コラム



ストコフスキーとシベリウス

(ソーンヒル様ご提供です。)

ストコフスキ。言わずと知れたアメリカのスタ−指揮者。トスカニーニと犬猿の仲で、なぜかグールドと馬が合い、95歳で死ぬまで現役だった「怪物」。
しかしというか当然というか、イメージはすこぶる悪い。グールドが学生時代ストコを評価していて仲間から眉をひそめられたというのも無理はない。
日本では「俗悪」「内容空虚」「作曲家より前に出る」「音楽のセールスマン」等と多くの音楽評論家が語っていた影響もあったでしょうし、そのロマンティックで大袈裟な音楽性が時代遅れになりつつあるのも事実…?。
しかし、宇野功芳氏が言うように「彼の表現にはウソがない」のです。「芸術」っぽくしようとか「受け」を狙う事がなかった…自分が美しいと思うモノを自分の信じたやり方で表現したにすぎないのです。
 まず参考にストコフスキの略歴を
>1882 イギリスにて生まれる
>1909〜12 シンシナティo
>1912〜36 フィラデルフィアo
>1941  全米青年交響楽団設立
>同年〜46頃 ニューヨークフィル、ロスフィル、NBCso
>47〜50 ニューヨークフィル
>51〜 ヨ−ロッパ演奏旅行 ロイヤルフィル、コンセルトヘボウ、ウィーンフィル等
>55〜60 ヒューストンso/60フィラデルフィアへの帰還
>61〜 メトロポリタン.オペラ「トゥーランドット」、シカゴ響、ベルリンフィル
     への客演         

>62〜アメリカ交響楽団設立 同オーケストラを鍛えつつフィラデルフィア、ロンドンso
    等への客演
 65 来日 武道館で初のクラシックコンサート
 72 秋山和慶を後任に、イギリスへ帰る
>77 ラフマニノフ第2のセッション準備中に心臓発作。
    9月13日死去…

以下にストコフスキがコンサートで取り上げたシベリウスと北欧の作曲家で重要
と思われるものを列挙しました。
上のコンサ−ト目録と重ねて見て下さい、重大な事実(?)が現れています。
*1910シンシナティo……第1
*’12フィラデルフィアo…第2
*’14同上      …vn.con(リッチ)
*’17同上      …北欧音楽集
             スヴェンセン、シンディング、グリーク、
             ヤルネフェルト、
             シベリウス/悲しきワルツ、エン・サガ
*’21同上      …第5
*’26同上      …第7・第6
*’27同上      …北欧音楽集
             アッテンベリ(?)、アルベーン、ステンハンマル
             ペッテション=ベリエル
*’32同上      …第4
*’48ニュ−ヨ−クpo……ベルシャザールの饗宴(組曲)
*’49同上     ……ペレアスとメリザンド(組曲)
*’53ヘルシンキ シティso…シベリウス特集 フィンランディア、第1、
               ペレアスとメリザンド、第7
*’54ナショナルso……クラミ/カレリアラプソディ
*同年ミネアポリスso……クラミ/カレワラ組曲
*同年ストコフスキso……北欧音楽集 スヴェンセン、ヴァレン、Saeverud、グリーク
                  ヨハンセン(Jhansen!)
*’55 12月ヒューストンso …シベリウス特集
  (シベリウス90歳)        フィンランディア、トゥオネラの白鳥、
                     子守歌、カンタータ「大地への賛歌」、第2
*’57 10月 同上……第7(JSバッハ 来れ 異教徒の救い主よ、甘き死
   (9月 没)        よ来れ、 ワーグナー 「神々の黄昏」〜葬送行進曲と
                ブリュンヒルデの自己犠牲)
                ☆どっちかいうとブルックナ−向きでは…
*’62フィラデルフィアへ復帰…第2 ’64に第4
*’71クリーブランドo…トゥオネラの白鳥(アメリカでの最後のシベリウス)
 さて
キャリアの前半にある程度固まっているのがお判りでしょうか?それも、36年まで在籍したフィラデルフィアに集中しています。              
これは何を意味するのでしょう?
フィンランディア、悲しきワルツ、トゥオネラの白鳥、テンペスト〜子守歌、はほとんど毎シーズン数回演奏していたにもかかわらず、フィラデルフィアと決別したのを境にパッタリとやらなくなります。                
その後 数年の放浪時代、自ら創設した全米青年響、NBC響ともゼロ回、かろうじてニューヨークフィルと数回。この時期を”ストコのシベリウス空白域”と呼ぼう(?)   
久しぶりの長期就任が期待された”二流オケ”ヒューストンso(ここの理事会はヒューストンを第2のフィラデルフィアにして欲しかったらしい…それはストコにも無理だったのだが…)では最初のシーズンに特集を組んでいる、
タイミングからシベリウス90歳を記念してのことでしょう、ストコフスキ自身まだやる気があった頃。(この後現代音楽を取り上げたがるストコと理事会が衝突、結果ストコはシラケてしまいベートーヴェンやブラームスをイヤミのごとく投入することに…困った人だ)
57年追悼の第7以降再び空白となる、まるで興味を失ったかのように…
そして、フィラデルフィアと再会して2年後62年に第4、64年に第2と、その間 取り上げなかった大曲が復帰、この頃から少しづつシベリウスが戻って来る。興味がなくなったわけではなかったのです。
つまりストコフスキは、フィラデルフィアにあって他に無いものがあった、と考えていたのではないでしょうか。   
それは「弦の音色」だった、と私は考えます。「フィラデルフィアサウンド」が主にそのビロードのごとき弦の音を指していたことを思うと、ストコフスキがシベリウス演奏に際して弦楽器の重要性を強く意識していたとは言えないでしょうか。
ベートーヴェン、ブラームス、そしてワーグナーよりも・・・もちろんそれがシベリウスに合っているかどうかは別として…。

