【natural】…2008.11.04
   (2007年2月.・NO.6アンソロジー様に寄稿した原稿より再録)



 劇場の裏口から出たネズミの目の前に黒い影が走った。正確には、影たち、だ。少しだけ縦に長い影がひとつ。横に長い影が無数。
 影たちはネズミの進行方向を塞ぐように半円を描きながら立ちはだかる。ネズミの唇が上がった。からかうように縦長の影に言葉をかける。
「足音を忍ばせないとは、お前にしては珍しいな、イヌカシ」
 軽口には軽口で返ってくるはずなのに、今日は違った。そんな余裕などないらしく、とても深刻な声で告げられる。
「緊急事態発生だ、ネズミ」
 そして告げられた事態に、ネズミは顔に浮かべていた笑みを瞬時に消した。



 犬が帰ってこないのだとイヌカシは言った。
 今までなら「おれとそれにどんな関係が?」と無視しただろうし、そもそもイヌカシだってそんな用件でネズミを頼ってくるはずがない。
 商売で繋がる自分たちの関係は、つい最近この西ブロックの住人となった紫苑のおかげで壊された。紫苑を通じ、金銭が絡んでいなくても話す機会が多くなる。
 イヌカシは、ネズミが誰かとつるんでいるのを見たことがないと珍しがるが、ネズミこそ、イヌカシが犬以外の者と一緒にいる姿なんかにお目にかかったことがない。こんなことを言うと「紫苑はおれの労働者でおれは雇い主だ」と、金で繋がっていることを主張するのだろうが、そんな理由を超えてイヌカシが紫苑を気に入ったことは雇ったことからもわかるし、大事な兄弟分である犬を労働の帰りにガードマンとして無料でつけていることからも、はっきりと伺える。
 そして、護衛として紫苑につけている犬が『帰ってこない』イコール『紫苑の身に何かが起こった』ということだ。
 ネズミはざわつく胸を抑えながらイヌカシに言った。
「どこかで寄り道しているだけじゃないのか。心配性なことだな」
「紫苑を帰してから、もう三時間は経つ。あのおぼっちゃんは、まだよく知らない町をそんなに長くうろつくほど、甲斐性があるのか」
 逆に聞かれ、ネズミは黙った。
 確かに。つい先日まで紫苑が住んでいた、安全で物も豊富なNO.6内ならば、喫茶店に立ち寄ったり、ウインドウショッピングなどという洒落た真似もできたかもしれないが、娯楽のための物などほとんどない西ブロックで、ごくわずかな金しか持たない紫苑が、長い時間を潰せるわけがない。
 言葉に詰まったネズミにイヌカシが畳み掛ける。
「おれのホテルから、おまえたちの家までの道程は、もう他の犬たちに辿らせた。市場も一通り見たが、そこにもいない」
「力河のおっさんに捕まってるんじゃないのか。あのおっさん、紫苑にはいい顔したいみた、」
いだし、と続けるはずの言葉は遮られる。
「いっしょじゃないことは確認済みだ」
「……行動がお早いことで」
 肩をすくめてみせたネズミをイヌカシが見つめる。どうする、と、漆黒に似た目が聞いてくる。
 ネズミは思わずつきそうになったため息を寸でのところで飲み込んだ。代わりに舌を打つ。
「世話のやける……」
 小声で呟くと、超繊維布を翻した。
「同じところを探しても意味がないだろう。おれは向こうを探す」
「わかった。おれはこっちを中心に探してみる。なにかあれば、犬を寄越す」
「ああ」
 頼む、と言いそうになってネズミは口を噤んだ。なぜおれが紫苑のためにイヌカシに礼を言わなきゃならない? そんな必要はないだろう。イヌカシだって好きで首を突っ込んでいるのだろうし。
 ネズミは、もう一度吐きそうになったため息を飲み込むと、月が制する闇の中を走り出した。



