【Born to love you】…2007.4.23(2005年6月発行同人誌より再録)
※弱冠、性的表現があります。




 夜中、背中にあたる体温に紫苑は目を覚ました。
 振り向かなくてもその体温の持ち主がネズミだとわかる――当然だ。いつも一緒に
寝ているのだから。
 瞼を開けると、ネズミと反対の枕もとでは二匹の小ネズミたちが身を寄せ合って眠っ
ているのが、暗闇に慣れた目に見える。動いたら起こしてしまうだろうか。懸念しなが
らも、紫苑は前後の両者を刺激しないよう、そっと体を反転させた。
 小ネズミたちがぴくりと反応したが、起きる気配はない。
 紫苑は、静かに安堵の息をつく。そして改めて目の前の人物を見た。
 起きていても寝ていても精巧な作りの、綺麗すぎるネズミの顔。
 最近、自分がおかしい。おかしいと思う。だって、ネズミを見ていると楽しいと同時に、
とても苦しくなるのだ。
「ネズミ」
 名前をそっと呼んでみる。囁きにもならないほど小さく。すると安心し、その後、強烈
な思慕が紫苑を襲う。苦しくてたまらない。紫苑は痛む心臓を抑え、ゆっくりと呼吸を
整える。
 この気持ちは危険だろうか。天然とか鈍いとか、ネズミにも沙布にもイヌカシにも言
われた。だけど自分の感情に嘘はない。知っている、わかってしまった。胸に渦巻く
感情が、恋愛のそれであることに。
 ――きみに惹かれている。
 そう口に出した時はおぼろげで正体不明だった気持ちは、危険な目に遭い、小さな
幸せを感じるたびにゆっくりゆっくりと固まって形になっていった。
 大切にしたい、大事な相手。ぼくは、きみに、とても惹かれている。
 とはいえ、やっぱり鈍いという言葉を全面での否定はできなかった。先に自覚した
のは、無意識、の方だったのだ。


 夢を見た。
 夢の中のネズミはとても穏やかな顔でカウチに深く身を沈めながら本を読んでいた。
カウチには見覚えがある。薄いブルーのワッフル生地のカバー。あれは紫苑が10歳
の時、母の火藍と買いに行ったソファーカバーで、紫苑が「これがいい」と選んだもの
だ。きれいな青色ね、と言った母親の優しい笑顔を覚えている。どうしてその上にネズ
ミがいるのだろう。見渡せばすべてに覚えがあった。白に限りなく近い薄いクリームの
壁。その壁にはめこまれた液晶画面。間違いない。ここは、クロノスだ。クロノスでの
家だ。なぜ? ああ、そうだ。終わったんだ、なにもかも。沙布を助け出し、全員無事で、
大きな企みを阻止することに成功し、NO.6は崩壊した。城壁のなくなったNO.6と西
ブロックは自由に行き来ができるようになり、ネズミはこうして、しょっちゅう、家に遊びに
来るようになった。こんな小難しい本ばかりじゃなくもっと文学を読んだら、なんて軽口
を叩きながらも、紫苑の持つ『小難しい蔵書』とやらを読みにくる。
 ――ネズミも、クロノスに移住すればいいのに。
 紫苑がそう言うと「こんなお堅いところは嫌だね。息が詰まっちまう」と肩を揺らして
笑った。もっとも、今の西ブロックは荒れ果ててなんかいない。ゴミ捨て場だったあの頃
と違い、ロストタウンに雰囲気の似た街へと変わった。いや、元に戻ったという方が正し
いだろう。よかった。なにもかもが正常で、正しい世界だ。正しくないのは自分だけ。
 ――自分だけ? 
 紫苑が自分の思考に疑問を持ったとき、ネズミの姿が本当に目の先にあった。ネズ
ミの体勢は変わっていない。自分がネズミに近づいたのだ。覆った影に、ネズミが本か
ら視線を外して、ニヤリと口の端を上げる。
 ――なんだよ、したいの? 
 紫苑は首を縦に動かした。
 ――うん、母さんは夕方まで帰らないって言ってた、だから。
 ――ここでか? 
 ――ここで。嫌?
 スリルがあっていいんじゃない。
 ネズミは手に持っていた本をテーブルの上に置いた。それを合図にネズミの上に圧し
掛かり、唇を近づける。濃厚なキスを仕掛ける。もちろん、感謝のキスでもおやすみの
キスでもない。ネズミの舌はあたたかく、そしてとても甘かった。紫苑の下でネズミが乱
れる。紫苑がネズミの体に触れるたび、その体はびくびくと震え、綺麗な首や背中が綺
麗な曲線を描き、唾液で濡れた唇はらは、せわしない息が吐かれる。紫苑はネズミの
足を大きく広げてその中に自分を埋め込んだ。衝撃にネズミの顔が苦痛を浮かべる。
そんな表情すら魅力的だと思う。細身だけれどバランスよく筋肉のついたその体を上か
ら見下ろしながら紫苑はネズミの体を勢いに任せて揺すった。色気のある、情欲を煽る
ネズミの声がどんどん高まってそして。
 苦しさが楽になった気持ち良さと、どろりとする下半身の感触に紫苑はバチリと目を開
けた。
「あ……」
 射精したことを知る。初めての夢精だった。
「どうして、」
 ネズミとあんなことをする夢なんて、と、しかもそれで達してしまうなんて、という思いが
ぐるぐると頭を巡る。その時、紫苑の上になにかが乗ってきた。
「……!」
 隣で寝ていたネズミが今日は蹴飛ばすのではなく、紫苑の上に乗り上げ、抱きつく
ような格好になる。しかもご丁寧に自分の片足を紫苑の両足の間に割り込ませて。
「や、ちょ、だめだったら、ネズミ……!」
 思わず上げてしまった声だが、ネズミは起きる気配がない。それどころか紫苑の背
中に両手を回して、もっとしっかり身を寄せてくる。
「うわっ」
 精を発したばかりの下着がネズミの密着により紫苑の体に押し付けられる。濡れた
感触が気持ち悪い。なのに再度、首を擡げようとしてしまう。
「く……!」
 紫苑はネズミの両手を背中から剥がし、必死の思いで自分の体を引き抜くとトイレ
に駆け込んだ。ズボンを下ろし、下着も下ろして、中で形を変えていた自身を握る。
夢につられて発したもので既にべとべとするそれを素早く扱いて熱を放射することに
徹する。
「ふ、……あっ」
 堪えながらも小さな声をあげて、紫苑は溜まった欲望を手のひらに吐き出した。
「ネズミ……」
 壁に背中を預けてその名前を呼ぶ。
 ネズミ。ネズミ。ネズミ。
 そして悟る。
 どうしよう。ぼくは。
 ――どう言えばいい。愛してるって言うのか?
 いつかの言葉が真実になったことを知ったのだ。


