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平成22年(ネオ)第448号 損害賠償請求控訴事件


(原審 大阪地方裁判所平成22年(ワ)第6195号

(控訴審 大阪高等裁判所平成22年(ネ)第2298号


上告理由書


 最高裁判所 御中        

平成23年1月12日


被上告人 国

上告人  o峯弘


頭書事件につき、上告人は下記のとおり上告の理由書を提出する。


控訴審判決(平成22年11月18日日判決言渡 大阪高等裁判所第3民事部

平成22年(ネ)第2298号 損害賠償等請求控訴事件、以下原判決という

) は、憲法解釈違反、法令の解釈適用を誤り、判断遺脱、理由齟齬の

違法があり、かつ法令の解釈に関する重要な事項を含むので、原判決を破棄し、さ

らに、相当なる裁判を求める。


目  次

第1 はじめに

 1 事案の要旨

国会議員を選挙する権利は、国民固有の権利として成年である国民のすべてに保

証 される(15条1項、3項)。代議政治は、国民より選ばれた代表者をもつて構成され

る議会を手段とする制度であり、全ての国民は、議会における政治上の手続に充分

かつ効果的に参加する奪われることのない権利をもつている。但し国民は選挙を通

じてのみこの参加を実現することができるにすぎない。


この訴訟は、政治に関心の深い原告が、保革双方の公約を比較採点の結果、同得

点 であった、そのために一票に絞る事ができない結果「白紙投票」をせざるを得ず、

事実上は選挙権が行使できない、即ち「充分かつ効果的に参加できない」、即ち、 主

権が侵されたという無念さに関わる


そこで「白紙投票せざるを得ない制度は基本的人権の侵害」を訴えて国の判断を求

めたが、地裁、高裁とも「抽象論だ」と一蹴された。


原告が政治テーマのそれぞれについて是、非の意思を持つ事はまさに幸福の追求

で あり、思想の自由であり、基本的人権である。


「抽象論だ」との判決は原告の右の諸権利を認めないと同じであり、明らかに憲法
第11条、第13条、第19条に違反するものである。


さらに、「不条理を補完する為に一般的国民投票法や参政員制度を」との訴えにつ

いては、「それは国会の裁量」と判決された。



選挙制度のあり方、殊に選挙区割、議員総定数及びその配分などは立法政策の分

野 に属し、原則として国会の自由裁量に委ねられるべきものであることは当然である

が、その裁量権の行使が著しく合理性を欠いたり、制度による現実が憲法の要請に

反するような事態に立ち至つた場合は、司法による判断を免れないとすることが、三

権分立の趣旨に沿うものであると考える。


八割近くもの国民が「もはや政治からは何も期待しない」と考え、肝心の議会の成

果は原審で詳述したように「殆どの指標が先進国の最後尾に陥落」しかも最近はネ

ジレでいわば「エンジントラブル」で立法が遅滞する現実、これはまさに「制度に よる

成果が憲法の要請に反するような事態」であり、まさに司法による制度改革な どの

判断教唆が要請されることは三権分立の基本構想からして当然である。


地裁、高裁がこの訴訟について、国会の裁量権に属する事項であるからとの理由を

挙げたことは司法としての責任を回避したと言わなければならない。


 2 原判決の概要


判決は「国賠法1条1項の適用上違法の評価を受けるのは、国民に保証されている

権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を執ることが必要不可欠であり、

それが明白であるにもかかわらず、国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠

るような極めて例外的な場合に限られるというべきである。(最高裁平成17 月14 日

大法廷判決・民集59巻2087頁)」とした。

この判決はまさに判断遺脱、理由齟齬の違法と言わなければならない。 即ち、

「国民に保証されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措置」とは「

権利行使イコール選挙制度」に固執した判断であって、原告のような不条理な体験

を補完するために、世界に存在している権利行使の制度即ち一般的国民投票制度



が 「必要不可欠であり、明白であり、長期にわたってその立法化を怠っている」こと

を理解しえていない。

今、権利行使の為の制度即ち参政制度には「選挙」そして「改憲国民投票」さらに

は形のみの請願制度や裁判官国民審査があるが、選挙の不条理を補完するために

世 界にあって、日本にない「一般的国民投票制度」更には「参政員制度」こそが「国

民に保証されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措置」と言わなけ

ればならない。


国が「憲法上国民の政治参加ルートは選挙ー投票のみ」にこだわった制度の下、原

告のような理由もあって半数近くの国民が政治に自己の意思を参加できず、さらに

「政治選択を選ばれた議員に自由委任」した。即ち「献金組織や官僚に抗えない数

百名の人々のみが60年間統治」した結果、破局寸前の債務、とんでもない二極化

ほか世界に恥かしい現状を招き、国民の多くが政治不信を来たすという極めて不当

な結果を生ずるに至った。

即ち「憲法上国民の政治参加は選挙ー投票のみ」を貫いたことがかえつて憲法の所

期するところに反することとなったのであり、このような場合には、献金組織や官 僚に

影響されることなく総合的な視野に立てる司法府が立法府に対して合理的な修 正や

提案を判決の形で教唆することこそは三権の一つである司法府の責任であるはず

である。

憲法98条1項は、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命

令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

」と規定している。
しかし(財)世界平和研究所(会長中曽根康弘)の主任研究員西垣氏は現状の構造的

不 条理を指摘し、憲法を改正して「拘束的な国民投票制度が必要」だとしている。

(尚原告は「一般的国民投票」は諮問的であっても可と考える)



