【鈍感(戸田北)】…2006.8.5




 ほぼ近隣に住む子供たちが集まるシニアチームだ。同じチームということは、イ
コール、家が近いということで、だからこんな日のこんな時間――十二月三十一日の
十一時三十五分――に、お互いが近所の寺にいたとしてもおかしくない。おかしくは
ないが。
 ――なんで見つけちまうんだろ。
 隆也は七列ほど前を歩く人間の後頭部を見ながらため息を吐いた。
「なんだよ、阿部。こんくらいで参ってんの?」
「今年は少ねー方だよなー」
 隆也のため息を、人ごみへの疲れだと見当違いをした同級生たちに「ちげーよ」と
力なく笑い、そしてまた前方を見た。確認する。やっぱりそうだ。間違いはしない。
 野球少年の中では珍しい、自分を主張しまくった――そしてそれがとても自然で厭
味じゃない――長めの髪の、榛名元希だ。
 初詣なんかしなさそうなのに、と考えて、自分の意見を打ち消す。いや、案外、祭
りごととか好きなのかも。
 だが、考えれば考えるほどにどちらのタイプかわからなくなる。それはつまり、そ
の人物の姿が自分には見えていないということだ。
「まだ二ケ月だしな」
 口の中だけで呟いてみる。
 そう。まだ二ヶ月。だけど、もう二ヶ月。未だ、自分にあの人の球は捕れていない。
 今の状況のようだと隆也は思った。
 元希と自分の間の人波、六列分。
 どんなに流れ、前に進んでも、最初からついているこの六列分の差は縮まらない、
から、並べない。こうやって後姿を見る。それしかできない。
 くそお、と、今度は心の中で呟いた。
 この悔しさを、近いうちにきっと、なくして見せる。
 除夜の鐘が鳴り始める。誰が数えていたかわからないが、人々のざわめきと同時に
カウントダウンの囁きも大きくなる。ひゃくいち、ひゃくに、ひゃくさん、ひゃくよ
ん、ひゃくご。
 知らず、隆也もその数を口にしていた。ひゃくろく、ひゃくなな。
 最後、ひゃくはち。
 周り中で挨拶合戦が始まる。おめでとうおめでとう、新年明けましておめでとう。
 隆也も左右の友人と、そして、六列前の人物に向けて言った。今年も、よろしく。
 しばらくして、ようやく辿り着いた賽銭箱の前で小銭を投げ、真剣に手を合わせる。
 どうか。
 どうか、元希さんと同じ夢が見れますように。
 もちろん自分で叶えるけども、できれば神様、少しだけ背中を後押ししてください。
 祈り終わり、最前列から抜けて脇に避ける。友人達を待つ間、隆也はなんとはなし
に人ごみをみつめる。みつめる振りをする。
 おみくじを引いている人、結んでいる人、お守りを買っている人、甘酒を飲む人、
どこにも長い髪のみつけたかった人物はいなかった。
 前しか見ないあの人はこんなところでもやっぱり前しか見えていなくて、立ち止ま
ることも、周りを見渡すこともないらしい。こっちは見つけたのにという悔しさと寂
しさが、隆也の心の中にじわりと広がった。
 


 眠いのに眠れない。
 寝返りを打つのもそろそろ飽きた。枕に押し付けすぎた頭が痛い。
 深夜に出かけたことで生活のリズムが狂ったのか、午前四時四十六分という時刻に
も関わらず、隆也の体は一向に眠ろうとしなかった。仕方がないので起き上がる。散
歩、いや、ジョギングでもしに行こうか。体が疲れれば眠れるかもしれないし。
 布団から出るのは結構嫌だったが、このままでも辛いしと、隆也は勢いをつけて跳
ね起きると寝巻きからジャージに着替えた。上着を羽織れば準備は万端。両親や弟を
起こさないよう静かに階下に降りると玄関の扉をそっと開ける。
「お」
 そこには銀世界が広がっていた。
 銀世界とはいえ、霜に近い、大変うっすらしたものだったが、隆也が高揚するには
充分だった。
 一歩踏み出す。足型がつく。もう一歩、二歩、三歩。
 誰もいない世界に、自分だけの足跡がついていく。
 隆也は徐々に歩幅を大きく早くした。低い気温の中を駆けて駆けて、駆け続ける。
走るスピードが増す分、体がきつくなる。だけどそれが心地良い。今日は絶好調だ。
こんなに気持ち良く走れる。だけど隆也は走ることに夢中なあまり、気づかなかった
のだ。いつもと目線が違うことや、雪の上につく足跡が靴の型でも人間の足型でもな
く、更に四つに増えていることに。



 すげー軽いな、オレの体。
 そんなことを考えていると小さな公園に出た。見たことがない。というか、そもそ
もここはどの辺なのだろう。少なくとも、普段の自分の行動範囲外であることは確実
だ。
 帰り道わかっかなと、瞬間、不安が生じるが、休日であることを思い出す。学校も
シニアもあるわけじゃないし、母親たちもどこかに行くと言っていたわけではない。
帰宅が多少遅くなったってどうってことない。
 そう結論を出すと隆也は近くのブランコまで歩いた。
 ――つうか、このブランコ、でかくね?
 だって身長百六十センチ(自称)の自分の目の高さに椅子があるのだ。なんて子供
に優しくない設計だ。
 ――ん?
 ブランコを触ろうとした手に異変があった。
 なにこれ。
 隆也の手は茶色の毛で覆われていた。指もない。人間のものではない。しかも宙か
ら出されるはずのそれは、地面から放たれていた。
 ――は?
 パニックした頭が状況を把握するより早く、頭上から声を掛けられる。
「ンだよ、お前。これに乗りてーの?」
 軽々と隆也の体を抱き上げたその声は、聞き覚えのあるものだった。
 