それでは、レコーディングでのシベリウスはどうだったのでしょう?
残念ながら現在手に入るCDは、東芝EMIの「ヒットコンサート」に含まれるフィンランディアとトゥオネラの白鳥、2曲のみ。
あとはヒストリカルレーベルから、第4、第7、悲しきワルツが出ていますが、 最も良いと思われるのは50年HISso との第1+悲しきワルツ、子守歌(未CD化)
非常に引き締まった厳しい演奏で、ストコフスキを甘いロマンチストとしか思わない人々に聴かせたいレコードです。(ジャケットはシベリウスと握手している写真 たぶん53年に訪れた際のものでしょう)
一方 ストコ節全開なのは同レコードにカップリングされている悲しきワルツ。
全編テンポルバートとポルタメントの嵐で、原曲(思わずこう書いてしまう)の寒々とした哀感はこれっぽっちもありません、非常に妖しく、恐ろしい。最後の3音など鳥肌ものです。
ただ、どの演奏もシベリウスよりストコフスキの個性が勝っている為、曲を楽しむというよりはストコの芸を堪能するといった趣になっているので、シベリウスファンにはお薦めできないかもしれませんね。
ストコフスキの演奏は、そのキャリアのスタートがオルガニストだったことにも関係があるのですが、音を塊として捕らえ、必要に応じてスポットライトをあてるという手法が目立っており室内楽的書法に近いシベリウスには、合わない所があるといえましょう。
加えて弱音を重視しないこともシベリウスには特に不利です(そういった手法はワーグナーに適しているようです。シベリウスはワ−グナーから影響を受けながら めざした世界が根本的に違っていた、ということが思いだされます)
しかしながら、ストコフスキの演奏には、もしかすると本当はこういう曲なのでは? と思いたくなる程の説得力があるのも事実なのです。(フランクの交響曲はお薦めです。最初に聴くのは危険ですが…)

録音が少なくCD復刻もおくれている現在、ストコフスキのシベリウスを知ってもらう手だてはとても少ない。CBSが再晩年の録音をCD化してくれればステレオでの第1が日の目を見ることになるのですが…それも希望薄…でしょうか?
近年の再評価で(ファンにとっては有り難迷惑な論調も…て贅沢かな)これらの復刻やライヴ音源が”きちんと”CD化されることを願います。

(データはJ. Hunt Stokowski Discography・Concert registerを参考にさせていただきました)

シベリウスの劇音楽について

(sugimoto様、ご提供)

