12月1日

東京藝術大学定期演奏会 第38回学生オーケストラ演奏会 指揮小林研一郎

12月7日

第35回記念公演 能「砧」梅若万三郎 狂言「墨塗」野村万蔵

12月8日

 生涯学習講座「相談室から見た学校ー不適応についてー」全5回の最終日。
 この頃精神的に少々負担がかかっている。かなり以前からどうしてもこの最終日だけは受講したくないと内側で拒否しているのを、無理矢理押さえ込み出席する。途中で気分が悪くなり、退出せざるを得なくなった。身体が硬直し、震えが止まらない。
 渡された用紙、今回の課題内容に、言葉を失う。書けない。
 現在の自分をみつめることはできない。
 自分がいかに自分自身の心に蓋をし、声に耳をふさぎ、何も感じていないフリ平気なフリをし、日々を過ごしているのかがわかる。
 何も創作できない、書けなくなった理由をみたような気がした。心を閉じ、平静を保つことだけで、ほんとうに精一杯なのだ。だから、書けない。
 すべてを吐き出し、誰かに、自分自身でも、すべてを受け入れ肯定してもらわなければきっとどうしようもないのだろう。──この考えは仮説にすぎないが。
 昨年、父が私に云った言葉を思い出す。
 これだけは約束してくれ、俺より先に死ぬな──と。
 その当時の私は、かなり危うい状態だったのだろう。
 それからくらべれば自身の状態を自身で把握できるのは、マシなのだろう。けれど、辛い。辛い。辛い。辛い。死ねないなら、いっそ心が壊れてしまえばいい。

12月11日

 本番にむけ、小林研一郎先生との練習日。
 12月に入ってからというもの、心も体も歌うことを拒絶している。そして強くなる一方。けれど、ゲネプロをのぞき、先生との練習は今回のみなので、出席。音が上がらない。体は固まったまま。声が退いているのがわかる。歌うのが怖い。

12月17日

 精神的にズタズタだったここしばらくの日々から、ようやく脱出の兆し。白御飯をうけつけなくなって久しいが、食べられていたパンもうけつけなくなり、主食がスナック菓子になり、次に副食をうけつけなくなった。数日食事がオールスナック菓子になったときには、さすがに退いた。現状、主食スナック菓子+副食。まあ、いいだろう。
 食欲を失い、体重がズルズル落ちた時もあった。もう長い間食事を始めると歯止めがききにくい状況。日々コントロール。摂食障害気味。つきあっていくしかないのだろう。
 シャワー音のなか、声をあげて泣く。そんな状態の時は精神的にギリギリだったりする。誰かにTELしなければ危ないと、自分で自分のシグナルがわかる。けれど浮かぶ知人達のスケジュールをまず考えてしまう。縋られても迷惑であろうしどうしようもないだろう、余裕もないだろうと考える。かなり、自分の内で、ギリギリの攻防が続く。ここのところそんな日々だった。
 ほんの少し誰かの声に触れることで踏み止まれるのなら、それにこしたことはないのだろう。人生は、一度手放したら、ゲームのように続けられるものではない。
 TELできない。不器用な人間だと思う。そして臆病。
 踏み止まれるか否かは、ほんの僅かの匙加減次第だ。心の内。エヴァンゲリオンのマギシステムではないが、攻防のなかで誰の主張が勝るか、それ次第だ。
 年内に趣味ものでよいから書ければと思っていたが、無理なようだ。けれど気持ちはあるよう。昨日からぼんやりと、光景がみえる。それを捕らえようとする気力はないが。落ちついた気持ちで過ごせるよう、今は考えよう。目標、脱スナック菓子。

