【一発殴っていいですか?(戸田北)】…2008.03.10
                                  (2006年6月発行・戸田北アンソロより再録)



 いつのまにか大好きだった硬いボール。
 週末のたびに父親と繰り広げたキャッチボール。
 初めて着た、ブカブカのユニホーム。
 自分の放る速い球に驚く、周囲の視線。得意な自分。
 初めて試合に勝った時の嬉しさ。
 人が亡くなるとき、それまでの人生が鮮やかに――ソレがなんだかは知らないが、ソウマトウとか言うらしい――浮かび上がり、流れるそうだ。
 そんじゃヤバイのかなオレ、と元希は思う。思い、遠くで聞こえるブレーキの音と目の前に迫る白い車に、来る衝撃に備えるため、元希は足を強く突っ張らせた。


  *  *  *


「泣くほどのことかよ……」
 呆れ混じりに口に出した言葉に嘘はない。むしろ、百パーセント超えで本心だ。だって中学――しかも学校外のクラブ――のたかだか関東大会の準々決勝。この先だってまだ試合はあるんだし、今日の負け試合の発端になった同い年の投手ならともかく、ひとりでこっそり泣いていた後輩なら、引退までだって先が長いのだ。
 だけど少しだけ、言い過ぎたかとは思う。掴みかかり、自分を間近から睨んできた相手の怒り具合が余計、それを元希に自覚させた。
 正直びっくりしたし「ヤバイ」とも「しまった」とも一瞬思った。そう、一瞬。
 隆也の剣幕に驚きはしたが、次には壁にぶつかった自分の左肩に全意識が集中した。
 オレの左肩。大事な大事な、すべてに繋がる大切な体。
 そう思った時には、もう声が出ていて。
 ――はなせ!
 襟元を掴む隆也の震えと怒りの目は、しばらくの間、瞼の裏に焼きついた。





