佐野自然塾

無縁社会への対策?

20110119日付

 

政府「無縁社会」対策に本腰

 この記事によると、政府のプロジェクトチームは半年位で対策なり方針を出すという。それならばどんなものが出てくるのは大変に興味がある。なぜならば私は正直なところ有効策があるのか疑問だからである。
 ここへ来て俄に無縁社会"なることばが流通を始めた。もちろんそれはNHKテレビが特集を組んで放映したからだ。しかしこうした事態はすでにみとりのない孤独死というかたちで取り上げられてきていた。居住者の高齢化が進む公営団地などでは、組合を作って夜回りをしたり、声掛け運動をしている。それで孤独死の発見に務めているのだ。そうでもしないと、身寄りがない年老いた単身生活者は、死んでも誰も気付いてくれないからだ。さらに象徴的な事例がある。それは阪神淡路大震災で被災者のために設営された公営復興住宅である。そこには何万人もの人々が移り住んだが、相当数の独居老人がおり、百人単位で孤独死を迎えている。このように私たちは不断に知らされていたことだったが、無縁社会論はそれを個別事象ではなく、この社会の有り様としてトータルに捉えた。それが人々に大きな衝撃を与えたのだ。
 つまり孤独死を必然化させる社会に私たちはいるということだ。個別対策を立ててみたところで、それはモグラ叩きのように次なる憂うる現象が出現してくる。だから何もするなと言いうのではない。そうではなく、例えば孤独死をいたずらに嘆くことは止めよ、ということだ。無縁社会にいることは喩えればクルマ社会にいると考えたらどうだろう。人々が核家族化して高齢化した社会になれば単身老人は自動的に多出する。そうした単身生活に適合した社会作りがコンビニ文化とかITによるネットワーク文化といったかたちで進行している。無縁社会をマイナスで捉えてみても、それはクルマ社会を負の側面から挙げつらうのと同じだ。それ自体は止められない体制だから、その中でいかに生き抜くか。そう考えてこれからの日本人を教育訓練すべきと思う。
 家族親類のしがらみに呻吟してきた時代から見れば、誰に気兼ねなき単身生活は極楽だから、それ相応の孤独による課題は抱える。それを社会のせいにしたところで始まらない。