【時折覗かせる、暖かい優しさ(戸田北)】…2005.12.7



「今日、オレんち誰もいねェんだ」
 練習後のロッカールームで、同い年の連中相手に自慢気に話をしていたはずだった。
 うっそマジで。なんだよもっと早く言ってくれれば外泊許可取ったのに。ハイ、オレんちいきなりでもへーき。オレんとこも。酒買おうぜ。兄貴秘蔵のビデオあるぜ。うっしゃ、今日は無礼講。
 そんな会話を交わしていたはずなのにと、阿部隆也は今の自分の状況がイマイチ掴めない。
 今の自分。
 見たことのない家のリビングで、なめこと豆腐のみそ汁をすすり、ブリの照り焼きを「脂乗ってますね」と言いながら大根おろしと一緒に箸で摘み、炊きたてのコシヒカリと一緒に口の中に放り込んでいる。
 目の前には美人がひとりと暴君がひとり。
「なにシンキくせーカオしてんだよ。姉ちゃんの料理がマズイってか」
 そう。
 隆也がいるのは家族が留守で自由を満喫できるはずの自宅ではなく、シニアチームの後輩で先輩――年上の相手の方が後から入ってきたからだ――で捕手である自分と対になる投手・榛名元希の家だった。



 自転車置き場に行くと、怖いと評判のその人が仁王立ちでそこにいて、2年連中の腰が引ける。自然に隆也の後ろに隠れる。というか、隆也を元希の前に押し出す形となる。
「なんだよ、お前ら」
「だってモトキさんが話があるなんて、お前しかありえねーじゃん」
 小さな囁き声なんか、ちっとも気にしないようで、元希が口を開いた。
「早くしろよ。さみーだろ」
「は?」
「乗せてけっつってんの」
「はあ?」
 突然の命令に隆也の眉が中央に寄る。なにを言っているんだ、こいつは。
「ナニ言ってんスか。わりーですけど、今日オレたち、寄るトコありますし、」
 隆也の言葉の途中で、後ろから「ひっ」という息が漏れた。ひってなんだと思っていると、ドン、と強く背中を押された。押した奴が叫ぶ。
「ないです、寄るトコなんて! オレら、先、帰りますんで。お疲れっした!」
 供物の如く元希の前に献上させられた隆也がムッとして振り返ると、結構本気で怯える目が有って、それを見たら何にも言えなくなる。
 だって想像できる。自分の思い通りに事を進めようとしてキツイ眼差しでコイツらを睨んだのであろう、元希の姿――自分はもう慣れたけど。
 イケナイ夜の時間が隆也から遠ざかっていくのがわかった。チームメイトたちはバタバタと足早に立ち去っていく。
 そんな事態を招いてくださった当の本人は、1台残った自転車――隆也のものだ――の横にスタンバイしながら、立ち尽くす隆也に「おっせーよ」と罵声を浴びせた。