 シベリウスの劇音楽は、内容的にも重要な作品が多く、シベリウスの音楽観を探る上で決して外せないジャンルであります。ところが、劇音楽作品の多くがレコーディングされておらず、無論、演奏会プログラムにも登場することもありません。
 理由として考えられるのは、有名な「クオレマ」と「ペレアスとメリザンド」の2作品は純粋な劇音楽としてではなく、組曲もしくは管弦楽曲として改編されているため、演奏しやすいからだと思います。反対に、2作品以外は、朗唱と管弦楽、あるいは朗唱と混声合唱と管弦楽と言うように、管弦楽形式としては、一般的な構成ではなかったからだと考えます。
 しかしながらシベリウスの劇音楽は、単なる劇の付随音楽だけではなく、それだけでも演奏会用に使えるくらい充実した内容を持っており、また全曲版には、組曲版で省かれた小品も含まれており、チャイコフスキーのバレー音楽が演奏会用として全曲版が演奏されるように、シベリウスの劇音楽も高い芸術性を持った作品であるという事が、多くのシベリウス研究家の著書からも窺い知れます。
この様に、高い芸術性を持った劇音楽で有りますが、先ほどの「クオレマ」と「ペレアスとメリザンド」以外演奏会場で聞くことは 稀であり、現状ではCDによる鑑賞方法しかありません。ところが、残念なことにメジャーレーベルから劇音楽を中心に録音されることは非常に少なく、「森の精」OP15などは、BIS以外リリースされておりません。
 そこで、ほとんど演奏されることの無い、これらの劇音楽を意欲的に録音を進めている、北欧のレコードレーベルから番号付き劇音楽9作品を紹介しました。

*「とかげ」OP8 ユハ・カンヴァス/オスロヴェニアン室内管弦楽団  Finlandia 4509-98995-2

 ヴァイオリンソロを含む弦楽オーケストラで演奏される20分弱の曲で、全体に北欧特有の暗く陰鬱な雰囲気が漂う、後半少し明るい旋律になるが、変化は少ない「カンツォネッタOP62a」に感じが似てなくともないが、ロマンチックな雰囲気を期待して聴くと、少々ガッカリする。

 *「森の精」OP15 オズモ・ヴァンスカ/ラハティ交響楽団 BIS CD-815

 この作品は、1894年シベリウス29才のときにメロドラマ「森の精」のために作曲された作品で、トランペットのフアンファーレで始まる主題が演奏され、森の神(タピオ)を中心に妖精の娘、魔女、美しい女達が愛の饗宴を繰り広げる・・・・とまあ内容は、クッレルヴォ交響曲で表現した、愛国民族主義的な内容で、この作品は聴衆を魅了したにもかかわらず、スコアーが原因不明で行方不明となった。(そのため多くのシベリウス関係の図書にも作品リストに載っていない)ところが、1998年BISの社長フォン・バール氏により偶然発見され、世界初演録音されたのが、当CDであります。何故行方不明と成ったのか?・・・私の推測ですが、2つ考えられる。まず当時外国人がクッレルヴォ交響曲のフィンランド性を軽蔑するのを恐れて、シベリウス存命中は演奏禁止したように、「森の精」も同様に隠した。もう一つは、シベリウスが自作の作品を評価されるのを、その芸術性よりも当時フィンランドのおかれていた国際情勢の影響で、評価されるのを嫌った為と思われます。いずれにしろ、内容は先ほど申し上げた通り愛国民族主義的な内容であるが、随所にロマンティクな旋律が使われており、朗唱を伴う管弦楽の使い方はシベリウス初期の特徴が楽しめる。

*「クリスティアン王二世」 オズモ・ヴァンスカ/ラハティ交響楽団 BIS CD-918

 アドルフ・パウルの同名の劇につけられた七章から成る曲で、第1章は、静かに始まる弦楽は美しく、クリスティアン王の不幸な生涯を悲哀感溢れる演奏である。第2章は、有名なクラリネットが奏でる軽妙で美しい旋律が随所に出てくるロマンチックな曲である。第3章は、弦楽のみで演奏される、北欧の幻想感をピチカートで絡めて表している。劇中、宮廷道化師が歌う「愚者の歌」は素晴らしいが、当盤では演奏のみとなっている。第4章は、夜想曲で、バリトンの独唱つき弦楽演奏となっており、静かに弦楽が伴奏するなかクリスティアン王の悲劇を語るところは、是非フィン語をマスターして聴きなおしてみたいと思うほど素晴らしい。第5章は、セレナーデで、この作品中最も長い(6分強) この章からシベリウスらしい湖面の波間を泳ぐような旋律が表れ、組曲版にも取り入れられたメロディーは作品の中でも一番聴き応えがあった。第6章は、バラードで、シベリウス初期の息の長いロマンチックな旋律を聴かせてくれる。弦楽主体で演奏される旋律は、管が部分的に使われ、聴いていて思わず胸にグッとくるものがある。 最終7章は、アレグロ・モルトで始まる力強いリズムで、管と弦が掛け合いながら劇のフィナーレにふさわしい演奏を奏でる。
 余談ですが・・・この作品を聴いて思い出したのが、ノルウェエーのヨハン・ハルヴォルセンが作った劇音楽「グレ」です。この作品もデンマーク王ヴァレマーの悲劇を題材にしている関係で、雰囲気が良く似ている。