 隆也はアンダーシャツを脱ぎながら、誰にも見えないようにため息をついた。今日の練習試合も快勝だった。だけどあまり嬉しくない。
 隆也が元希との距離を感じれば感じるほどに、周りからは「息ぴったり」だの「ナイスバッテリー」だの、声を掛けられる。
 どこがぴったり、どこがナイスだ。
 自分勝手にひとりだけで野球をしている人間を、変えることも制御することもできていないのに。
「いや」
 ――野球にすら、なってないのに。
 隆也は元希を責めながら、自嘲するように笑った。
 練習は、もちろん練習だ。試合で結果を出すために、毎日毎日努力する。
 だけど元希にとっては公式試合ですら、自分のための練習程度でしかなかったと知ってしまった。
 元希の意識は凄いと思う。プロになるという目標に向かい、そのために計画的に自分の体を作り、腕を上げていく。また、悔しいと思うのが無駄だと思わせるくらいに、センスだってある。だけど。
「一緒にやってる人間すら無視するプレーを、オレは野球だと認めない」
 認めてしまったら、なんのために九人もいるのかわからない。いるんだから、その存在は必要なのだ。投手対相手チームじゃない。自チーム対相手チームだ。ひとりじゃ野球はできない。
 その言葉をストレートに、または表現を変えて、あの試合の後、何度元希に言い放ったか、もう覚えてはいない。元希がうんざりした顔をするくらいには言っている。返ってくるのが「わーってるよ」とか「またかよ」なら、まだいい方だ。機嫌が悪いと「うるせェ」や「しつこい」に変わり、そして返事すら返さなくなる。言葉は、いつまでたっても通じない。
「元希さんと喋ってると、時々、宇宙人と喋ってるみたいな感覚になります」
 それは、まだ仲が良かった頃に言った覚えのある言葉だった。その時は、主語を省略し続ける元希の唐突な会話について行けず、通じないことに逆ギレをかます大人気ない上級生をからかうために、笑いながら告げた。
「いい加減、日本語、覚えてくださいよ」
 今では同じ言葉でも、かなりの苛立ちが含まれる。
 だけど本当にわからないことは稀になった。傍らにいる人の機嫌と少しの行動から、何をしたいのか、何をしようと思っているのか、野球と食い物が関係することに限って言うならば、大抵理解できるようにはなっていて、「おっまえ、よくわかんなァ」とチームメイトたちが驚くたびに舌打ちしたい気分になる。そして、口の中で言い訳をする。そりゃ、組んでから、もう両手の指くらいは経ってんだし、比較的一緒にいるし、仕方がないっつうか。
「なにボソボソ言ってんだよ、気持ち悪ィなァ」
 べしりと頭を叩かれる力の強さにも慣れた。
 ロッカーのひとつ向こう隣で手早く荒く着替えるその姿にも、帰ったと思いきやいきなり後ろから襲来し、隆也が手に持っている飲み物だったり食い物だったりを奪っては楽しそうにはしゃぐ姿や、文句を言われた時に見せる自分が悪いと知っている顔――だけど認めず、理由にならない理由をつけては言い返してくる――や、その後、二日とか三日とか、ひどい時には三週間後にふと脈絡なく呟く「悪かったな」の時の消え入りそうな声の音や、首まで染めて照れる姿にも、もう慣れた。習慣は親しみを連れてくる。だけど、きっと根本的なところで自分と元希は駄目なのだ。
 合わない。気に食わない。理解できない。許せない。でも。
 ――悪い人でも、ない。
 それはさすがにわかるから、いつか言葉が通じる日がくることを期待しては、叶わず、また落ち込む日々を繰り返してきた。
 怒り続けるには体力も精神力も必要だ。この頃では、それらも減りつつある。結果が得られない、先が見えないことをやり続けるのは、とても苦しい。上昇の気配はないのに終わりが近いとわかっていれば尚更で。
 元希がこのグラウンドに姿を見せなくなる日も近い。
 怒鳴り合い、カラカラになった喉が悲鳴を上げる。もう無理だ。無理だった。結局、わかりあうことはできなかった。
 言葉も、態度も、すべてが無駄だったことに脱力する。
 わがままで俺様で自分勝手で横暴で気分屋で。短所や悪口なんて、一晩中でも言えそうだ。
「きっと、ぜってェ、一生変わんねーんだろな」
 いつの間にか誰もいなくなったロッカーでひとりごちる。声は壁に吸い込まれるように静かに消えた。
 隆也は脱いだ物を丁寧にたたんでバッグの中に几帳面にしまう。チャックに手を掛けた時、静寂は突然破られた。
 隣の監督室の電話が鳴り、いつもののんびりした声で出た監督の声が途中から深刻なものへと変わったのだ。
 ――はい。確かにうちの選手ですが。え、事故? それで元希は大丈夫なんですか。
 モトキ ハ ダイジョウブ ナンデスカ ?
「監督!」



 聞き覚えのある病院の名前を聞いた途端、足は勝手に走り出していた。自転車置き場に向かい、カバンをカゴに乱暴に突っ込んで愛車に跨る。帰宅ラッシュのこの時間なら、裏道を行けばきっと自転車の方が早い。
 頭がガンガンする。目の前の風景が色褪せる。
 ただ、心臓の鼓動だけが、まるで耳のすぐ近くにでもあるように大きな音を立てていた。



 担ぎ込まれた(多分)ハルナモトキの病室は、と受付で騒ぐ必要もないほどあっさり、隆也は元希と対面した。というか、元希はロビーの長椅子に座りながら、アイスクリームなんぞを咥えて、テレビなんぞに見入っていたのだ。
 覚えのあるはねた黒髪に向かって隆也は歩く。
 人の気配と足音で元希が振り向く。振り向いて、おそろしく間抜けな顔で隆也を見た。
「……タカヤぁ?」
 なんでお前がこんなトコにいんの。
 素で出されたらしい質問に血が昇る。隆也は元希のシャツの襟元を掴んで引き上げた。
「それはこっちの台詞です。なんであんたがこんなトコでこんなにのんびりくつろいでんですか!」
 叔父貴待ってんだもん、と緊張感のカケラもなしに言われ、隆也は元希から手を離してその場にしゃがみこむ。
 顔が熱い。呼吸ができない。足が疲れている。心臓は、ずっとうるさい。