 そして強制的に連れてこられたのが元希の家というわけだ。
 美味しいご飯のあとは、これまた美味しいメロンとプリンが出てきた。テレビを見ながら他愛無い会話を続けていると、胃が落ち着いてきた頃に石鹸の香りがするタオルとパジャマを元希の姉より手渡されて、沸かしたての風呂を勧められた。そして今現在、エアコンが充分にあたためてくれた元希の部屋には見るからにふかふかの布団が敷かれている。部屋の主人は「上がってくるまで待ってろ」と言い残して、隆也と入れ違いに浴室に入っていった。
「待ってろっつってもなァ」
 初めて来た家で、しかもさほど親しくない人の家で、それほどくつろぐことはできない。
 自分用である布団の上に座ることも、ましてや元希のベッドに座ることもできず、隆也は部屋の隅の絨毯が見えるところになんとか入り込んで収まる。
 初めは正座していたが、そんなかしこまった自分に気づき、慌てて足を崩した。
「なにやってんだろ、オレ」
 とりあえず体育座りに切り替えると辺りを見回す。
 統一性があるんだかないんだかわからない――きっと別段気にしていないに違いない――物でごった返す部屋。いろいろ無理に押し込んだ跡が伺えるのは、きっと隆也が風呂を貰っている時間に、強引に見た目だけでも整えるよう、片付けたからだろう。
「……ロッカーん中とたいして変わんねェな」
 あまり見ることのない、元希の素の部分。
 それが今、自分の目に映っていることを不思議に思う。
 変なの。
 そういえば、この家に来てから、言い合いをしていない。
 自分達の会話を楽しそうに聞きながら時折質問してくる元希の姉に答え、その答えから会話はどんどん発展した。
 元希の母親が帰宅してからは賑やかさが一層増して、隆也は元希のことをたくさん聞かれた。途中からは、もういーだろこまけーんだよかーちゃんもねーちゃんも、と元希が顔を背けてしまうほどだった。そのコドモっぽさにこんな一面もあるのかとひどく驚いた。
「オレ様でわがままで自分勝手で、」
 そして。
「スゲーとこしか、知らなかったもんな」
 本当に自分と1歳しか変わらないのかと疑いたくなるほどの強さしか知らない。
 その球の凄さも、野球への徹底すぎる姿勢も。
「案外、フツーの人なんだ」
 当然のことだけど、当然だと考えもしなかった。見たままのあの人しか、自分の中になかった。
「案外、フツーに話せるんだ」
 家族との会話に入れてもらいながら。テレビに「ありえねェ」とか「おもしれー」とか感想を洩らしながら。ちゃんと、笑い合いながら。
 さっきの時間を思い出して、心に思う。
 きっと、やっていける。自分達の相性は、そんなに悪くない。
 その時、階下で乱暴に扉が開く音がして、同時に叫ぶ声が聞こえた。
「上がったぜー」
 それには、元希の母と姉の2人から同時に「はーい」と返っていた。すぐに階段を登る足音が聞こえ、部屋の扉が開く。
 途端、目を丸くした元希と目が合った。
 次の瞬間、元希はその場にうずくまる。
「え、何、どーしたんスか、元希さん!?」
 のぼせて貧血でも起こしたのかと咄嗟に駆け寄ると、その体は小刻みに震えていて、隆也は更に焦る。
「元希さん!? あ、とりあえず横になってくださいよ、楽になりますから……!」
 自分より大きな体を抱えて、懸命に絨毯に敷かれた布団の上に引き倒す。元希は体をくの字にして腹を抑えている。隆也は、倒したその体を改めて覗き込んで、そして絶句した。
 口を開けたまま30秒は経ったのではないだろうか。ようやく言葉を音にする。
「なんなんすか」
 元希は未だ、笑い続けていた。



 そのうち激しく咽てしまった相手の背中を忌々しく思いながらも、隆也は擦ってやる。
 ――なんなんだこの人は。
 理解不能。さっぱりわからない。
 ようやく落ち着いた元希は、ぜえはあ言いながら「お前、ヘンなヤツだなァ」と目尻に涙を浮かべながら隆也に向かって言った。
「は?」
「だってなんで隅っこで縮こまってんだよ。どこにでも広がってればいいじゃんか。なんのためにお前用のフトンがあるんだっつーの」
 借りてきた猫ってこーゆーことゆーんだなって、スゲーわかった。
 尚も笑いながら喋る元希にカァッとなる。
 ソレか。そりゃあ、確かに自分でもどうしていいかわからなかったけど。
「しょ、しょーがないでしょ! くつろぐ前にあんたが風呂に行っちまったもんだから、オレだって居場所に困ったんスよ!」
「オレのせいなのかよ」
「そうです!」
 強く言い切ると、元希の目はまた見開かれ、そしてまた盛大に笑い転げた。
「やっぱヘン! お前、ヘン! オモシレェ!」
 笑いながら隆也の首の後ろを掴むと、強引に布団の上に沈める。
「うわっ」
 元希は自分の隣にうつ伏せになった隆也の髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。
「よーしよし。もうキンチョーしなくていーんだぞー」
「っめてください!」
 子供にされるみたいなその仕草に少しだけ腹が立って、隆也は元希から逃れようと暴れるが、しっかりと押さえ込まれているせいで振り解けない。
 しばらく頑張ったが、やがて、身長差と体重差のせいにして諦める。
 動かなくなった隆也に満足したのか、元希もそのまま静止した。
 シンとした部屋の中で、どこかにある時計の音と階下からかすかに聞こえるテレビの音だけが響く。
 そのうち、元希の瞼がだんだん閉じ始める。
 隆也は肩を揺らして問い掛けた。
「あの」
「んー?」
「元希さんの寝どこはあっちだと思うんですけど」
「あー……」
 隆也がベッドを指差すと、その方向をちらりと見た元希が「どっちでもいい」と言う。
「つーか、コッチのがいいな。オレのフトンよりフカフカでキモチイイ」
「別に、オレもどっちでもいいスけど」
「んじゃお前、アッチ行け」
「じゃあいい加減、離してくれませんか」
 自分の体に半分覆い被さっている物体に要求を出す。
「このまま一晩なんてヤですよ、オレ」
「……抱き枕みてーで丁度イイのになァ」
「生憎、オレは、人間ですから!」
 心底残念そうに呟く元希に隆也は小声で怒鳴る。少し腕が緩んだところから横に抜けて起き上がった。
 少しだけ心臓の動悸が速い。元希とこんなに近づいたことはない。湯上りの体温が気持ち良くて、あのまま居たら先に寝てしまっていたのは自分の方だろう。ちょっと、そんなことは、ありえない。
 落ち着かせるために、長く息を吐いた。呼吸を整える。
「もう寝るんスか」
「ん。もー眠い」
「電気は」
「お前は? 豆球つけとくか?」
「オレは全消し派ですけど」
 答えながら、かなり驚く。へェ。訊いてくれるんだ、こんな細かいこと。
 オレも、と言われたので、ベッドまでの距離を目算してから天井の電気を消した。暗闇の中、元希の足を踏まないように歩いてベッドに辿り着く。布団を探って入り口をみつけると間に入り込む。元希ももそもそと動いていたので、ちゃんと布団の中に入ったのだろう。安心して目を瞑る。布団からも枕からも他人の――元希の――匂いがして、なんだか落ち着かなかった。
 だが、練習で疲れた体はすぐさまふたりを眠りの渦に引き込んだ。



