生方卓のページに戻る

「森は海の恋人」96生活者大学校の報告その2

「森は海の恋人」96生活者大学校の報告その2 
畠山重篤さんという人を御存知だろうか。北斗出版からだされている「森は海の恋人」という著作の作者で、宮城県は気仙沼で牡蛎の養殖をしている方だ。氏の話を聞く機会を得たのは今年の生活者大学校(井上ひさし校長)のことだ。大変に印象深い話だったので、早速氏の書かれた本を読んでみた。著者とその風貌、話振りを知っていると、活字の並びがずいぶん表情を持ったものに変わる。面白くて一息に読んでしまった。一言でいうと森の生命と川の生命、および海の生命は相互に補完しあっており、海を生かすためには山を生かす必要がある。山に広葉樹を植えることが日本の自然の再生につながるということを畠山氏は牡蛎養殖業者としての経験をふまえて訥々と語るのである。
北海道にニシンが来なくなった。なぜか。卵を産み付けるための昆布が消えてしまったからだ。なぜ消えたか。森が消え、昆布を育てる森の養分を川が運んで来なくなったからだ。漁師たちは海の豊穰さが森によって支えられていること、そして二つの生命が川によって結び付けられていることを知らなかった。
広葉樹の森の養分が川に流れ込み、この川の水が川沿いの田畑に引き入れられて穀物の肥料となる。他方では植物プランクトンを成長させ、この植物プランクトンが川の魚、湾の牡蛎や魚を成長させ、この牡蛎や魚が人間の糧となる。リサイクル(絶えざる循環)が成立するためには「成長した」人間が広葉樹の森を維持保全することが必要だ。
ところがその反対に、人間は広葉樹の森を潰して、あるいは材木のための針葉樹林に変え、あるいはゴルフ場に変えてしまった。針葉樹林に降った雨は森に保水されることもなく、養分も含むことなく、時には氾濫を伴いながら一息に海に下ってしまう。ゴルフ場と田畑からは、養分の替わりに化学肥料と農薬の溶け込んだ水が川に戻される。これでは魚や貝や海草が生きていけるはずがない。実際昭和の40年ごろを境にして気仙沼の魚影が極端に薄くなってしまったという。高度成長(昭和30年代後半)は財布を豊かにするかわりに、自然を、そして恐らく人の心をも貧しくしてしまったのだ。
畠山さんたちはこれではいけないと、なんと気仙沼湾に注ぐ大川の上流の山に植林をし始めたのである。「船頭多くして船山に登る」ということわざがあるが、漁船の船頭たちは大漁旗をかざしながら本当に山に登ってしまったのだ。彼らの「思い」も一緒に軽やかに山に登り、山の人たちは自分たちの生活様式と海との繋がりを考えるようになった。川の中流の農民たちも農薬を控えるようになった。山と平野と海とが一つのコスモス(宇宙)となった。この運動はさらに都会をも巻き込んでゆく。あそこの山の幸、里の幸、海の幸ならきっと安全でおいしいに違いない。そう思った都会の人々が植林の手伝いに来る。あそこの湾でとれた牡蛎を肴に、あそこの米で作った地酒を飲んでみたいと思っている男たちもでてきた。
気仙沼の「牡蛎の森」に触発されて九州では真珠の養殖業者が「真珠の森」を、函館ではホタテの養殖業者が「ホタテの森」を育て始めたという。
雨・川・沼湖・地下水・海・蒸発・雲・雨・・・・
結局、水の循環だ。そして水の循環をつかさどるのは太陽である。雨が大地を潤し、樹木を育て、樹木に浄化され、保水され、おいしい地下水や養分に富んだ川の水となる。川の水は魚を育て、田畑を潤し、穀物の養分となり、穀物を食べる人間その他の動物の養分となる。そして海に下ってさらに食物連鎖を媒介しながら昇天し、永遠に昇天と降臨を反復するのだ。
慶応大学は塾長が先頭に立って植林事業を始めたという。学生を育てるために「学生の森」を構想したというわけではないらしいが、私も常々「明治の森」を育ててみたいものだと思っていた一人だ。
大気が汚れれば酸性雨が降る。この雨は森を枯らし、魚を殺し、土を傷める。木は枯れるがその補充をするどころか、代りに山が削られ、樹が伐採され、ゴルフ場とリゾート地域にかわって農薬が撒かれ、さらに土と水が汚染される。水の循環による浄化の代わりに汚染物質の循環が完成される。
9月22日

生方卓のページに戻る