 紫苑は変わらず眠り続けるネズミを眺める。
 和みとざわめきとで心が揺れる。そのうち、ざわめきの方が大きくなり、紫苑はネズ
ミから視線を外した。だめだ。これ以上見ていたら、理性が効かなくなる。
 紫苑は右足をベッドからはみ出させ、床につけると、それに体重をかけてベッドから
降りた。
 健やかな寝息に乱れがないことを確認すると、手探りで本棚の一角に近づく。そこ
には以前掘り返した毛布をたたんで仕舞って置いていた。そのうちの1枚を掴んで体
に巻きつけ、部屋の角に横になる。
 身も心も火照っている今の紫苑には冷やりとした床の温度と固さが必要だ。
 冷たさに意識を集中させているうちに、徐々に力が抜けていく。そう。このまま眠って
しまおう。明日は暑くなりそうだとイヌカシが言っていた。イコール、絶好の犬洗い日和
になるはずだから。 


  * * *


 いい香りに、頭より先に鼻と腹が反応した。
 めずらしい。そして懐かしい。この匂いは。
「どうしたんだい、ミルクなんて」
 紫苑は、旧式のストーブの前で本を読みながら鍋の中身をレードルで掻き混ぜる後
ろ姿に声を掛けた。
「どうしんだはこっちの台詞だ。あんた、寝相が悪いにもほどがあるんじゃないか?」
「あ、ええと、夜中にトイレに起きて、その後、寝ぼけて……」
「なるほどね。真面目に肉体労働している証拠か。――疲れを癒し、精をつけてもらう
ためにも、今日の朝食は豪華ですよ、殿下」
 毛布をたたんで元の場所に戻した紫苑が鍋の中身を覗くと、乳白色のお湯の中には
米粒のようなものも入っている。
「豪華って言ったって、いくらなんでも豪勢すぎるんじゃないか、ネズミ」
「ご安心を。盗んできたものじゃないし、おれの懐が痛んだわけでもない」
「どういうこと?」
「おっさんだよ。おっさんが、一昨日見かけたあんたが青白く見えたから、ろくなもん食っ
てないんだろうって、牛乳と玄米を持って劇場に押しかけて来やがったんだ」
「力河さんが」
「そういうこと。あのおっさん、本当にあんたに弱いらしいな。まっ、おかげでおれは、お
こぼれに預かれてありがたいけど」
 ネズミはそう言って肩を竦めると、最後にぐるりとレードルを鍋の中で一周させ、味見を
する。
 紫苑の目はその動作に惹きつけられる。正確には、レードルに口をつけるネズミの唇に、
だ。
「うん、美味い。紫苑、皿を持ってきてくれ」
 水気を含んで更に赤くやわらかそうなそれを、自分の同じもので触れることができたら。
「紫苑? 紫苑!」
「え、なに?」
 ネズミが呆れたように息を吐く。
「それもおれの台詞。まだ寝てるのか?」
「いや、そんなことはないよ。ええと、お皿だよね。持ってくる」
「ああ。皿を持ったまま寝ないでくれよ」
「いやだな、寝てないよ」
 いけない。自分の心の中に入り込みすぎた。
 しっかりしよう。気持ちに嘘はないけれど、変なことでネズミとぎくしゃくしたくない。今の
生活を壊したくはない。
 こんな状況になって、改めて、沙布の勇気を尊敬した。
 関係に変化を与える言葉を口にするなんて、とてもじゃないけれど、自分にはできない。
 ネズミに言われたことも思い出す。
 ――おれはあんたを信用していない。紫苑、言葉ってのはな、あんたみたいに軽々しく
使っちゃいけないんだよ。
 今なら、とてもよくわかる。あの時だって決して軽はずみな気持ちで言ったわけではない
けれど、今の心とでは同じ言葉でも重みが違う。
 きみが好きだ。その言葉の大切さを知った。好きという気持ちに付随する、喜びと怖さの
両方を知った。今では、その言葉を口に出せない。いつまでもネズミと共に在るためにも。
 取ってきた皿をネズミに渡すと、たっぷりの量がよそわれる。
「なんていうんだっけ、こういうの。リゾット?」
「さあ? あるものを煮込んだだけだし、第一、そんな洒落た名前のものを、食った覚えが