 雀のさえずりと人の気配で目を覚ます。
 目の前にはウィンドブレーカーを羽織る元希がいる。隆也は現状を把握できなくて一瞬呆ける。が、すぐに昨夜のことを思い出して跳ね起きる。そうだ、ここは元希の家だ。
「ワリ。起こしたか」
「いえ。ジョギングですか」
「おう。習慣なんだ。ちょっと行ってくる」
「あ」
「ん?」
「オレも行きます!」
 勢い込んでそう言うと、元希はヒヒと笑って「待っててやるからとっとと着替えろ」と言った。
 隆也は着て来たジャージに着替えて上着を羽織る。学生服じゃなくて良かったと思いながら、着替え完了と同時に大きく伸びをした。



 庭先での軽い準備体操の最中に隆也は聞いてみる。昨日からずっと訊ねてみたかったことだ。
「元希さん」
「ああ?」
「なんでオレを呼んだんですか?」
 自分だけで考えていたって仕方がない。
 直球な問いには小さな返答。
「ヒトリだってきーたから。メシ食うのも味気ねえじゃん」
 タノシカッタだろ、オレんち。
 そう言う元希は屈伸運動のために顔を伏せているのでどんな表情をしているのかわからない。だけど、頬や耳がほんのりと赤くなっていることに隆也は気づく。
 ――照れてるよ、この人。
 そう思ったらこっちまで恥ずかしくなってくる。照れ隠しのために隆也は言葉を繋ぐ。なんでもいいと思ったそれは、実は相手の耳に入れなくてもいいことで、だけど自分には意外な結果を知ることができた話題だった。
「ありがたいっスけど、オレら2年で、宴会の予定だったんですけどね」
「え?」
 バッと顔を上げた元希の顔に、隆也は今までの人生の中で1番、慌てた。
 どうしようという言葉が頭をぐるぐる駆け回る。
 だって、あんなに堂々とロッカールームで喋っていたのに。
 帰りだって、みんなとつるんでいたのに。
 ―― 一切、知らなかったんだ。
 元希の顔には、動揺があったのだ。その後、ものすごい後悔の表情まで浮かぶ。
 浮かんだそれが言葉になることはなかったけど。
 気まずい雰囲気のまま、ふたりは走り出した。
 まだ早い朝の空気はきれいで新鮮だ。肺に深く送り込みながら、隆也はペースを上げた。前を走る元希に合わせて。隣に並ぶ。折り返し地点でそっと呟く。
 ――スゲー楽しかったですよ。ありがとうございます。
 隆也を見下ろしたその人は、帰り道も変わらない速度で走る。
 その身長と足の長さを生かした大きめのストライドで。
 途中、白い息に混ざる「悪かったな」の声を、隆也はちゃんと、聞いたのだ。
 笑い出したくて困った。
 必死に顔を引き締める。
 オレ様でも気難しくても、案外、フツーの人だ。
 そして意外と気を遣ってくれる。
 多分、それなりに隆也のことを認めてくれている。
 組み始めて4ヶ月。
 きっとまだまだこれからで。

 隆也には少しきつい速度だが、最後まで元希の隣にいることをキープした。これ以上、遅れず走っていくために。




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