12月1日
 仕事帰り、ひさしぶりに能を観に行く。
  狂言「跋扈」
  能 「二人静」
 狂言、おもしろかった。
 能、ずっと観たいと思っていた演目。
 囃子、音好み。大鼓と小鼓の打、初めのうち微妙にズレを感じたが、お互いにききあいあってきた感。
 ツレ、気のせいだろうか。右足、膝なのか、負傷し庇っている感、それともクセ?上体もそれにあわせて揺れているように感じた。
 じゅうぶんひきつけられた二人静の舞。がんばって来た甲斐あり。
 帰り。電車内で漫画雑誌を読んでいるひとがいた。紙面が目に入り、車を走らせているシーンに、”効果線(スピード線)止まってる。もったいない”と瞬時に思った。そして、その事に、ああ私のアンテナはまだ生きているんだと思った。
 アンテナが生きている。まだ生きている。

12月4日
 眠る前ふと思う。このまま眠ってしまいたい。にどと目が覚めなければいいのに。

12月5日
 にどと目が覚めなければいいのに。

12月上旬のこと
 口にできる食品が減り、大半の食事が、ヨーグルト、はちみつ、ココアくらい。時々レトルトのペースと野菜スープや栄養補助食品が口にできる日々。
 食べられないことは、精神的には楽。といっても腹部がパンパンにふくらむまでつめこむのは変わらない。
 野菜スープが食べられると、体がバランスをとろうとしていること及び精神的に少々持ち直してきているのかとホッとする気持ちと、これが全部肉になる恐ろしさとの感情の同居に悩まされる。鏡に映った自分が太った様に感じる。

 合唱団で、いつ元気になるんだときかれ、仕事のときは元気、スイッチ入れているからとこたえる。人前にでる時がんばっているつもり。なのに元気だとこたえられない。元気であることを要求されているようで、それがなければ迷惑になるから来るなと暗に云われているような気持ちになってくる。ダメ?元気でないのはダメ?皆への申し訳なさ、うしろめたさ。プレッシャー。合唱団に行くこと。さらに重く感じられる。歌いに行くこと、できなくなるかもしれない。

12月12日
 仕事先の忘年会。
 帰り、今日は良く食べられていたねと云われ、血の気が引く心地あじわう。人との会食はストレス。帰り道、頭のなかは、食べたい食べたい食べたい。コンビニに入りカゴにアイスを5個入れる。かろうじて5個におさえた。帰宅後、アイスとココア。なんとかアイスを一個におさえ、あとは頭が納得するまでココアをガンガン飲み続ける。よくこれでおさまったと自分でほめてやりたいほどすごいことだ。食べてはしまったが。夕食後に夜食なんてありえないが、どうしても他との食事の後には反動がくる。難しい。
 夜、NHK総合にて。いつか使うかもしれない、そう思いながら無理矢理鉛筆を走らせる自分あり。メモれる状態でない自覚あり。メモできるかできないかの攻防の状態でのメモ。再度、アンテナがたっている自分を自覚する。ボロくてへろへろでしおれていて、たいしたアンテナではないが。それでもなんとかあるのだ。
 ここ数日間、書きたいと思うものあり。頭のなかをもやもやしている。まとめ、形にできるのだろうか。ただし、できるとしたらその覚悟がいる。心がバラバラになるかもしれない。
 それでも、心のなかで、もう書く気持ちであることも暗に自覚している自分あり。
 書けずにプロットでとまっている少年の話を書くために必要な、過程のように思える。
 私は計算では書けない。
 もやもやしたものが形となり、やがて世界となって映像になる。世界に入れた瞬間に書く。
 余談だが、いま、ゲームはリアルに体感する方向にどんどん進化しているが、ある意味私はゲーム機なしで、自身の創作過程でこれを体感しているのかもしれない。TVをみていてふとそう思った。
 アレ、は体感した者でないとわからない。
 TV画面、漫画、映画、それらをみているのとはワケがちがう。仮想の超リアル、現実のよう。そのもの。五感すべてフル回転する。心も感情もすべて入り込む。現実との境界が、光景、特に心と感情がひどくあいまいになってくる。創作過程でのあの体感は、体験したら忘れられない、一種の麻薬のようなものだ。
 近い未来、仮にゲームでアレの状態になるのだとしたら…そのおもしろさはすさまじいだろうが、その反動リスクも忘れてはならないと思う。アナログな者の危惧。TVの感想。