ない」
「母さんの作る料理は美味いんだ。いつかネズミにも食べてもらいたいな」
「いつか、な」
 聞こえるか聞こえないかの小さな声でネズミが呟いた。
 いつか。
 なんて遠い響きなのだろう。
 むろん、諦めるつもりはないけれど。


 * * *


 コツも掴み、手際が良くなった紫苑――それでもイヌカシ曰く「時間を掛けすぎだ」らしい
が――は、最後の一匹にタオルを被せ、丁寧に拭いてから立ち上がる。ずっと中腰での
作業なので腰も膝も痛い。それでも仕事を任せてもらえることが嬉しかったし、なによりも
洗ったそばから犬たちが気持ち良さそうに走り回ったりあくびをしたりする姿に、充実感を
覚える。
「よし。綺麗になったぞ」
 紫苑の言葉に「ありがとう」というように茶色の大きな犬が喉を鳴らした。
 そしてホテルの客室の掃除を丁寧にやり、最後に食事の準備となる。それぞれの体に
合った分量を適当に分けながら、ふさふさの毛を持った賢い犬たちと一緒に半日を過ごす
のだ。
 夕方に、ご苦労さん、と今日の分の賃金がイヌカシから支払われる。
「ありがとう」
 手のひらに掛かる少しの重さのコインを大事に握り締めてから、紫苑はズボンのポケットに
それを入れた。イヌカシが口を開く。
「紫苑さあ」
「うん?」
「いちいち、そういうのって疲れない? おれ、背中が痒くなるんだけど」
「なにが?」
「働いたら、その分の報酬があるのは当たり前だろう。特にこの西ブロックじゃ、みんなそう
だ。誰も見返りのないことはしない。紫苑、おまえさんだって、その金に見合う仕事をしてる
んだ。なのに、なんでその度に、お礼なんか言う?」
 からかっているわけでも、馬鹿にしているわけでもない。イヌカシの目は真剣そのものだっ
た。本当に、紫苑の取る言動が理解できず、疑問に思っているようだ。
 そして紫苑はというと、そんなことを聞かれる理由がわからない。
「なぜって……嬉しいから。なにも知らなくて、なにもできないぼくに、イヌカシは仕事をくれた」
「おれじゃない。おまえさんを呼んだのは犬だ」
「でも、呼ぶって決めてくれて、給金を払ってくれるのは、きみだろ?」
「それはそうだけど」
「うん。それがとても嬉しい。きみがいなければ、ぼくは今でもネズミの荷物になったまま
だった。正確には、今だってネズミに迷惑はかけっぱなしだと思うけど。それでも、こうして
働けているおかげで、ぼくは、毎日のパンが買える。それが嬉しい。だから、ありがとう」
 紫苑の言葉にじっと耳を傾けていたイヌカシはフイと顔を反らして、甘いな、と言った。
「甘いかな」
「ああ。まるで砂糖菓子みたいだ。食ったことねえけど」
「よくわからない」
「うん。だが、あんたはそれでいいのかなとも思う。その天然さでのんびり行くのが
合ってる。背中は痒くなるけど、なんか、嬉しくもなるしな」
「そう?」
「ああ。おっと、もう、こんな時間だ。暗くなる前に帰れ。帰すのが遅くなって、おまえさんに
何かあったら、ネズミに殺されかねない」
「まさか。でも、心配してくれてありがとう。じゃ、また明日」
 最後に、おやすみ、と付け足した紫苑にイヌカシは目を丸くして、そして少し目元を赤らめ
ながらも「おやすみ」と返してくれた。
 紫苑はくすりと笑う。
 いろいろ知っているし、たくましいけれど、そんな姿だとちゃんと年下に見える。
 ネズミもイヌカシも力河も、なんだかんだ言って、強くて、そして優しい。しなやかに力強く
生きる姿というものを、紫苑はこの西ブロックに来て、初めて見た。あんな風に生きてみた
いと、憧れる。
「おまえのご主人は、格好良いな」
 護衛のために紫苑の隣を歩く茶褐色の犬に、そう語りかけると、犬は紫苑を見上げ、
自慢するみたいに、大きくてふさふさした尾を激しく振った。


