大衆の能力


直接政治について必ず出てくる疑問です。

参政院制度の場合、ある議案の議決に、議員は3500万-4000万票の賛否を行使することになるでしょう。

一方直接参政国民票は1000-1500万が議決に電子的に参入してくると想定しています。

当然ですが参政院制度にはセクトの入る余地はありませんから、その賛否の内容は保革一定ではありませんし、3割程度の直接参政国民の意思のレベルがどうして重大問題とされるのかが理解できません。

まして直接参政国民が「議案の賛否の決定権を握る」という危惧はどうして起きるのでしょうか。

さて、議員の資質について、立候補する時に先見能力について検定されていたでしょうか。

しかも半数は二世三世タレント議員です。彼等に平均的な国民以上の能力があるという何らかの証拠があるでしょうか。

委員会で椅子を暖めるだけで、族議員のなすがまま、行政の作成してきた議案を決議させられているだけのセレモニー要員以上の能力が示されたでしょうか。

おまけに行政の提出してきた議案は行政の権益を擁護するだけであり、環境と福利の利益という見地からは、ことごとく失敗に帰してしまったのではないでしょうか。

今の発展は政治の能力などという主張がありますが、戦後半世紀、発展しなかった国があるでしょうか、しかも人々にわずかにある幸福感は政治から来たものではありません、多くの場合、技術の発達によるものなのです

あらゆる階層で、「行政の指導が右の場合は左を、指導が左の場合は右を選べば間違いない」ということもささやかれ、読売のアンケートでは 77%、総理府の統計でさえも過半数の人々は政治が不満であり将来の日本に不安を抱いているのです。

これまで官僚に先見能力があったためしがあったでしょうか。そして失政の責任を取ったことがあるでしょうか。

そうであるのに「直接参政国民の能力の疑問」や「失敗したら責任は」などというのは、日本を540兆のサラ金地獄にしておいて、尚国民には政治に口を挟ませない、これは国民をあまりにも差別したものではないでしょうか。

「寄らしむべし、知らしむべからず、民は愚かに保つべし」という凡そ民主主義に反する理念で現状を維持しようと思われるのでしょうか。国民に責任の一部を持たせない以上成長も期待できません。

もっとも体制から恩恵を受けておられる2 割の国民、さらには風光明媚な場所に住まわれる方は、体制の現状が維持されることが最善ですから、その意思も主権の一つとして当然主張は認めないわけではありませんが。


参政院制度に類似するリンカーンクラブの主張も以下に掲示しておきたいと思います



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   まず、民主主義そのものが本質的に持っている 重要な問題点です。民主主義の政治をどう考え、どう認識するかということにかかわ ってくる大問題です。原子力問題のように複雑な課題に対して、「何が正しいのか ?」と問われた場合、国民の側でも、国会の代表達でも、専門家でも、意見が分かれ るはずです。

 第一、明確な正解がないから政治問題になるのであって、圧倒的な 多数の人々に支持される問題や、科学的に真実と証明されたことがらに対しては国民 に賛否を問う必要がないはずです。すなわち政治課題になりえないのです。

この意味 で、民主主義の政治とは、そもそも正解を求めるものではなく「選択」を求めるもの なのだと考えるべきものなのです。

「どちらを選びますか」という問いに対して、国 民が答える。そして、その代わり、選択の結果から、導き出される福利を享受するだ けではなく、好ましくない状況にも甘んじるということなのではありませんか。

 

したがって、非常に大胆な言い方をすれば、国民に、いっさいの高度な判断能力がな くても、その結果に責任を負うのだということを認識していれば、代議制でも直接制 でも、民主主義は成り立つはずです。この場合、能力のない者が決定に参加したら、 第三者が迷惑をこうむるという心配がありますが、これは代議制でも同じことなので す。

第一、能力のないものが代表者を選べるはずがありません。(評論家の西部 邁氏は国民には個別の問題には対応できないけれども、代表者を選ぶ能力ぐらいはあ ると主張されておりますが、これは論理的にはおかしな考え方だとわたしは思うので す)

 また一概に、国民に正しく判断する能力がないと決めつけるのはどうか。

  ちょっと問題は違うのですが、有権者の能力とは別に正しい選択はしうる、というこ とを申し上げたいと思います。

原子力発電の問題の例なのですが、昭和五五年三月二 日のスイスの州民投票では、州に原発反対義務を負わせる州原子力法を承認する一 方、今回のスウェーデンのように、条件つきながらも賛意を表わしたものもありま す。

 一九七八年、オーストラリアでは、〇.九四%の差で否定とする結果が出、 また米国テキサス州オースチンの一九七九年の原子力発電所設計計画の賛否を問う住 民投票では、スリーマイルアイランドの原発事故があったにもかかわらず、原発推進 派がわずかではあるが勝利を収めております。

 もし原子力問題というものに世界 共通の正解が一つで、そのとき人類に正しい能力があれば国民投票の結果は一つとな るはずです。

逆に人類に能力がないとするするなら、すべて間違った選択をすると思 うのですが、現実の直接投票の結果が、選択肢が二つしかない(すなわち正解がその うちのどちらかにしかないとすれば)国民投票の結果が諾否に分かれているというこ とは、この問題で国民投票をした場合、間違った選択ばかりするというわけではない ことの証明にはなりましょう。

結果的に諾否の諾が正解か、否が正解かのどちらかな はずで、どっちかの国民や住民の選択が正解なはずです。

さらにこの問題を国会で代 表者たちに決めさせて、必ずしも国民投票より正しい結果を引き出せる保証があるか と言えば、なんら保証はないのです。

 どっちが正解の確率が高いか、という問題 にも答えようがありません。であるならば、わたしとしては自ら決定したほうがよい と考えます。

自ら決定したのではなく、代表者たちが決定したことが、間違っていた ら腹立たしいかぎりです。

 またこんな例もありますが、昭和五五年三月三日読売 新聞(夕刊)によると、スイスでは、国民投票で賛成八六%、反対一四%という大差 で、政府に経済統制権を与えることを決定したという特派員電を掲載していたのです が、これによると、国際緊張が高まるなかで、エネルギー・食糧など重要物資が、極 度に不足し、パニック状態に陥ることを予測して、連邦政府に経済活動の自由を制限 し、配給切符制度など、独自の裁量で実施できるようにしたというのです。

 少な くとも、この政治課題はかなり高度な政治課題だと、わたしは思うのです。
でもこの 程度の課題を国民投票で決定することも可能なのです。とすれば、一方的に国民投票 は「ごまかし」だ「判断能力がない」ときめつけるのは、そうとうに勇気のいること だと思います。

 能力問題でいうのなら、現在の国民の知的水準・能力で、代議制 なら運営しえて、直接制あるいは究極的民主主義ならだめだという合理的な論拠があ るのでしょうか。

 また、どのような能力が国民に備わったときに直接投票ができ るのか、明確な科学的根拠を示めさないかぎり、この能力問題は、代議制擁護者が一 方的に自分の都合のよいように解釈して持ち出す典型的な批判であり、こんな批判 に、わたしは賛意を示すわけにはいかないのです。国民がどんなに知的水準が向上し ても、基準がないのですから「まだである」という言い方ができるわけです。 ( リンカーンクラブ )

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