11月のこと

 知人から再度様子うかがいのTEL留守録に有り。帰宅後きくも、恐怖からコールバックできずに終わる。

 上旬。
 10月の一件以来、頭のなか、口にしたいのはお菓子お菓子お菓子。お菓子ばかり。食事の買い物に行くと、足はお菓子売り場にむかう。手にとり、カロリーをチェックし、カゴの中に入れる。カゴの中はいっぱいになる。頭のなかはカゴ一杯になった菓子をガンガンつめこむ気持ちでいっぱい。だが、レジにむかうことができない。心は、それを口にする食べることへの恐怖、食べ終えたあとのみにくい姿になっていく自分への恐怖でいっぱいだ。頭と心との葛藤をくりかえし、カゴに入れた商品をひとつひとつ棚に戻していく。買い物に行くたび、この行為がくりかえされる。
 お菓子に走らなくとも、食事内容荒れてくる。とまっていた煮豆ひとパック等が入ってくる。きんつばもとまらず。食事量、頭が納得するまでとまらず。内臓くたくた。限界。悲鳴をあげているのがわかるがどうしようもない。薬を常用。

 中旬から。
 内臓が本当に限界を訴えたのだと思う。
 突然口にできる食品がこれまで以上に限定される。ヨーグルト、はちみつ、ココア、これで数日過ごす。他をうけつけず。
 外出できなくなる。
 仕事に行くことはできるが、家に入ったとたん、外にでられず。買い物にもでられず。休日は一歩も外へでないまま終わる。ゴミ捨てにでるのも困難。必死の行為。
 外にでる気持ちはある。頭のなかで外出する用意や、玄関まで行く、鍵をあける等シミュレートもできる。頭のなか、行く気持ちと、体に反応して外出意欲がしぼみなえる気持ちが同時にあり。
 よって、仕事帰りに最低限の用事や買い物を済ませ、あとは閉じこもる生活となる。
 睡眠時間のびた。だが、疲労感あり。仕事のない日などは、たとえ目が覚めても起きられず、昼近くまで休む。
 食事内容、かなり限定されてから、体的には良くないのだろうと思いつつ、精神的にはとても楽になる。腹が膨らむまでつめこむのは同じなのだが、水分のほうが多いためか、”食べないことはとても楽”と思える。
 時折、ペースト状のレトルト野菜スープや栄養補助食品を口にできるときがあると、鏡に映った自分が太った気がする。
 食べられなくなればいいのに。
 なんとかバランスをとろうとしている自分の体。

11月25日
 カウンセリングの後、ひさしぶりに合唱練習へ。帰り、過呼吸をおこしそうになり、おちつくまで交番で休ませてもらう。

10月の件から、頭にずっと、某の顔が張りついている感じ。その顔は、事柄時のとある表情、面会の時の表情。消し去りたいのに、こびりつてはなれない。

下旬
 チャンネルを変えると、たまたま昔某と共に観た映画が放映されていた。残り30分程。ぼうっと観ていると、その当時の気持ちがこみあげてくる。
 某に対し、何故なのか情がどうしても私のなかにある。それは夫婦としての愛情や異性への愛情ではなく、長い時間を過ごしてきた者に対する情なのだと思う。では仮に、もういちど某と共に暮らせるのかと自身に問えば、それはまったくありえないことだとも感じる。私のなかに、某に対し、どうしても生理的にうけつけないものがあるからだ。某とははっきりと決別している。ただ、情と生理的嫌悪感拒否感、このふたつが私のなかに同居しているというだけのこと。それだけのことでもあり、大変難しい問題でもある。
 疲れた。誰かに全部吐きだせたら。泣き喚けたら。甘えられたら。うけとめてくれるひとがいたなら。深い眠りがほしい。
 私はからっぽだ。からっぽな人間。同時に、混沌としたモノでうめつくされている。からっぽにして眠りたい。
 10月中旬、上司からこれからどうするのかときかれ、体が強ばり血の気が引く。どうしましょうとこたえるのが精一杯だった。今こうしている毎日でいっぱいいっぱい。どうにかしなければいけない、怠け者になったのではないか、でもいま本当にいっぱいいっぱいなのだ、パニックにおちいりそう。どうすればいいのか自分でもわからない。不安。生活とても不安。どうやって食べていけばよいのか。生活していけばいいのか。まっくらだ。どうにかしなければならないのに、わからない。メドなし。わからない。