*「雪の平和」OP29 エリ・クラス/フィンランドナショナル管弦楽団・合唱団 ONDINE ODE-754

 リンドベルグの劇のために作曲された作品で、管で始まる前奏に続き、合唱を伴う管弦楽が全編を占める。ただ「とかげ」同様シベリウス色は薄い。後半のトランペット伴奏による女性朗唱のパートは、美しくも悲しい雰囲気がする。この作品は、演奏時間の割に、多種の声楽要員が必要で、一般的な演奏会プログラムには不向きと感じる。

*「ウレア河の流氷」OP30 オズモ・ヴァンスカ/ラハティ交響楽団 BISCD-1115

 いきなり朗唱と管弦楽で始まり、CDのトラックを間違ったのか?と思ったくらい唐突に始まるこの作品は、完全な劇場音楽で、朗唱付き管弦楽が終われば、合唱付きの管弦楽でフィンランド愛国歌が朗々と歌われ終了する。ただし、合唱付き管弦楽は管弦楽パートのレベルが高く、合唱の伴奏にもかかわらず管弦楽の方が目立ってしまう現象があった。内容的には、フィンランド賛歌一色であるが、旋律はシベリウスそのもので、力強く、シベリウスがいかにフィンランドを愛していたか 感じられる作品である。

*「ペルシャザールの饗宴」OP51 オズモ・ヴァンスカ/ラハティ交響楽団 BIS CD-735

 オリエンタルムードで始まるこの曲は、シベリウスにとっては非常に珍しい曲ではなかろうか、最初の前奏だけ聴くと、R・コルサコフかボロディン作と感じたほどだ。しかし、直ぐフルートソロに移り、アラビア風は微塵も無く北欧風旋律が続く、4曲目は、再びアラビア風のリズムが出てくるが、これも直ぐ終わり、北欧風のフルート独奏付きの管弦楽に入るが、短いながら美しい調べである。5曲目は、管弦楽によるコルン・ゴールドばりの映画音楽のようなドラマティックな旋律で演奏されるが、シベリウス色は薄い。9曲目から11曲目までは、シベリウスの特徴が十二分に出ており、聴き応えのある作品である。

*「白鳥姫」OP54 オズモ・ヴァンスカ/ラハティ交響楽団 BIS CD-815

 組曲版は、比較的有名であるが、全曲版は当CDが唯一の録音で、全3場16章の堂々たる作品であります。随所に珍しい小品が組み込まれており、聴く者に驚きと感銘を与える26分であった。内容的には、第1場のラルゴで始まり、1章から3章までは組曲でも聴き覚えの有る旋律で、劇の前奏にふさわしい雰囲気を盛り上げる。4章から10章は、第2場で演奏される曲で、ヴァイオリンソロの入った静かな曲である。ちょうどチャイコフスキーのバレー「眠れる森の美女」を連想させるような、甘美で、美しい局である。特に6章のレント、7章のアンダンティーノは弦楽によるロマンティックな曲で、白鳥(姫が魔法によって白鳥にされている)が、物悲しく湖面を静かに泳いでいる光景が見事に表現されている。11章から第3場に入るが、有名な旋律で始まるアレグレットは、全曲版ではじめてこの曲の素晴らしさを味わえたような気がする。14章は、フィナーレにふさわしい優美な曲で、オルガンをフィチャーした荘厳な演奏で劇を締めくくる。私は何故この曲を組曲に改編したのか?今ひとつ理由が分からない、当CDを聴く限り断然全曲版の方が良いと感じるからである。