 幸い、元希には怪我らしい怪我はないらしい。スポーツしてるせいかしらね筋肉が柔軟なんだわ、と若くて可愛い白衣の天使に言われたと自慢気に話す元希に、隆也は大きく肩を落した。
「……びっくりして、すげェ損した」
「損たぁなんだよ。言っとくけど、オレはタマタマ、キンニクがジューナンだったからで、叔父貴や相手はタイヘンなんだぜ」
 大変と言っても命にかかわりはないそうで――打撲や打ち身だそうだ――しかもどっちかというと事故処理の方が大変らしい。他人の親戚にこんなことを言ってはアレだが、飲酒していたらしいから自業自得だ。
 ケロリとした元希を見たら安心したと共に、ムカムカ感が沸き起こってくる。
「自分の体が大事なクセに、よくも、酒呑んだ人間の運転する車に乗ろうと思いますね。危機感ってモンがないんですか、あんたには!」
「ちょっとしか飲んでねって言ってたんだよ」
「ちょっとだろーが大量だろーが飲酒は飲酒だろ!」
 ガンガン食いついてくる隆也の怒鳴り声を耳に人差し指を入れることでかわしていた元希だったが、隆也が一息ついた時に、ヒヒと嬉しそうに笑った。
「……なに笑ってんスか」
「だってよ、心配したんだろ?」
「っ」
 元希は耳に当てていた指を今度は目尻につけ、それを上に吊り上がらせた。
「サイキンいっつもコンナ顔ばっかで、怒るわ説教たれるわだったから、キラワレてんのかって思ってた。なんだよ。オレんこと、好きじゃんなァ」
「ば……っ」
「ば?」
 隆也は両方のこぶしを固く握る。そうしてスウと息を吸い込み、あらん限りの声を出した。
「バカ言ってんじゃねーよ! 知り合いが事故に遭ったっつったら、普通、心配するっつうの!」
 好きじゃなくても、と付け加えることも忘れない。それから「後遺症がないよう祈ってますから」と口早に言うと、くるりと踵を返して元希に背中を向けた。病院を出る。
 ああ、もう。本当に心配して損した。
 なんだよあの元気な姿――元気で良かったけど。
 なんだよ、あの楽観的な思考――的外れでもないけど。
 隆也はガシガシと歩いていた足を止める。赤い十字架のついた白い建物をを振り返る。
 ――普通、心配するっつうの。知り合いが事故に遭ったら。
 さっきの自分の言葉をもう一度呟く。握ったコブシは小刻みに震えていた。
 ちくしょう。
 認めるよ。
 確かに、それだけじゃない。
「腕も足もどっこも、怪我してなくて良かった……!」
 どこまでも魅力的な球を投げるあの人が無事で、本当に良かった。
「球だけは本物なんだ、惹かれたって、仕方ねェ」
 震える右手で左手を強く握り締める。元希の球をいくつも受け止めてきた手のひらが、ひどく熱くなっていた。


  *  *  *


 真っ赤な顔で息を切らした隆也を見た時、元希の頭に事故の瞬間に浮かんだ映像がフラッシュバックした。
「そうだ。見たな、あのカオも」
 あれは、初めて隆也が元希の全力を捕った時。
 ――捕りましたよ、元希さん!
 泣いても怒っても笑っても。
「まっすぐオレを見る目は、変わんねーのな」
 心配してくれる存在がある。
 それはとても嬉しいことで、元希は溶けかけたアイスを一口で食べきりながら、肩を震わせて笑った。





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阿部が三橋に言った言葉(3巻)の中で、「酒 飲んだヤツの車には乗るな!」だけが
三橋がやったことのない(少なくとも阿部の前では)言葉だったので、
 @自分が危ない目に遭ったことがある
 A昔組んだ投手がそんな目に遭ったことがある
 B昔のチームメイト(投手以外)が以下同文
 Cそーゆー話を聞いたことがある
のどれだろうと思って、ちょうど運命の3巻だし、榛名さんがやらかしててそれをタカヤが
超心配したなら可愛いなーと見た時から思っていて、いつかこのネタで書きたいなと考えていました。

いつものようにイチャラブ時期でもよかったのですが、企画したアンソロが時系列順に作品を掲載、
というもので、あの試合後から元希さん卒業くらいまでの期間がミッシングリンクになっていたため、
じゃあこの時期のものとしてあまりイチャイチャしてないものを、と、こーゆー話になりました。
アンソロだったりゲストだったりで書かせて頂けるものは、いつもの自分とはちょっと違う、
2割以上増でマジメな話(いろいろな意味で)になるので楽しいです。
ひとりじゃこーゆー設定で書かないもん。



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