裁判員制度の意義 


日本弁護士連合会のサイトの説明を転載すると以下である

「市民が刑事裁判に参加する制度は、市民の自由や権利が不当に奪われることを防

止するために、重要な役割を果たします。さまざまな経験や知識を持った市民が、 そ

の常識に照らして「疑問の余地はない」と確信してはじめて、有罪とする。その ような

仕組みが、市民のかけがえのない自由や権利を守るのです。市民の司法参加 は、

国民主権を実質化し、司法の国民的基盤を確立するためにも必要不可欠な制度

です。市民の・市民による・市民のための裁判が実現することによって、司法に対 す

る理解が深まり、信頼が高まることが期待されます。」この文章を政治に置き換えて

みると

「市民が政治テーマの是非に参加する制度は、市民の自由や権利が不当に奪われ

る ことを防止するために、重要な役割を果します。様々な経験や知識をもった市民が

その常識に照らして「疑問の余地はない」と確信してはじめて法とする。そのよう な仕

組みが市民のかけがえのない自由や権利を守るのです。市民の立法参加は、 国民

主権を実質化し、立法の国民的基盤を確立するためにも必要不可欠な制度です。

国民の国民による、国民のための政治が実現することによって、政治に対する理解

が深まり信頼が高まることが期待されます。」となる。


「議員には多くの有権者への責任がある」という。しかし議員は辞任か落選で一切 責

任から免れる。しかし政治の失敗は子々孫々国民が「尻拭い」しなければならな い。

ここに国民が政治参加しなければならない理由さらには権利が存在する。


 4 上告理由の要旨


参政権の一つである選挙権は、原告の訴えのような構造的欠陥が内在するものの、

国民の国政への参加の機会を保証する基本的権利の一つとして、議会制民主主義



の 根幹をなすものである。

しかし、およそ国民の基本的権利を侵害する国権行為に対しては、できるだけその

是正、救済の途が開かれるべきであるという憲法上の要請に照して考えるときは、

「選びようがない」という原告のような不条理が救済されるために、あと一つの参 政

権である「一般的国民投票」や折衷的な制度である「参政員制度」の途が開かれる

べきである。


政治制度は過半数の国民が容認し、満足感を得られるものであるべきである。しか

し現在の制度の下での国民の国政満足度は殆どの調査で「不満」が8割台、「満足

」は1割そこそことなっている。これは驚くべきことであり、憲法の企図するとこ ろから

大きくかけ離れている。即ち政治制度が偏っていることを示すものである。


議会、政治家はその責任を負うものであるが彼等自身が築いたものを彼等自身に

修 正できるだろうか。まさに鯛に対して「自ら刺身になれ」というようなものである。

国民の常識を参加させる裁判員制度の趣旨は政治にこそ適用されるべきであろう。

我が国は深い沼にはまり込んだ、既に手遅れとの論さえある。今を非常時と認識し

、司法府としての責務を自覚し、発奮した判決で立法府を大いに刺激し、日本を窮

状から脱出させる機会とすべきである


 2 審理に望むこと


選挙制度のあり方、殊に選挙区割、議員総定数及びその配分などの決定は、多分

に 政治性を伴う立法政策の分野に属し、原則として国会の自由裁量に委ねられるべ

き ものであることに異論がないが、政治制度全体として、憲法の要請に反する、世界

に立遅れた事態に立ち至つた現在、裁判所がこの種の問題について、高度に政治

性 のある国家行為であるからとか、立法府の自由裁量に属する事項であるからとか

の 理由により、たやすく司法判断適合性を欠くものと裁定することは、司法の責務の

認識不足であり、責任回避であり、国民の信頼を裏切るものである。

国民の政治への参加手段が選挙ー投票のみであるということによる構造的な欠陥の

一つがまさに原告の「白紙投票せざるを得ない」行動である。

代表民主主義のこうした基本的欠陥を補完するために世界各国には一般的国民投

票制度が存在している。

仙谷由人官房長官は一般的国民投票制度について「日本の主権者は必ず賢明な

選択 、判断をすると確信する。このことに疑念を抱くほど日本の民主主義の成熟度

は低 くはない。価値中立的な一般的国民投票法案をつくる、このことによって国民主

権 、民主主義が前進し、深化し、豊富化する」と発言し、しかも法制局も通過した一

般的国民投票法案も出番待ちである。しかし議会にはその後前進が見られない。


このような法制度のない今、適切な、引用すべき判例を見つける事ができない。し か

し戦後60年、国民の政治上信は限界に近づいている。即ち公約を見比べて「この 党

に一任しよう」と投票される人は3割にも満たない。半数近くの国民は義務感から 投

票する。この大きなテーマについて「国会の裁量」とする判決ではなく、御庁 大法廷

において審理議論され、「裁判員制度」のように「議員のみの政治ではなく 、政治決

定に、一般的国民投票や参政員制度で国民の常識を参加させる必要性あり 」の判

断を示すことによつて、真の政治改革を国会に教唆することこそが最高裁の責任

というものであろう。