 イヌカシの手前、さほど興味のない振りをしたが、内心ではかなり動揺していた。なにせ、心当たりが多すぎる。
 多少危険度が高い相手として『片付け屋』たちがいる。あいつらは女はもちろんだが、小奇麗な男を相手にするのも厭わない。紫苑はルックスの点においても、やつらが好きな『素人』という点においても、欲情やら加虐心をそそることだろう。紫苑に目をつけたひとりの好色そうな目と歪んだ口元を覚えている。すぐにでも食われてしまいそうなほどいやらしいものだった。紫苑も危険を自然に察知して死に物狂いで逃げていたが。
 あれに捕まったのなら五、六時間、いや、それは甘いか。人数が人数だ。もしかしたら二十四時間でも足りないかもしれない。それほど長い時間、苦痛と屈辱に置かれたら。
 悪い想像をしてしまい、ネズミは頭を振った。大丈夫。犬もいるし、あいつらに捕まるほど紫苑は鈍くない。
 市場の真ん中ほどに差し掛かった時、酒場の店先から下卑た笑い声が聞こえた。『片付け屋』たちだ。ネズミは歩調をわずかに緩めながら男たちを数える。いち、にい、さん……。いつもと同じ人数がいたことにほっとする。昨日今日で入った新入りがいない限り、少なくとも今この瞬間、紫苑が『片付け屋』たちに囚われているということはないだろう。
 次に路地を覗いてみる。
 紫苑にとってある意味『片付け屋』たちよりやっかいな相手かもしれない。ここらを仕事場にしている娼婦たちは。
 女性を邪険にできないうえに、断わり方も下手な紫苑は、簡単に捕捉することができる。お涙ものの過去――それが作り話でも――などされた日には、多分、一発だ。気づけば床の真っ最中、なんてこともあるかもしれない。
「まっ、本当にここに居るなら、それほど危なくはないんだがな」
 法外な金額をふっかけられたほか、「責任を取らなきゃ」なんて思い込みでやっかいなことになりそうなだけで。
 つい苦笑いした時、後ろから声を掛けられた。
「あんた!」
 振り向くと見覚えのある女が胸のあいた真っ赤な薄いドレスに、灰色のやっぱり薄いショールを羽織って立っている。
「ぼうやは元気かい」
 そのセリフで、ああ、と思う。初めて西ブロックを歩いた時、紫苑をこの路地に引っ張り込んだ張本人だ。
「ああ、とても」
「まだ、あんたに飽きないって?」
「ぞっこんだよ。毎晩、激しくて困るくらいだ」
「そいつはごちそうさま!」
 女は額に手を当てながら大きく笑うと、ひらひらと手を振った。
「ここは女好きが来るところなんだ。男好きはあっちに行きな。商売の邪魔だよ」
 払われるまま、おとなしく路地を後にする。少なくとも、ここで紫苑は目撃されていないようだ。
 ネズミは市場のいたるところに視線を投げながら歩き続ける。
 道端で倒れている老人、路地のゴミ箱を漁る中年、店先から零れる明かりの下で凍える子供たち。どれもこれも紫苑が素通りできなさそうな障害物だ。だけど、どれにも絡んではいない。
 市場を抜け、外れまで来る。この先に人は住んでいない。他の国から来る人間が昼に通り道として使うだけだ。夜に足を踏み入れれば、それだけで死に近くなることを意味する。 
「どこに行ったんだ」
 イヌカシからも連絡がないということは、紫苑の行方を掴めていないのだろう。胸のざわめきが大きくなる。
 ネズミとイヌカシとイヌカシの犬たちと。これだけの数で探しているのに見当たらない。西ブロックのことならなんでもわかると豪語する情報屋であるイヌカシが探し出せないのだ。すでにもう。
 ――西ブロックにいないのでは……。
 嫌な考えが頭を過ぎる。
 ネズミのところ以外に居場所のない紫苑が、自らいなくなったとは考えにくい。となると、NO.6から追っ手が掛かったか。だが、自分でさえ放置されているのに、わざわざ紫苑を追ってくるなんてことがありえるのだろうか。それほど大事な生贄に、紫苑は選ばれているのか?
「考えても、しかたがないな」
 ひとまずイヌカシと合流しようと、ネズミは今来た道を戻る。


 途中、情報収集をしているのだろうイヌカシの犬に遭遇した。そいつの頭を撫で、イヌカシに連絡が取れるかと聞いてみる。犬は目で頷くと、顔を天に向け、一声吠えた。呼応するように近くから遠くから犬の鳴き声が聞こえる。ネズミはスタスタと歩き出す犬の後を静かに追った。



「聞くまでもないか」
 ネズミが住む家のすぐ近くで、大きな木の股に座っていたイヌカシはネズミの傍らに犬しかいないのを見て、そう言った。
「それはこっちの台詞だ」
 ネズミが情報をくれない情報屋を皮肉ると、イヌカシが木から飛び降りる。
「お手上げだ。なんの、痕跡もない」
 イヌカシはネズミの住居の入口を指差した。
「ここまでは匂いもある。ただ、ここからの足取りが掴めない。家に入る寸前に何者かに拉致された可能性が高い」
 言われて、ネズミは扉の前に歩み寄った。土を調べるが、特に荒れた様子はない。と、ふと、疑問を口にした。
「中に入らなかったのか?」
「なんでおれが、おまえたちの家の中まで。第一、鍵なんか持って、な、い……」
 イヌカシの語尾が小さくなり、顔を見合わせた。
「もしかして」
 イヌカシは指を咥えるとピーという口笛を鳴らす。すると、小さいが確かに反応する犬の声が聞こえた。地下から。
 ネズミが勢いよく扉を開け、地下へと続く階段を駆け下りる。階段脇のドアノブを掴む。部屋のドアには鍵がかかっていなかった。ネズミは乱暴にドアを開いた。
 明かりのない地下の部屋のベッドがある場所で、ふたつの目が光る。
「おまえ!」
 ネズミの後ろでイヌカシが叫ぶ。それは、帰ってこない犬だった。
「ここにいたのか!」
 同時にネズミがランプを点け、部屋の中が照らされる。
「……人騒がせな……」
 そこには、犬を抱きしめたまま寝ている紫苑が在った。