 * * *


 力河がくれたという食糧のおかげで、今朝食べるはずだったパンがまだ残っているが、
それだけでは心許ない。新しく買っていこうと、紫苑と犬は市場に向かった。
 パンを買い、少しの干し肉を買うと、小銭はなくなってしまう。だけど、なくなった分、命を
繋ぎとめる食べ物を手に入れることができる。しかも、今日の干し肉はいつもより大きかっ
た。それだけで、とても嬉しい。帰ったらネズミに報告しなくてはと、帰路を辿る足を速めた
時、前方から声がした。聞き覚えのあり過ぎるほどある、ネズミの声だった。とっさに、近く
の路地裏に身を隠す。
「別に、隠れなくても」
いいのに、と思ったが、隠れてしまったものは仕方がない。
 ネズミが出てきたらしい建物を見ると、みすぼらしくはあるが、それでもまわりの家や店
とは趣のもので、これが劇場なのかと思う。劇場の裏口だ。
 ネズミの前に立った見知らぬ男は、なにごとかを早口に、そして懸命に喋っていて、ネズ
ミはそれを腕を組みながら冷ややかな顔で眺めていた。
 男の勢いにケンカなのかと不安になる。まして、ネズミのあの表情だ。怒っている――多
分――男の感情を更に煽りはしないだろうかと紫苑が不安を更に深めた時、男が2歩、ネ
ズミに近づいた。ネズミの腕を掴む。
「ネズ……」
 殴られる。そう思って飛び出しかけた紫苑は、体を半分出したところで動けなくなる。
 男は、ネズミの手首を掴み、肩を抱いて、キスを仕掛けたのだ。
 多分、時間にして数秒ほど。長い時間ではない。だけど紫苑の目には、ネズミが唇を覆
われた瞬間から、男を突き飛ばし、その腕を捻り上げて撃退させるまでが、1コマ1コマ、
スローモーションのように映った。


 苦々しく舌を打ったネズミは、遠くもなく近くもない位置に立ち尽くす紫苑に気づくと、綺麗
な作りの顔を歪めた。
「見てたのか」
 金縛りに遭っていたかのように体を硬直させていた紫苑が、声を掛けられたことで解ける。
「見てたっていうか」
 紫苑は気まずいながらも、ネズミに向かって歩く。
 まさか、ここまで来て、言葉を交わさずには帰れないだろう。
 ネズミは紫苑が腕に抱えた袋を覗き込んで、さっきの冷たい表情が夢の中の出来事だっ
たみたいに、いつもの顔で言った。
「大量じゃないか。あんたも、ようやくまともに買い物ができるようになったな。えらいえらい。
だけど、ちゃんと家に持って帰るまでが買い物だからな。途中で得意の慈悲心を出して、
少なくするなよ。ママはもう少ししたら帰りますから、おとなしく待ってるんですよ」
 おとなしく。
 その言葉に紫苑は頷く。
 ――うん。先に帰る。きみの帰りを、待ってる。
「……紫苑?」
 棒読みの台詞に眉間を顰めたネズミが紫苑の肩を掴んだが、紫苑はそれを軽く払って、
顔だけで笑う。
「後でね、ネズミ。仕事、がんばって」
「あ、ああ」
 2、3歩、足を前に踏み出した紫苑に、後ろからネズミの声が飛ぶ。
「帰れるか?」
「なに言ってるんだい? いつもの道じゃないか。こいつもいるし、大丈夫だよ」
 頭を撫でられた犬も、紫苑の変化に気づいて表情を険しくする。犬はネズミを振り向い
た。その理知な顔を見て、ネズミは安堵する。大丈夫。紫苑の様子がおかしくても、きっと
あの犬が守ってくれる。
 なるべく早く帰る。そう言いそうにもなって、ネズミは慌てて口を噤んだ。別に、言わなく
てもいいことだ、それは。
 後ろ髪を引かれながらも、劇場の中からはネズミ、いや、今はイヴか、を、探す支配人
の声がする。今行く。そう軽く怒鳴って、角を曲がりかけている1人と1匹の姿をちらりと見た。
なにがあった? だが不安に囚われている時ではない。多くはないが少ないともいえない
数の客が待つステージの上に、ネズミは急いだ。