12月22日

サントリーホールにて本番。疲れた。

12月24日

 22日から3日間連続、甘いもの止まらず。
 踏切で、警報機が鳴り、遮断機が下りる。ふらりとすいこまれそうになる。
 疲れているのだと思う。
 夜、活字に逃げる。

12月25日

 まるで映写機のスライドをみせられているようだ。ランダムに光景が浮かぶ。ここ数日間時々ある。闇のなか、ある特有の臭い。うごめく手、手、手。獣のような声、怒声、悲鳴。熱気。浮かぶ白い肌。縋るような瞳。それをみつめる冷えた笑み。閉じられる世界。赤子を抱いた誇らしげな夫婦。高校生ふたり。タイトル。
 それらが頭のなかで明滅をくりかえすが、捕らえられない。内容はわかっているのに。 浮かんでも自分のものにできない。…追う気力もない。
 だが、脳内キャビネットにおさまろうとしない。じっとりとした湿り気のある空気があたりに流れつつみこんでいく。因習と信仰が息づいている土地特有のにおい、空気だ。たくさんの潜む眼、息遣い。神経を研ぎ澄まさなければ気付かない、とても密やかなものだ。嗚呼、捕らえられたらいいのに。あせりと無気力の同居。

12月26日

 だいぶよくはなったが、電車内や人ごみで、時々生理的というか本能的というか嫌悪感恐怖心を感じてしまう人間に遭遇してしまう。必死でせりあがってくる感情を押さえこむしかない。これも昨年からだ。後遺症なのだろう。
 来年の目標、というより希望。
 そういう感覚がなくなるように。
 摂食障害気味、よくなるように。
 仕事に復帰できるように。書ける自分でありたい。
 …よくばりだな。だが、すべて切実な問題だ。
 大丈夫、私は平気、こんなことはなんでもない。日々のなか、いくどくりかえし呟き自身に云いきかせてきただろう。
 心の痛みに足掻き、こんなことはなんでもないと裂かれる痛みに耐え心を殺していくのではなく、いつかは乗り越えたい。いまはまだ身を竦め、ちぢこまり、胎児のように丸まっている私だが、いつかはきっと走りだせるだろう。来年はたった一歩でも前へ踏みだせるように。
 書けるようになって、ランナーズハイ状態のまま人生駈けぬけられたら最高だろうに。

 さあ、なにを書こうか。
 気持ちを落ちつかせる為、整理する為、吐きだす為、けっきょく私は紙の上に戻ってくる。
 12月は不安定な気持ちで終わった。もうじき今年が過ぎてしまうのだから、少し吐きだせるのなら書こう。
 10代の頃、私は”ひと”が怖かった。毎日朝目覚めては自分が生きていることに落胆絶望し、これからまた長い一日が始まることに恐怖した。反面、生きていることにホッともしていた。自分はもうおかしくなっているのではないか、壊れているのではないかと怯え、恐怖し、自問する毎日でもあった。毎日が、バラバラの肉片になった心を針と糸で必死で縫い合わせる。縫い合わせた先から糸が切れ、一日でまたバラバラになり、また縫う作業のくりかえしだった。
 針と糸から、セロテープを手に入れ、ガムテープを手に入れ、やがて接着剤を手に入れた。上京し、学生時代を自己修復にすべて使った。
 自己修復できる者を”強い”ととらえるかもしれない。けれど私にとってそれは等価交換で得たものだ。私は脆弱だ。脆い私には等価交換する以外、自己修復はできなかった。
 接着剤を得たかわりに、心が一部壊死した。”ひと”を怖いと感じることもなくなった。
 いま、私は、10代の頃と同じ作業をしている。
 昨年は、バラバラの肉片になってしまった心をかきあつめ、なくさないように覆い被さり震えているしかなかった。外を歩くたび、空から垂れ下がる首吊りの縄が目の前にみえる感覚があった。この丸い輪のなかに頭をくぐらせてしまえば楽になれる、何度もそう思った。
 今年、私は肉片を縫い合わせている。パズルのピースのように合わせることはできないが、粗い縫い目でズッポズッポとつなごうと必死だ。糸はとても脆くて、ほんのささいなできごとで情け容赦なくブツブツと音をたてて切れてしまう。私はそのたびに針をつきたて、糸で繋いでいく。終わりのない作業だ。普段は思いもしないのに、ふいにこれがひどく痛みをともなう作業であることに気付かされると、痛くてたまらない。いつまで続くのか。
 視界に縄を感じなくなっただけ、昨年より今年はきっと前進しているのだろう。来年はもう一歩きっと進めるはずだ。がんばれ、がんばれ、がんばれ。
 大丈夫だ、私は平気、こんなことはなんでもない。平気だ、なんでもない。
 どれだけの時間のあと、私は再び接着剤というアイテムを手に入れることがあるのか。けれどその時、私は何を代償にするのだろう。代償ではなく、越えられないのか?
 私に”ひと”を”憎む”という感情を教え、”ひと”を恐ろしいと思う感情をよみがえらせてしまった…そのダメージは大きく、やりきれない。表現のしようがない。
 からからにひからびた大地にいるようだ。一ミリの草の影ひとつみえない。果てのない大地。あおげば空はあるのに、どこか気持ち半分空とは思えない。ひどく薄汚れた色をしている。乾いた風だけが地理を舞い上げ渡っていく。
 誰もいない。ひとりだ。
 時々、人肌恋しくなる。おしつぶされそう、あるいは裂けてしまいそうになって、誰かにすがりたくなる。ただひたすら甘やかしてくれる腕が欲しくなる。おかしな話だ。甘やかしてくれる腕、吐露する言葉ごと受けとめてくれる腕など、これまで経験がないのに。そんなものは現実ありはしない。それは物語の世界だけのことだ。
 気持ちのコントロールが必要。