*「だれもかれも」OP83 オズモ・ヴァンスカ/ラハティ交響楽団 BISCD-735

 最初は独唱付き管弦楽で始まり、比較的明るい感じであるが、劇の内容か・・・12曲目から13曲目のテンパニーで切れ目無く演奏され  るアダージョは、いささか眠気を起こさせる。14曲目は、オルガンが入った管弦楽のパッサカリアで、他の劇音楽には無い珍しい曲である。続く15曲目以降は、静かな旋律が続くが特に注目すべき曲は無かった。この作品も、「森の精」同様、世界唯一の録音ではないか、ただ作品の知名度の低さもさることながら、内容的に起伏が乏しく全体的に暗い雰囲気で、葬送曲風の旋律が続くこの曲を録音したBISのこだわりに拍手を送りたい。

*「テンペスト」OP109 ユッカ・ペッカ=サラスティ/フィンランド放送交響楽団 ONDINE ODE-813‐2

 この作品も劇音楽としては有名だと思っておりましたが、調べてみますと以外にも録音が少なく、メジャーではトマス・ビーチャムと渡辺暁雄位でしょう(それも組曲版)。他は北欧レーベルしかないでしょう。ネーメ・ヤルヴィとサラスティが全曲版を録音しておりますが、サラスティ盤は声楽部分をオリジナルとおりデンマーク語で歌われており、「テンペスト」のベスト盤であると思います。さて、この作品は劇音楽の集大成だけあって、音楽的にもバロックからストラヴィンスキーの新古典風まで様々なスタイルを取り入れているしかもそれらの技法を強い一体感で結び付けているには、シベリウスの管弦楽手法の偉大さであろう。全34曲の内、最初の荒れ狂う海の情景描写が素晴らしい序曲から始まり、メゾソプラノ独唱付き管弦楽や、バリトン・テノール独唱付き管弦楽あるいは管弦楽のみ等々と正に管弦楽スタイルのオンパレードである。また旋律も、古典風があるかと思えば、田園風があったりして楽しめる。10曲目「エアリアルの第3の歌」、12曲目「ステファーの歌」、24曲目「デイリアスのメロドラマ」、25曲目の「ジューノの歌」、34曲目「行列・エピローグ」の5曲は、初めて聴く曲で、非常に吟味されて作曲されたのか非常に素晴らしい曲であった。ちなみに、この作品はシベリウスの葬儀の際演奏されたことでも有名である。

 以上番号付き作品9作品を紹介しましたが、シベリウスの劇音楽は交響曲や管弦楽作品とは一味違った趣が感じられます。形式にとらわれない自由な発想で作られた劇音楽は、ある意味で最もシベリウスらしさが出ているかも知れません。





楽譜から見る、シベリウスの作品の特徴

管理人、Johansenによるコラムです。

私は、オーケストラでクラリネットを吹いていますので、シベリウスの作品は数曲演奏したことがあります。現在はアイノラ交響楽団というシベリウス専門オーケストラに入っています。聴くのと実際に演奏するのと、結構違いが感じられたり、演奏しているうちに、新たな発見があったりと、なかなか興味深いです。

そんなわけで、オケでの演奏を通じて、感じた、シベリウスの作品の特徴を少しずつ書いていきたいと思います。このコラムは、順次加筆して発展させていきたいと思います。

まずは、シベリウスのオーケストラ作品全般にみられる特徴をあげてみます。

全体的な印象

全体的に息の長い旋律が多い
強拍、弱拍、および小節の区分がいくぶん曖昧模糊としている。(何分の何という形に収まり切れていない)

全体的にこのような印象があります。強いアクセントとともに旋律が始まることはあまりなく、静かにふっと入って、伸びやかな旋律を奏でるということが多い気がします。例:交響曲第1番4楽章第2主題、交響曲第5番3楽章第2主題

また、小節線で拍子が割り切れないことが非常に多いです。演奏していて、どこが1拍目なのかがさっぱり判らなくなることがあります。いわゆる、西洋音楽の基本である1拍目に(リズムの根底となる意識の上での)強拍があるということに反する場合が多いです。例:交響曲第5番、1楽章スケルツォ主題、交響曲第1番、3楽章

交響曲第5番のスケルツォでは、図で赤線で示したように、小節線が区切られているように聞こえますが、実際にはこのようになっています。クラリネットパートの場合。四分の3からがスケルツォ。


