【俺のものは俺のものお前のものも俺のもの(戸田北)】…2005.6.21
   



 ケンカ――というか言い合い――なんていつものことだったから、直接の原因なんか忘れた。
 いつもなら言い合った勢いそのままの乱暴な足取りで帰り、ムカムカしながらもやがてその感情は落ち着き、次の練習日には変わらない仏頂面で「ちわ」だの「お疲れっす」だの言う相手に「おう」と返し、それで前回が帳消しになる。
 つまり激昂した自分たちに必要なのは時間なのだ。
 それが、ムカムカが治まることもなく、肌寒さすら感じているのは、汗を掻いたままのTシャツを着替える間もなくグラウンドを出て、少し小高いこの丘までズンズンと歩いてきてしまったせい。
 ついさっき。
 合宿2日目の練習時間終了直後に、榛名元希は阿部隆也とひどい口喧嘩をした。



 元希が去ったグラウンドでは見守っていた皆が緊張を解き、「あーあ」と脱力する声で充満する。
「まーた派手にやったなァ、タカヤ」
 言い合いの後で息が荒い隆也に、ひとつ上の先輩が声を掛けた。
 隆也はちらりとその人を下から見上げてすぐに視線を宙に逸らす。
「……オレは派手じゃないですよ。元希さんがわからずやで声がデカイだけです」
 賛同半分、いやでもお前も充分派手だぞ、の否定半分でチームメイトたちが肩を揺らした。
 そして元希が足早に歩いていった方向をみながら「どこ行っちまったんだろな」と呟く。四本のバットを担ぎ上げたセカンドの選手が「あ」と細い目を更に細くして口を開ける。
「どした?」
「やられた」
「何を」
「元希」
「は?」
「あいつ」
「うん?」
「今日、食事当番」
「……」
「……」
「……」
 ポン、と隆也の肩が叩かれたのは説明するまでもないこと。



 隆也はタマネギの皮をべりべりと剥きながら心の中で悪態をつきまくる。
 ――なんで当番でもないのにオレがこんなこと、つうか、逃げりゃいいってもんじゃねェだろーがあのガキ――先輩ではあるが――面白くねェことがあるから身を隠すって精神年齢いくつだよ。
 剥いたタマネギを水にさらし、まな板の上でガツンガツンガンガンガンガンと細かく切っていく。力任せの作業はタマネギが細かくなっていくごとに怒る気持ちも乗っているようで、八つ当たりしているうちに徐々にクールダウンしていく。冷えてきた頭で考える。
 それほど、重大なことでもなかった気がする。
 なにげなく気がついた何かの動作に軽く口を出したら噛み付かれて、それにカチンときて普段からの鬱憤までぶちまけて。
 それでも間違ったことは言っていない。それは確かだ。
 あいつの方が悪ィのに、理不尽な怒り方して勝手にどっか行きやがって。
 そう思ったら萎んだ気持ちもまた膨れ上がってくる。知るか、もう、あんなヤツ。
 最後のみじん切りが終わると山盛りのそれを、同じく大量のひき肉が入っているボールにザッザッと加え、手で混ぜ合わせていく。
「隆也、できた?」
 サラダ担当の同学年の人間が自分の仕事を終えて振り返る。
「もう少し……うし」
 タマネギとひき肉とつなぎを上手く混ぜ合わせたら、それを手に取って手のひらサイズの細長い丸に伸ばす。そして真ん中をへこませた固まりを何個も何個も作った。
 鉄板の上にアルミホイルを敷き、軽く油を塗って作った細長丸をそこに置いていく。保護者としてついてきた数人の大人のうちのひとりの指示を仰ぎながら適度に温まった大きなオーブンに鉄板を入れ、タイマーを適分にセットした。扉を閉めるとゴオオという音がして、火力が一気に上がる。
 みそ汁隊の仕事も完了し、テーブルに人数分の食器が並べられていく。
 サラダを盛り付け、焼きあがる傍からハンバーグを加え、出来た順に食事部屋に運んだ。
 3往復を終えて4回目の移動のとき、タカヤは手にしたそれが二つとも、大きさといい焦げ具合といい、胃を満足させるに充分なものだと見て思う。そして少し逡巡した後、まだメインのおかずが並んでいなかった自分と元希の席の前に、コトリとそれを置いた。
 辺りを見回す。
 激しい練習の後の腹ぺコ集団は夕飯完成の匂いを嗅ぎつけ、それなりの人数が食事部屋に集まってきている。
 だが。
 あっちの角に座っている集団にも、窓から風景を眺めている数人にも、廊下ではしゃいで遊ぶ者たちの中にも、元希の姿は見えない。
 隆也は小さく舌打ちをつく。
 ――まったく、あいつは。
 隆也は急いでキッチンに戻り、すべての準備に精を出した。早く、早く、これらを終えてしまわなければ。
 味噌汁も白飯も漬物もデザートも運び終える。戦争の後みたいな凄まじい汚れのキッチンから食べ物に見えるものがなくなったのを確認して、隆也はつけていたエプロンを外した「悪ィ。これ洗濯機に突っ込んどいて」入り口近くに立っていた同い年の男に押しつけて走り出す。
「え、隆也、どこ行く、」
「散歩!」
 外へと出ていく背中をみつめ「散歩って」とエプロンを持ったチームメイトがぼんやりと呟く。
「素直に探してくるって言やあいいのに」
「意地っ張りだよなァ」
 通り掛かってたまたま今の場面に遭遇したやはり同学年の人間もキシシシと笑った。
「お似合いだよ、なんだかんだ言って」
 似たもの夫婦と称されていることは、チームメイトたちしか知らない隠し事。