 紫苑は足が覚えているままに雑木林を抜けて、ネズミと小ネズミたちと暮らす廃屋へと
帰る。押さなければならない壁の前で紫苑が立ったままでいるのを、1分待ってから、犬は
紫苑の袖を咥えて引っ張った。
「え? あ、ごめん。ぼうっとしてた」
 壁を押し、地下への階段を降りてその先のドアを開く。紫苑が中に入ったのを見届けると、
犬は帰っていく。そして次の朝も迎えに来てくれるのだ。
「ちょっと待って」
 紫苑は持っていた袋の中のパンのひとつを3分の1ほど千切って犬の前に差し出した。
「ありがとう。明日もよろしく」
 犬は一瞬だけ遠慮して躊躇したが、紫苑がふたたび「はい」と勧めたので、安心してパンに
口をつける。
「落としたものだと拾うのは早いのにな」
 送ってもらった初日のことを持ち出すと、犬は知らぬ振りをして鼻を鳴らす。その様子が
おかしくて、紫苑は笑った。
 階段を登っていくのを見届けてから、ドアを閉めて鍵を掛ける。
 灯りをつけようと指を伸ばして、やめた。なんとなくだ。今は、暗い世界にいたい気がする。
 もう歩き慣れた室内は、目を頼らなくても歩いていられる。紫苑はゆっくりとテーブルに
向かい、その上に荷物を置いて、自分はベッドへと向かった。布団の上にうつぶせに倒れ
込む。チチッと二種類の声がして、肩にハムレットが、背中にクラバットが上ったのがわかった。
「ただいま。ごめん。今日は、本を読んでやる気力がないんだ」
 気力がない。
 言葉にして初めて、そのことに気がついた。
 そうだ、気力がないんだ。根こそぎ奪われた。なにに? 決まっている。目の前で見てし
まったキスに、だ。
 掴まれたネズミの手首。がっちりとした体が引き寄せたネズミの体は小さく見えた。
 ネズミがキスをするのを見たのは2度目だ。
 1度目もなかなかの衝撃だった。紫苑が客引きの女に捕まった時、赤い唇を翻弄するた
めに仕掛けたネズミからのキスは、それを初めて見た紫苑の目から見ても、少し濃厚だった。
あれに比べたら今日のなんて全然軽い。ただ重ね、そして無情に拒絶されていただけだ。
だけど。
「ネズミとキスをした」
 その事実に、紫苑はぎりぎりと痛み出した心臓を、服を掴むことで堪える。
 ネズミに誰かが触れることがこんなにつらい。自分も、さわりたくてたまらなくなる。唇に
触れて、肌を触り、その先も。
 紫苑は、その感情に覚えがあった。自分の経験ではない。似たような感情の動きを、この
部屋の中に閉じこもっていた時に本で読んだ。読んだ本の主人公が同じ台詞を喋っていた。
この感情の名前は、確か。
「嫉妬、と、独占欲」
 ネズミと出会い、さまざまなことを知った。自分の中にいろいろな自分がいることを知った。
これも、新しい発見だ。
「あんまり、嬉しくないけど」
 紫苑は自嘲するように笑う。
「自分にもこんな感情があるなんて」
 独占したいと思うほどに愛しい相手と出会えたことは確かに幸せなことではあるが、だか
らといって。
「誰かの不幸を喜ぶなんて、怖いことだ」
 突かれた胸。男の手の中から取り戻されたネズミの手首。ねじり上げられた腕。なにより、
多分、告白中に見せた、ネズミの冷ややかな視線。
 あれに、喜んだ。
 そんな自分に、呆然とした。
「怖い」
「なにが?」
 暗闇の中でネズミの声がした。


