起き抜けに目にした親指サイズの竜也に、成樹はやっとの思いでそれだけ口にした。



 知らねえよ、と竜也は挑戦的な目つきで成樹を見て、いい加減放せ、と言った。
「痛ぇんだよ、馬鹿力」
「ああ、かんにん。そないに強く掴んだ覚えはないんやけどな」
「大きさの比較で考えろよ」
「そりゃそうやけど」
 そんな大きさの人間、相手にしたことないもん。
「俺だってねえよ」
「それ特技?」
「知るか!」
 考えたってしゃーないか、と成樹は頭を掻く。
 でもまあ気になっていたことくらいは聞いておきたい。
 ところで、と手のひらに乗せた竜也を覗き込んだ。
「そのけったいな服?みたいなもんって何?」
「……何もなかったから」
「紙?」
「トイレットペーパーだよ!」
「ほーう」
 にやりと笑った成樹の顔に、竜也は慌てて口を抑えたが、時既に遅し。
 成樹は竜也を乗せたのと逆の手で、蒲団脇に置いたペットボトルを手に取り、キャップを開けて、何の遠慮もなく中のコーラを竜也の体に浴びせた。浴びせたとは言っても成樹にとっては一粒。竜也にとっては大量だ。
「うわーお」
「てめ……っ」
 液体を吸収したトイレットペーパーの大部分が溶けていく。
 残ったそれも竜也の肌にところどころ張り付いて、その姿はいやらしいことこの上ない。
 が、竜也から言わせれば、間近で自分を観察する成樹の目こそ最大に最強にいやらしくて変態なもので。
 エロオヤジ。変態。スケベジジイ。馬鹿、アホ、トンマ。
 思いつく限りの悪口を並べて、しゃがみ込む。
「やー、その姿も燃えるわー」
 暫くの間、その姿さえも楽しんでいた成樹だが、ふと、真顔になる。
「ちゅーかアホらし」
「……シゲ?」
「こんなちっこい姿で何がおもろいんや」
「て、てめえでやったんだろ……!」
 面白くないのはこっちの方だ、とかなんとか、いまや人間サイズではない人間が騒ぐのを流しつつ、成樹は竜也をCDラジカセの上に置いた。
「ちょお待っといて。なんか持ってくる」
「なにを」
「まあまあ」
 成樹はウィンクして、人差し指で竜也の頭をひと撫ですると、部屋を出ていってしまった。
 何ともあられもない格好のまま置き去りにされた竜也は、自分の上半身に残った紙をぺりぺりと剥がす。
 濡れたそれは上手く剥がれず、どんどん千切れていく。
 まるで自分の心みたいだと竜也は思った。
 不安を拭っても拭っても拭えない。そりゃあそうだろう。こんな非常識な事態が起こってしまったら。
 しかも。
「ひとりにさせんなよな、こんな時に」
 呟いて、うつむいて、その視界が大きく歪んだ時、ひょいっと持ち上げられて、あたたかいものに浸けられた。
 ばしゃんと入れられて、跳ねた水滴が、竜也の顔にかかる。
「え……」
 それは多分、お椀。
 六分の一くらいのお湯が入った。
 足だけ浸る程度の湯量から空を見上げると成樹の目がすぐ近くにあった。覗き込まれている。
「熱ない?」
「……平気……」
「そら良かった」
 そして「ほい」と白い塊を差し出される。
「液体やったら、お前、埋まってまうやろ」
 そう言って差し出されたものは石鹸。
 竜也は自分の手にたっぷりとそれをつけ、泡立てて自分の体を洗った。
 コーラでべたべたした髪も、体も、顔も、全部。
 洗い終わると、成樹が声を掛けてくれ、シャワーのようにお湯が掛けられる。一通り流し終えると、成樹は竜也を持ち上げて、椀の中のお湯を窓の外に投げ捨てた。そして温かいお湯をたっぷりと張り、竜也をそっと下ろす。
 ――このお椀誰の?
 ――俺の。
 ――いいのかよ、こんな石鹸使って。
 ――食器洗うのも手ぇ洗うのも変わりないやろ。
 ――いや、変わるんじゃねえか、感覚的に……。
 ――そ? いいんやない、別に。問題ある?
 ――……お前がいいならいいけど。
 コーラを掛けたのは確かに成樹だけど。
 それでもちゃんとバスタブ代わりのものを探し、ぬるめのお湯(竜也にとっては丁度良い)の温度を探し、そして持ってきてくれた成樹が嬉しくて、竜也はさっき潤んだ顔を余計に強く、ゴシゴシと擦った。
 変な事にはなったけど、ひとりじゃないからまだ良かったのかもしれない。
 幸い、今日から春休みだ。
 成樹の家に泊まってくると母親には言ってある。それが多少延びたところで上手く誤魔化せるかもしれない。
 時間が経てばどうにかなるだろうとか、二人で知恵を搾り出せばどうにかなるだろうとか、そんな不確かで曖昧な思いも芽生えてきた。
 きっと、どうにかなる。どうにかできる。
 なにせ、いろんなことにめちゃくちゃな成樹がいるのだ。
 と、思った時、視線を感じた。
 なにか。
 絡み付くような。
 いやーな感じの。
 おそるおそる振り向いて。
 竜也は血管がぶち切れるかというほどに叫ぶ。
「ふ、ふ、ふ、ふふふふふざけんな、この変態!」
 変態と呼ばれた男は、どこから持ってきたのか、大きなレンズを竜也に向けて、入浴シーンをじっくりと眺めていたのだ。
 レンズの名前は虫めがね。
 竜也の、本日最大級の雷が落ちたのと、ボンという音と共に、サイズが変わったのは同時だった。
「……怒りを誘発させて、元の姿に戻るかどうか試してみただけやんー」
「嘘だね、絶対」
 じゃあ完璧に元通りにしてみせろ。
 親指サイズから中指サイズに育った竜也は小さく切ったハンカチを体に巻きつけて、成樹の裁縫が上がるのを待っていた。
 ――待っててやるから、服を作れ。
 王子様の最初のご所望はそれだったのである。




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