 なんで走っているんだろうと思う。
 汗を拭いた後なのに。着替えて落ち着いた後なのに。これから飯を食い、風呂に入ってリラックスの時間に入れるはずなのに。
 隆也は一気に合宿所の外れまで行き着く。だけど人影はない。
「どこ行きやがったんだよ、あいつ!」
 苛々しながら額に滲む汗を腕で拭った時、視界の先に大きな木が見えた。
 ピンとくる。直感がある。きっと、あれの下。
「くそ」
 今居る位置からは違う方向のそれに向かって、隆也はもう1度走った。



 走る距離が思ったより伸びなかったのは途中で探し物と出会ったからだ。
 茂みから出てきた元希は凄いスピードで自分の前を横切った何かに向かって声を出す。
「あ」
「あ?」
 声と見慣れたシルエット――いつの間にかすっかり暗くなっている――に隆也は急ブレーキをかけると同時に怒鳴る。
「なにやってんスか!」
 瞬間、頭の中で予想していたのは「うるせえ」だったのに、実際には違う言葉が返された。間髪入れずに。
「お前が来ねーからだろ!」
 ――は?
 驚き過ぎて声も出せなかった。
 怒りを露にしていた元希も、バカみたいに口をあんぐり開けた隆也に自分が口に出した言葉の拗ね具合に気づいて赤くなる。
「あ、ちが、そーじゃなくて」
 今更、どんなに繕ったって無駄なのに。隆也は元希に気づかれないように小さく笑った。声は出さずに唇の両端だけ上げる。
 聞きたい。
 ――言い過ぎに反省したんですか。
 ――オレが追いかけるのを待ってたんですか。
 ――オレが迎えに行くのを待ってたんですか。
 ――来ない間、不安でしたか。
 ――待ちきれず、出てきてしまったんですか。
 ――来るって、信じていたんですか?
 だけど、聞いたところで正直な答えを返す相手じゃないことも嫌というほどわかっている。
 だから言った。
 帳消しの言葉を。
「メシの時間っすよ。帰りましょう」
 暗闇に慣れてきた隆也の目は、ひどく安心した表情の元希をばっちり捉えた。



 土と草とを踏みながら、合宿所の明かりを目指した。元希はTシャツを前に引っ張り、バサバサと煽ぎながら歩いている。
「さみー。つか、気持ち悪ィ」
「後先考えねェで動くからっすよ」
「うるせえ。腹減った」
「今日ハンバーグです」
「マジ? 2個も食えるなんて最高だな」
「……ちょっと待ってください。なんですか2個って」
「オレのものはオレのもの。お前のものもオレのもの」
「勝手なこと言うな!」
 一蹴されて、元希は唇を尖らす。
「なんだよ、ケチ」
「どっちが」
「ナカナオリのセオリーじゃねーかよ、物の分け合いって」
「分け合うってことは元希さんもなんかくれるんスか」
「あったりまえだろ」
 そんな優しい台詞によろめいた自分がすごく愚かだと隆也はすぐにわかった。だって。
 渋々ながらも元希にあげる分と箸で切った一切れのハンバーグを嬉々として奪取した元希が隆也の皿の上に返してきたのは、レタス1枚だったのだ。
「ぜんっぜん見合ってないと思うんですけど」
「気のせー気のせー」
「ふざけんな! 返せ、オレのハンバーグ!」
「ははっ。もう食っちまった」
「じゃあてめえの寄越せよ!」
「取れるもんなら取ってみな」
 皆と時間がずれた二人は、その後の夕食の片付けも風呂も歯磨きも一緒で、そのたびに限りないじゃれ合いを繰り返し、周りを呆れさせつつも和やかな気分にさせた。
 ふたりの喧嘩が今や戸田北名物と呼ばれていることを、やっぱり当の本人たちだけは知らないのである。




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