 * * *


「ネズミ!」
 紫苑はぎょっとして体を反転させる。小ネズミたちが素早く紫苑の体から離れる。すると、
ギシリとベッドが鳴り、紫苑の上に誰かが、ネズミが、覆い被さってきた。いつの間に帰って
きたのだろうか。まったく気づかなかった。
 ネズミは紫苑を組み敷いて囁く。
「仕事帰りのママに、お疲れのキスはないのか?」
「下手な冗談はやめろよ、ネズミ」
「あんたこそ下手な隠し事はやめるんだな。なにがあった? なにを隠している?」
「かくしごとなんか」
「してないとか言うなよ。正直とまっすぐは、あんたの持ち味のひとつだろう」
「それはわからないけど」
「けど?」
「言ったら、きみが困るということだけは、確実なんだ」
 だから言えない。
 きっぱりと言い切った紫苑に、ネズミは小さなため息をつき、慌ててそれを吸い込んだ。
「そんなことを言われて、はいそうですか、なんて引けると思っているのか」
「引いてくれ。それが、きみのためにもなる」
「おれのためかどうかは自分で判断する」
「……そうだね。きみは、いつもそうだ」
「そうだ。だから、おれが困ったとしても、実際、あんたには関係ない。それで困るなら
おれの問題だ。なにより、気になって夜も眠れなかったらどうする。そっちの方がよっぽど
重大だろ」
 後半、大げさに声のトーンを変えたネズミの心遣いに、紫苑から笑みが零れる。
 ああ。こういうところも、とても好きだ。
 そして新たな感情が芽生える。
 ――ぼくのことで困るきみも、見てみたい。
 恋は盲目だと、誰かが言っていた。どこで聞いたのかは、もう覚えていないけれど。
 きみを困らせたくない。きみを困らせたい。このままの関係でいたい。この関係に変化を
与えたい。
 相反する自分の心が渦を巻いていく。その渦は次第に大きくなり、ネズミすら巻き込む。
紫苑は意を決して、強く、こぶしを握った。それからネズミの腕をポンと叩き、逃げないことを
知らせる。
「喋るか?」
 ネズミが念を押してきた。正直に話すまで、ベッドに縫いつけておくつもりなのだろう。
「喋るよ。なんでも。本当は、きみに聞いてもらいたい……いや、言いたいかな、ことでも
あるんだ」
 しおらしい態度の紫苑に本気を悟り、ネズミがようやく紫苑の上から退いた。
 紫苑は自由になった体を起こし、黒いシルエットのネズミに語りかけた。
「ネズミ、ぼくは元気になっただろう?」
「ああ」
「外を歩けるようになった。仕事もしてる。買い物もできるようになった。ケンカも、少しだけど
前より上手くできる」
「まっ、全然なっちゃいないけど。マシになってるのは確かかな。で? それが?」
 先を促されて逡巡する。どう言えば伝わるだろうか。どうすればこの思いをきちんと伝える
ことができるだろうか。
 息を吸い込んで紫苑は言った。
「セックスだけ、できていない」
「は?」
 出した言葉はあの日の沙布と同じものだった。
「ネズミ、きみとセックスがしたい」
 きみとセックスがしたい。なんて簡単なことば。何の比喩もない、ストレートな気持ち。沙布
も、こんな想いを抱えて、この言葉を言ってくれたのだろうか。胸が痛くなってくる。
 少しの沈黙の後でネズミが発した言葉は、
「……変な本でも読んだのか?」
だった。
 疑心暗鬼。すぐには信じないあたりが、やっぱりネズミだ。紫苑は口元だけで笑った後、
それを引き締めてネズミを見据える。
「違う。セックスも知らないくせに生きてなくていいのかって、きみが言ったんだ。耳に残って
る、きみの声としてぼくの耳に残ってる。その声を思い出すたびに、変な気持ちになるんだ」
 やり方なんて知識で知っている。実践に移したことはないし、それがどんなに魅惑的な行為
なのか、感覚として一切わからないけれど、体が、本能が、それを求めている。
 きみと重なりたい。
「興味だけ?」
「え?」
「セックスへの興味だけで?」
 ネズミの声には感情がなかった。その平淡な問いを、紫苑は全身で否定する。
「違う。きみとだから、やりたいんだ」
「やりたいなんて直接的で野蛮な言葉を、あんたが使うと思ってなかったな」
「他にどう言えばいいのか、わからない」
「だろうな。それに、あんたが口八丁で迫ってきたら、それはそれで怖いものがある」
「ひどいな」
「本当のことだ」
 ネズミのシルエットは上を向いた。
 ジッと天井を睨みつける。いや。睨みつけているように見えるというだけで、実際には目を
瞑っていたのかもしれないけれど。
 そうしてネズミはひとつの答えを出した。いとも簡単に。
「いいぜ」