 またひとつの画像をみせられる。スローモーションで、ひとりの男の笑み。ゆるいくせ毛。20代の男だ。白いシャツ。からっぽの笑みがスローモーションで流れていく。タイトル。
 カメラにおさめたように一枚の写真となって、脳内キャビネットに収まる。けれど何故だか引出しを閉めるのが惜しくて、しばらく眺めた。
 無からつくりだす、みえるものを捕らえる、それらの作業は残念ながら私にはまだ自殺行為の気がする。あせって自分を追いつめないよう、こちらもコントロールが必要だ。

 ひからびた大地に、小さな緑の苗を植えてやりたい。

12月27日

 ごくたまに夢をみる。辛い夢ばかりだが。
 目覚めると同時に、夢はぐずぐずと形を崩し、どんな夢だったのかときかれてもひどくおぼろげで応えようがない。けれど味わった思いは鮮明に感覚として残り、一日中私を揺さぶり続ける。
 …ひさしぶりに夢をみた。平静ではいられない人物。
 現実だけでなく、夢のなかでも私を揺さぶり続ける。
 出会ったことに後悔はないが、痛みは生々しくつきまとう。その歴がひとつの臓器ならば、ざくざくといくつも刃をつきたてられたまま放置されているような感覚だ。膿と血が入り混じり今でも滴っている感じ。
 ここ数日目が覚めると、軽い頭痛と耳鳴り。不快。
 いずれ自分で刃を抜き縫合していかなければならないのだろう。
 ひきずられたくない。一歩でも前へ。でもあせらずに。あせりで自分を追いつめつぶれないように。ノロガメでかまわない。立ち止まり、休んで、眠って、いつのまにかうしろに戻ってしまっていても、一歩でも前へ。
 そう思っていなければ、恐ろしいのだ。暗い淵に捕らわれ、のみこまれてしまいそうで。自分が駄目になりそうで。

12月28日

 合唱団、今年最後の練習日。
 気持ちと頭と身体のバランスがとてもいい。それぞれのモチベーション、連携、とてもよかった。具合の良い楽器。ベストコンディションではないが、いつもこういう状態で歌えたらと思う。

12月29日

 空を仰ぎ見る。美しい空だ。とても美しい空。淡い雲がきれいに溶けこみ、やわらかな青い色をみせている。白い月がとても美しい。真昼の空。
 今日、この空を仰ぎ見るひとはどれだけいるだろう。知らせて、みせてあげたい。けれど忙しい人ばかりなので、心のなかで思っただけで終わった。

12月31日

 冬コミ、あいさつまわり。