「早起きだなー、お前」
 隆也に声をかけたその人は、ブランコに座ると隆也を腿の上に乗せた。軽く地面を
蹴ってブランコを揺らす。
 ゆらゆらに合わせて隆也の頭を撫でるその手はとてもやさしかった。
 もとき、さん。
 言葉は出なかった。代わりに「ワン」と、信じられない音が出た。
 ワンてなんだ、ワンて。
 だけど視線を落すと確かに自分の両手は獣の足に変化していて、胸元も背中も足も
体毛がびっしりで、尻の先には尻尾まである。自分を抱く投手の体はいつもの何倍も
でかい。というより自分が小さい、と考えた方がいいのだろう、この場合。
 ――なんで? いつから?
 わけがわからず混乱している隆也におかまいなしに、元希は話し掛け、撫で続け
る。頭や耳の後ろや背中や臀部を丹念に、全身くまなく。右から左に流れるそれに、
隆也は重大なことに気がついた。
 ――これって左手……じゃねェ?
 以前、怪我をしたと聞く元希の準備運動はシニアの中の誰よりも念入りだった。ど
こを故障したのか隆也は知らない。ただ、膝と肩や肘がより丁寧に動かされることだ
けはずっと見ていた。その、彼が大事にしている左手が、今、自分の体――らしい
――を撫でている。
 驚いて振り仰ぐと、見たことがないやわらかな表情の元希を見てしまい、更に驚く。
 ――このひと、こーゆー顔もできるんだ。
「なんだよ?」
 隆也が元希を凝視してると、楽しそうに笑った元希は、あろうことか隆也の鼻先に
唇を押しつけた。
 ――ッ!?
「ンなに見んなよ、連れて帰りたくなんだろー」
 そしてぎゅっと抱きしめる。抱きしめるというより抱き潰すに近い力の入り方だっ
たが、さっきのやわらかい唇の感触と、この近くあたたかい体温と心臓の鼓動音に動
けなくなる。
 今まで、冷たいイメージしかなかった。
 それはこの人がまだオレたちに心を開いてないってだけで、実はこんなに優しい人
だったりするんだろうか。
 時々ささやかれる声に、耳がピクリと反応する。
 もっと撫でられたいと望んでしまう。
 隆也は自分の状態はまずおいて、元希のやわらかさややさしさを感じておこうと、
体を丸め、尻尾を揺らした。


 その後、一時間くらいキャッチボールをした。
 元希が山なりに投げるボールに飛びつく。
 それは自分が人間の姿でしているキャッチボールにはほど遠いゆるやかさではあっ
たが、元希が肩をあたためるために役立てるのは、結構、嬉しいことだった。
 呼ばれる。
「オイ。こっち来い」
 傍に寄っていくと、これは取りに行くなよ、と視線を合わされた。
 とっておきを、見せてやる。
 ニィと笑った元希は深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。
 大きなモーションが開始される。元希が公園の壁に向かって投げたその球は、隆也
が見たことのないスピードだった。
 くやしい、くやしい、くやしい。
 隆也は奥歯を噛み締める。
 もとよりあんまり捕れてはいないけれど、それでも、他の捕手たちより捕れてい
る、もうすぐ絶対完璧に捕れるという自信があった。とんでもない自惚れだ。
 この人はまだ、こんなに速い球を投げることができる。
 全然、及ばない。自分の力が。
 元希は跳ね返ってきたボールを三回、手の中で遊ばせると、またモーションに入っ
た。
 取らなくていいと言われた。
 だけど自分は捕りたい。
 隆也は元希の正面に飛び出していた。
「バカ……っ!」
 元希の声が聞こえた次の瞬間、わき腹に痛みを感じ、隆也は意識を失った。



 気がつくと見知った天井が目に入った。自分の部屋のベッドの上に寝ていたよう
だった。
 ――……なんで……?
 夢、だったんだろうか。どこから、どこまでが? 
 隆也は不可思議な思いのままベッドから降りた。右のわき腹に痛みを感じて思わず
呻く。シャツをめくってみると、もう見慣れた、野球のボールひとつ分の出来立ての
痣があった。
 窓に近寄り開ける。眼下の白い霜の上には新聞配達の自転車のタイヤの跡と、かす
かな人間の足跡が一人分、はっきりと残っていた。



 スッキリしないまま正月は過ぎ、今年最初の練習日になった。
 その日の帰り、元希が珍しく「くっくっ」と笑っていた。隆也を見て。
「どーした、モトキ。イイコトあった?」
 誰かの質問に元希が答える。隆也は聞き耳を立てた。
「変なユメ見たんだよ、しょーがつに。イヌとキャッチボールしたんだけど、そのイ
ヌがまた真剣な目でオレの球を捕んの。それがあいつにそっくりでさァ」
 
 ひとつ、思い当たったことがある。
 元旦の願い事。
『どうか、元希さんと同じ夢が見れますように』


 神様、ちょっと『夢』の解釈が違いませんか?





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