 * * *


「なんで驚くんだ。あんたが言い出したことだろ、紫苑。たいしたことじゃないし」
「たいしたことじゃないって」
 不満と疑問を声に表した紫苑に、ネズミはクックッと笑った。
 聞いていたじゃないか、あんたも。
「おっさんが言ったことは嘘じゃない。あんたと別れた後だ。12歳の子供がひとりで生きてく
なんて方法、本当に限りがある」
「ネズミ、それって」
 紫苑はネズミの告白に息を呑んだ。
「噂や推測だけじゃない。火のないところに煙は立たないって言うだろう? あんたの興味ある
セックスも、あの頃から何度だって経験している。今更あんたと1回増えようが、問題じゃあない」
 言い切った時、紫苑の手がネズミの頬に伸びてきた。
 伸ばしたことは何度もある。紫苑にもイヌカシにも、他の人間にも。温と冷。言葉とそして与
える体温によって、相手を翻弄し、上手く言いくるめる。それも、ひとりで生きていくために身に
つけた処世術のひとつだ。だが、伸ばされることは、まず、ない。意識があるうちはそれと気づ
かれないうちにはぐらかしてきたし、触れるのを許す時というのは、それこそコトの最中で、何
度もいかせられて、もう指1本すら動かせないほど疲れている時だけだった。
 それが、今、他人の手が自分の頬を撫でている。
 背中がぞくぞくする。嫌な感覚。触れられることは、あまり好きではない。
 それなのに、どうして甘んじて受けているのか。ネズミ自身にもわからない。
 頬を撫でていた指が首に下りる。そしてシャツの隙間から肩も撫でる。ネズミは息を整えた。
次に来るであろう胸への愛撫に耐えるためだ。
 なのに、それは来なかった。
「紫苑?」
 紫苑はネズミを壊れ物のように両手で覆ってやわらかく抱きしめ、右手で何度もネズミの髪を
梳く。
「ぼくが、大人だったらよかった」
「は?」
「あの時、ぼくが大人だったなら、きみを完全に守りきることができたかもしれないのに」
「……なんだよ、それ。同情? 擦れて生きてきたおれへの」
「擦れてなんかいない!」
 鋭い声がすぐ傍で聞こえ、その尖った声にネズミの体がビクリと反応した。
 軽く跳ねたネズミに「ごめん」と紫苑は嚇かしてしまったことを謝って、だけど擦れてなんか
いないのに、と続ける。
「悔しいんだ。どうしようもなく、悔しい」
「悪い。悪いけど、おれ、本気であんたの言葉の意味がわからないんだけど」
 ネズミの声には困惑が含まれる。そしてネズミの方こそ悔しい。きみを困らせるからと言って
きた紫苑を、別にいいと突っぱねて言わせたことなのに、紫苑の言葉通りに困っている。それが
とても、悔しいことのような気がする。
 そんなネズミに構わず紫苑は言った。ネズミを抱きしめたまま、耳元で。
「きみが好きだ。きみと会えてよかった。今、きみとこうしている生活だって不謹慎だと思うけど
楽しい。ぼくの運命が変わった4年前の出会いに、すごく感謝している。ぼくの命を助けてくれた
きみに、とても感謝している」
「そりゃどうも」
 紫苑は喋り出すと、そのお利巧な頭ゆえに回りくどくなる。それもこの数週間のうちに理解した
ので、ネズミは続く言葉を待った。適当に促しながら。
「それなのに」
「それなのに?」
「ぼくは、きみがどんな日々を過ごしてきたのか、知らない」
「知って欲しくもないけど」
「うん。きみはそう言うだろうと思った。でも、ぼくがもっと大人で、そういうことがわかれば、どん
なことをしてでもきっと、きみの傍にいたのに、それができなかった。考えることすらしなかった。
ただ、どうしてるんだろう、いつか会えるだろうかって、そんな呑気なことばかりで」
「いいんじゃないか、それは」
「だめだよ。だって、悔しい」
 苦しい夜とか寂しい夜とか、小さなきみがひとりでいるのを見つけて、抱きしめて、一緒に過ご
したかった。
 背中に回る腕が強くなる。ネズミもその紫苑の腕に手をかけた。指先で筋を辿る。細く見えて、
結構、筋肉がついている。まだ成長しそうな紫苑のからだ。
 ポンポンと背中を軽く叩いてやる。
「……大げさだな」
「大げさかな」
「おまけに甘い」
「イヌカシにも言われたばかりだ」
「誰がみてもそう思うんだよ、あんたは」
「でも、悪いことだと思わない」
「――ああ」
 強さになるんだろうな、あんたのそれは。
 ネズミは小さな声で呟いた。
 弱い。弱そうに見えて、とても強い。だって。凍っていた自分の心や、必死に築いてきたバリケー
ドを、紫苑はいともたやすく破壊してしまう。
 その無防備に明け透けなあたたかさでもって。
 ネズミは紫苑の前髪を掻き上げた。まっすぐな瞳がある。それが、近づく。
 ふたりとも同時に瞼を閉じた。唇を重ねる。ゆっくり。静かに。
 しばらくそのままで静止し、離れた時にネズミが笑う。
「震えられると、こっちまで照れるだろ」
「仕方ないじゃないか、緊張するよ」
「純情だな」
「純情だよ。だって初恋だもの」
 臆面もなく言い放つ紫苑に、ネズミが言葉を失う。口を開けたままのネズミを、今度は紫苑が
笑った。
「あの日から、ぼくはきみをずっと求めてた」
「恥ずかしいな、あんたってやつは」
「うん。でも、これがぼくだ。きっと、もう直らない」
 勘弁してと紫苑が言う。
 ネズミには観念しろと聞こえた。
 捕まってしまったのはお前だろう。どこかで誰かの声がする。
 さっきより震えの少ない紫苑の唇は、さっきよりも深いキスを仕掛け、手はネズミの服を脱が
していく。
 誰とも関わらないと決めたのに。
 手放せないものができた。そしてそれは決まっていたことなのだ。
 自分があの日、脱走した時から。
 紫苑が窓を開け放ったその時から。
 台風だったことも、出会ったことも、紫苑が天然だったことも、傷の手当てを受けたことも、コ
コアやチェリーパイが美味しかったことも。
 ひとつのベッドの中で寝た、紫苑の体のあたたかさを、知ってしまった時から。
「ん……ッ」
 開いていく心に、開かされていく体が追いつく。
 久し振りに内部に受け入れた熱は、他の誰とも違った。
「ああっ」
 精神的に苦痛なだけの行為のはずなのに、苦しみなんか感じない。ドクドクと息づく自身が
興奮を伝える。紫苑に纏わりついていく自分の中が、手に取るようにわかる。
「ネズミ、ネズミ」
 色気を含む紫苑の声に引きずられる。
「あ、……ん、ふ、あ……!」
 シオン、と、声にならない声で呼んだ。
「ネズミ」
 音が返る。
 しおん。
「ネズミ」
 紫苑。
「ネズミ」
 愛している。
 その言葉だけでネズミは絶頂を迎えた。きつく締め上げてきたネズミの内部に、紫苑も欲
望のすべてをネズミの中に解き放つ。