 緊急事態は緊急事態だったじゃねえかと口を尖らすイヌカシを睨みつけながら、ネズミは、事情を聞きつけた力河が見舞いだと持ってきたりんごの皮を器用に向いた。
「ぼくが悪いんだ。イヌカシを責めないでくれ、ネズミ」
 ベッドの上で起き上がろうとした紫苑の肩を乱暴に押してまた戻しながら、ネズミは「ほんとうだ」と呟く。
「借りたものはすぐ返せ。あんたが犬を帰さないから、こんな大事になったんだ」
 この時期の水浴び――本人は犬洗いのつもりだろうが――は紫苑の体調を崩すには持ってこいだった。紫苑の異常に逸早く気づいた犬はいつもなら上で引き返すのに、家の中まで付き添ってくれたらしい。ふらつく体でなんとかベッドに辿り着いた紫苑だったが、倒れこむようにベッドに横たわってしまう。そして毛布をかけようとしてくれた犬に暖を求め、自然に抱き抱えた。その力が結構なものだったことと、紫苑の体調が心配だった犬は、振り切ることもできず、紫苑の腕の中でおとなしく湯たんぽ代わりになることを決めたそうなのだ。
「まったく、いい迷惑だ」
 ネズミは剥き終えたりんごを八つに串切りにすると、そのひとつを紫苑の口の中に放り込んだ。なくなった頃、またひとつ、追加する。
「ごめん」
 どこから仕入れたものなのか、西ブロックにしては珍しい、たっぷりの水気と蜜気のあるそれをしゃくしゃくと音を立てて食べながら、紫苑は素直に謝罪の言葉を告げた。それと、お礼を。
「心配してくれて、ありがとう。ネズミ、イヌカシ」
「べつに、心配なんか、」
 二人同時に同じ言葉を口にし、ネズミとイヌカシは気まずさに視線を宙にさ迷わせる。そんな様子にくすくすと笑い、紫苑は傍らに座り続ける茶色の犬の頭を撫でた。
「おまえも、ありがとう。ずっとついててくれて。おかげで、凍えなくて済んだ」
 犬はぺろりと紫苑の手を舐める。それは、早く元気なれと言っているようで、紫苑はもう一度、感謝の意を込めて届く範囲まで頭と体を撫でてやった。
「おまえ……、って、言いにくいよね。名前ないのかな。ねえ、イヌカシ?」
 突然話を振られて、椅子の上に座っていたイヌカシが飛び上がる。
「は? 名前? 誰に?」
「誰って、犬たちに」
「なんで」
「だって、呼びにくいだろ?」
「はあ?」
「諦めろ、イヌカシ」
 ネズミはイヌカシと犬に、りんごを、ふたかけずつ放った。
 自分もひとつ食べながら、勝手につけられるぜ、と笑う。
「おれの小ネズミも、おかげで名前だらけだ。しかもこいつらがそれを気に入っていて認識しているから、面倒くさい。おまえのところもきっとシェイクスピアだのマクベスだのやっかいな名前でいっぱいになるぞ。覚悟しとけ」
「冗談じゃない。そんなめんどくさいこと、ごめんだ」
 イヌカシは立ち上がり、帰ると言った。
 出て行く間際、名前なんかいらないからなと釘を刺していくことも忘れない。
「怒られちゃった」
「いいから、早く寝ろ。風邪なんか、おれに移すなよ」
「努力はするけど、風邪って空気感染だから、」
「はいはい。おれも、移されないよう気をつけます」
 まだまだ続きそうな紫苑のおしゃべりを最後のりんごを口に突っ込むことで制して、ネズミは強引に明かりを消した。
 暗闇の中、しゃくしゃくと咀嚼の音がする。
 他人が心配でかけずり回ることも、無事を知ってこんなに安心することも、紫苑がいなければ知らなかったことだろう。今も、昔も。
 それはネズミだけではなく、自ら孤独を選んで生きてきたイヌカシや力河も引き摺るらしい。すごい引力だ。知らずにやっているから、質が悪くもあるのだが。
 ――たいしたやつだよ、あんたは。
 ネズミは、紫苑に聞こえないよう、胸の内でつぶやく。底が知れないのは吉か凶か。紫苑らしさを失わずにいて欲しいと、真に願う。


 もうすぐ、きっと、人狩りが始まる。




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