Quoted from Sibelius;SymphonyNo5 clarinet part(1st) (C)Wilhelm Hansen

また、どこか、小節に収まり切れていない印象を受けるものとしては、フィンランディア後半のフィンランディア賛歌の部分があります。小節どおりのリズムの取り方で演奏すると、どうしても芋臭い演奏になってしまいます。フィンランドのオーケストラが演奏すると、この部分は非常に横に流れるイメージが強く、拍子が感じられにくいです。これはシベリウスが、意図して(わざと)このように書いたのか、それとも、頭に浮かんだ旋律を、楽譜に書いてみたらこのようにしか書けなかったのか、私にはわかりません。ただ、小節線っていらないんじゃないの?と感じることは結構ある気がします。

以上のような印象から、私が感じるのは、シベリウスの作品が、非常に非西洋的なものを持っているということです。誤解を恐れずにいれば、東洋的、あるいは日本的なフレーズ間に非常に近いものがあると思います。日本の音楽の中には、拍節感が感じられない作品がたくさんありますが、どこかそれらとつながっているように思います。

音楽におけるリズムやフレーズ感は、その国の言葉の言語と非常に密接に結びついている気がします。日本の音楽が、どこか曖昧模糊としているのは、その言葉のもつリズムや特徴に影響を受けているように思います。だとしたら、フィンランドのシベリウスの音楽はフィン語および、その近隣の言語の影響を強く受けているのではないかと思われます。

フィン語、日本語ともウラル語圏に分類される(ただし、日本語はちょっと無理矢理の感もありますが)ため、どこか、共通した特徴があるのでしょう。

残念なことに、私はフィン語がさっぱり判りませんので、このあたりを正確に検証できません。
しかしながら、やはり、ぱっと聴いた感じでは、どことなく曖昧な、アクセントや拍子が感じられにくい言語であるという感じがしています。

各パートの印象

弦楽器

細かな刻みやトレモロが多めである。
後期作品では、同一パート内でもさらに細分化されることがある。トレモロが多いという作曲技法からはどこか、ブルックナーのイメージを引きずったところがあります。一方で、初期の作品はロシア音楽からの影響もかなり強いように思います。
パート内でさらに音を細分化するのは、後期のシベリウスの音楽に非常によく見られます。これにより、神秘的で内省的な音が作り出されているように思います。その一方で、オケ全体としては、なりにくいオーケストレーションであると思います(チャイコフスキーなどロシア音楽とは正反対。隣国なのに・・・)。しかし、そのなりにくさ故、透明でささやくような音楽が作り出されているのだと思われます。

木管楽器

1,2番奏者がオクターブで重なることが非常に多い。
パートごと2人ずつのソリが多い
基本的にむちゃくちゃな音型は書かない。
それほど高音を使わない
ファゴットが活躍

木管楽器としては、オクターブ重ねが多いというのが、ほかの作品とは大きく異なるところです。クラリネットは特にその感が強いです。しかもtuttiの中ではなく、ソリとして目立つところでこのような音型が多く出てきます。オクターブ(八度)による和音は、幾分土俗的で粗野なイメージを与えます。フィンランド民謡やカレワラの歌い方とどこか通じるところがあるような気がします。
木管楽器的には演奏不可能は音型は非常に少なく、比較的シンプルな構成になっています。シベリウスはヴァイオリン弾きでしたから、木管楽器の用法には、どこかぎこちない点もありますが、以外と難しくないイメージがあります。

金管楽器

Fp+クレッシェンドという音型が多く見られる

これは至る所にでてきますね。西洋音楽ではタブーのような音型ですが、シベリウスのトレードマークの一つですね。交響曲第四番にはこの音型が多数見られます。

ほかにも、エン・サガとかフィンランディアとか・・・あげればきりがないですね。

また、総じて、金管楽器はコラール的な用いられ方をすることも多いです。このあたりはブルックナーからの影響が強いのでしょうか。

打楽器

ティンパニは持続音が多く、低音を支えることが多い。
シベリウスのティンパニは、オケの低音を支える貴重な存在ですね。
特殊楽器は少ない
トライアングルやシンバルでさえ、それほど使用頻度は高くないですね。また、スペイン関連の音楽にはカスタネットを用いることが多いようです。

ひとまずこんなところでしょうか。またまだ、加筆していきます。今後様々な作品を演奏していく上でイメージが変わることもあるかもしれませんが、現時点では私はこのような印象を持っています。


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