 荒く息を吐き出すことで内に篭もった熱を発散させた後、ぽつりとネズミが言う。
「おれは、あんたが子供で、良かったと思ってるよ」
 ――だって、大人だったら情状酌量の余地なんかなく、即、矯正施設行きだったんだぜ。
 その言葉に、紫苑は「そうか」と唸った。
「ぼくが、ここにいることはないのか」
「そういうこと」
 ネズミは横になる紫苑を跨いだ。先に、シャワーを使うぜ。
「あ、うん。ごゆっくり」
 快楽の余韻としあわせに顔と声を緩ませる紫苑に、ネズミはバスルームに篭もってから、
長く息を吐いた。
 やってしまった。関係を持ってしまった。もうきっと。
「手離せない」
 自分から、紫苑を。離すことができない。
 4年間、ひたすら焦がれ、支えだったぬくもりを、現実に手に入れてしまった。
「紫苑」
 その名前に、体中をさっきの快感が走り抜ける。
 ヤバイ。
 真剣にヤバイ。
 大事なものなんて、作ってはいけないのに。
 ネズミはシャワーの栓を左に回す。熱い湯を全身に浴びて冷静になろうとした。だが、冷
静さを取り戻そうとするそばから、顔が綻んできてしまう。
「ったく。危険具合がわからないおれじゃないだろうに」
 どんなに自分を罵倒しても止まらない。
「どうにかなるのか」
 どうにかなる。どうにでもできる。
 ネズミは、その言葉を、初めて、唱えてみたいと思った。 




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